第二話 レオ、不毛の大地を想う
そこは、ヴァイツゼッカー帝国学院の学生寮の一室、今や金貨王として絶大な支持を得ているアルベルトの居室である。彼はソファに腰かけ、対面に座る愛しの婚約者とのお茶を楽しんでいた。
あの精霊祭から数日が経っていた。直後の日々は自身の進退についてや婚約者の公表などいろいろ忙しかったが、いずれ本編で書かれるかもしれないので割愛する。
どんな騒ぎもなんだかんだで一段落するもので、日常に戻ってきた、いや今までの日常よりはるかに輝いている、言うなれば日常(光)に戻ってきた彼は、その輝きの源である、婚約者の無欲の聖女レオノーラとの時間をとても大切にしていた。彼女自身が進んで婚約することを選んでくれた。人生の苦楽を共に歩んでくれると言ってくれた。
関係を一歩進めたいと思っていたアルベルトにとって、レオノーラ自身の選択は、非常に喜ばしいものだった。
それからアルベルトは事ある毎にレオノーラを誘った。婚約者という大義名分を得た以上、多少は我慢しなくてもいいのではと、若いアルベルトの想いも理解出来る。
今回のような私事の茶会などはもちろん、公式行事にすら同伴することもあった。
(彼女は、なんて美しいのだろう)
カップを片手に、対面の婚約者を見つめてしまう。彼女は先ほどからやや落ち着きが無く、そわそわしているかの様に見える。彼に愛を告げたときの堂々たる様は鳴りを潜めているが、今のように婚約者であるアルベルトの前で、緊張で照れている様子も愛らしい。
容姿に見惚れて言葉を失うなど、年若い令嬢方の若さゆえの過ちかと思っていたが、アルベルトは考えを改めざるを得なかった。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグは、それほどまでに美しい。
腰まで流れる黒髪は黒檀の輝き。小さく幼い、だが整った顔には全てを見通す美しい紫の瞳と、小さな鼻。柔らかそうな頬と愛らしい唇は、薄桃に色づいている。
まだ女性を感じさせない身体をサバランのドレスが包み、だからこそなのか、その神秘性を際立たせ、まるで光の精霊の様である。
奇跡と表現することすら陳腐に聞こえるその姿は、見た者の心までもを確実に捕らえる。そして、彼女の無垢で、高潔で、清純な精神に触れることで、己の心が試されている事を思い知らされる。そこで這い上がれるか否かが、その人間の器なのである。
アルベルトは、レオノーラの心を通じて己を見直す機会を得た。自己犠牲などとつまらない結末を選択せず、共に未来へ歩めるのは彼女のおかげだ。彼にとって、レオノーラは無くてはならない存在になっていた。それこそおそらく、初めて逢った時から。
(うおおおおおお、見てるよ。皇子がめっちゃこっち見てる。やっぱ婚約者に収まったのが拙いんだろうなあ)
レオは恐怖した。否、恐怖し続けていた。
精霊祭の日にうっかり婚約者に内定してしまってから、皇子がこちらを気にする機会が増えたのだ。それも当然だろう。勝手に婚約者になってしまったのだから、彼が自分を許せるはずもない。しかも、皇族の婚約者だ。いくら当事者といえども、そう簡単に害せなくなってしまった。レオを捕まえたくて仕方がない皇子からすれば、出し抜かれた様なものだ。
あの日以降、事ある毎に傍に置こうとするのは、監視の意味があるのだろう。そうでなくても顔割れしてしまったのだ。どこに居ても皇子の耳に届く現状は、レオにとって、今までにないほどのピンチである。
にも拘らず、誘いを断れない。婚約者であることがレオを救うと同時に縛り付けてもいるのだ。なんと因果なことか。
(沈黙が怖え。何か、せめて何か会話を……)
レオは部屋を見渡し会話のきっかけを探す。これが商品を売り込むためならば、いくらでも言葉で財布の紐を緩めることも出来るのだが、なにせ相手が悪い。
皇子は機嫌が良いときは、賠償を見逃してくれたり、賠償を肩代わりしてくれたり、金貨をくれたり、金貨をくれたりするのだが、機嫌が悪い時は、相手の関節を外す癖があったり、相手を魔力で叩き潰したりする趣味があるのだ。なんと恐ろしい。
「あれ?」
レオノーラの口から可憐な声が漏れる。性根と反比例してるんじゃないかってぐらい美しい声だ。もとの中身がレーナであることを考えると、あながち間違っていないかもしれない。
「どうしたんだい? レオノーラ」
すでにこの部屋には、何度か招待してる。今更、目を引くようなものがあっただろうか。アルベルトはレオノーラの視線を追いかけ、何を見つけたのか知る。
そこにはヴァカの花束があった。先日オスカーが持ってきたのだが、幼いレオノーラは意味を知らないだろうと放置していた物だ。
「皇子、あれ、ヴァカの花、ですね。皇子に、必要、ありますか?」
「レオノーラ、君は、あれが何に使われるのか知っているのかい?」
「はい。下町に居た頃、使ってる人、いました」
「……っ! すまない。すぐに片づける」
アルベルトは急いで席を立ち、部屋の隅に置いてあったヴァカの花束を収納スペースにしまう。もうほとんど投げ捨てる勢いだ。
ヴァカの花には消臭の効果がある。焚けば部屋に、塗れば人体に。
本来ならば風呂に入れなかった場合のエチケットとして利用されていたのだが、水道や井戸が皇地や貴地に行き渡ってからは、あまり使われなくなっていた。そしてもう一つ、オスカーが持ってきた理由がある。部屋や体臭に効果があるので、恋人や夫婦の共同作業の後始末に便利なのだ。
詳しくは控えるが、まあそういうことで、転じて、恋人や新婚夫婦にヴァカの花を贈るのは、「子作りを励んでね」という直球かつ品のないメッセージが込められた、ブラックジョークなのだ。ちなみに、あまり親しくない相手に送るのは、かなり失礼にあたる。
アルベルトが、幼いレオノーラが知らないと思ったのも無理もないことなのだが、まさか知っていたとは失態である。
「まったく、オスカーの奴め、励めなどと……」
小さく呟きながらソファに戻ってくるアルベルト。
(え? いま皇子、なんて言った?)
レオにはアルベルトの呟きが聞こえていた。
例え、壁の向こうだろうと、落ちた小銭の種類と枚数を聞き分けられるレオイヤーは、皇子の小さな声をそこそこ拾っていた。そこそこね。
(オスカー先輩のことを、禿げめ!って!?)
ヴァカの花には増毛の効果がある。焚けば頭皮に、塗れば毛根に。
本来ならば風呂に入れなかった場合のエチケットとして利用されていたのだが、そもそも平民はあまり風呂に入らない。汚れても濡れた布で拭くぐらいで、風呂はたまの贅沢に共同浴場に行くぐらいなのだ。
どこで誰が言い出したのかは不明なのだが、下町では増毛に効果があるとして、頭髪の不自由な方々の救世主として取引されている。効果のほどは、ほどほどらしい。無いと言い切れないところに希望か、あるいは悪あがきが見える。
当然、レオが知っていたのはこちらの効果であり、消臭効果の方は知らなかった。
(まさか、ヴァカの花をオスカー先輩に送り付けて、秘密を知っていると脅すつもりなのか?!)
なんて恐ろしい。事業の共同経営者にまで脅しをかけるなんて、どれだけ我欲が強いのだろうか。
(あれ、そう言えば、あの今までリヒエルトの治水を担ってたいう、禿げなんとかさんはどうなったんだ?)
オスカー先輩ですらこの有様なのだ。商売敵である禿げなんとか貴族様は、あの精霊祭の後、どうなってしまったのだろうか。これは非常に重要な問題である。レオ自身の進退を図る上で貴重な例だ。
「そういえば、皇子。精霊祭の時の、貴族様は、どうなった、ですか?」
戻って来てソファで茶を飲んでいたアルベルトは、予想もしていなかった人物に関する質問に、一瞬思考が止まる。
「え、ハグマイヤー卿の事かい?」
「はい。そのハゲマイヤー様の、ことです」
「……なぜ?」
「心配、なのです」
アルベルトは、ワインをかけてきた相手ですら心配する婚約者の、その高潔な心に感銘を受ける。人間がここまで人を想い愛せるのかと。引き換えて自分の未熟さを悔いる。いずれ皇帝として君臨するのだ。あんな奴でも臣民である以上は、その身に責任を持たなければならない。だが、まだアルベルトには彼の様な人物を心配することは出来ない。
もちろん出来なくて当然で、レオが心配しているのは自分の進退だけだ。万が一、ハゲマイヤーの処罰が軽ければ、自分の身の振り方の参考になるかもしれない。
「……彼は、投獄したよ」
「え」
「仕方がないんだ。あの場の事だけならば、こちらのさじ加減でどうにでも出来たが、彼は貴族の義務を怠った。それどころか民の権利も侵した」
レオは驚愕した。恐怖した。
ある意味、予想通りであり、最悪でもある。
やはりあのハゲマイヤーさんは捕まってしまったのだ。こうなってくるとレオの番も、案外すぐなのかもしれない。
青ざめるレオノーラを見て、アルベルトは笑顔で言葉を続ける。
「しかし、こちらも彼に対しての越権があったから、その分を差し引いて、それほど重い罪にはならないハズだよ」
アルベルトは思う。やはり彼女は聖女と呼ばれるに相応しいと。誰であれ、まるで我が事のように思えるのは、もはや才能だと。まあそもそも、今のレオは我が事しか考えていないのだが。
レオは、皇子の説明を早い段階から聞いていなかった。話の内容にショックを受けた為だ。具体的には投獄したと聞かされた以降、つまり全部だ。
(皇子えげつねえ、商売敵を皇子の権力を使って投獄するなんて)
皇子の説明を聞き逃した以上、レオの価値観は売るか買うだけだ。商売敵という事実から投獄に結びつけるには、皇子が専横であるということにしかならない。
(そもそも、同業他社があるなら、後発の俺たちは挨拶の一つでもするべきだったんじゃないのか。存在を黙っていて、表ざたになったら投獄とか、怖えよ)
例えば下町でパン屋を始めるならば、近所の既存のパン屋に、挨拶の一つでもするのが礼儀である。商売敵は敵であると同時に同志なのだ。結果的に片方が潰れたとしても、それは商売の結果であり、少なくとも皇族の権力を乱用していいハズがない。
(どうする? こうなったら俺だけでも挨拶に行くべきか? たしかにいけ好かない禿げだったけど、道義を無視するのは違うよなあ)
相手が嫌な奴だからといって、自分まで同じところにまで落ちる必要はない。もし、この件がハンナに知れたら、どんな罰が待っているか考えるにも恐ろしい。
やはり挨拶は大事だ。挨拶をしなくていい理由など無い。残念ながら、そう結論付けてしまったレオは、ハグマイヤーに会いに行くことを決める。
そもそも、具体的に指摘するのが億劫になるほど、何もかもが間違っている頓珍漢な結論なのだが、間違いを正してくれる人の心が読めるエスパーはいない。一つだけ正しいことを挙げるならば、挨拶はやっぱり大事である。みなさんこんにちは。
問題は、どうやって会いに行くかだ。レオが貴族としての常識を持っていれば、上級貴族が投獄される場所を知っていたはずなのだが、貴族歴数か月のレオにそこまで知ろというのも酷だろう。貴族の常識を知っていれば、ハグマイヤーに会いに行こうなどと思わなかっただろうが。
知っていそうな人物に心当たりはある。皇帝皇后両陛下や、ハーケンベルグ侯爵夫妻だ。もしかしたらビアンカやナターリアも知っているかもしれないが、さすがに年頃の女性に牢屋の場所など聞けない。レオはお金が絡まなければ普通の感性の持ち主なのだ。
しかし、だからと言って前述の両陛下や侯爵夫妻にも聞けない。彼らは茶会に出席していたのだから、ハグマイヤーの蛮行を見ている。会いたいと言って会わせてもらえるとは限らない。
皇子との茶会を済ませた後、レオノーラは部屋に戻っても悩んでいた。ハグマイヤーの話題が出たときから口数の少なくなったレオノーラをアルベルトが心配し、早めにお開きにしたのだ。そんな皇子の心遣いに気付くこともなく、早く終わってラッキーぐらいにしかレオは思っていなかったが。
部屋に戻ったレオを出迎えたのは、当然従者のカイだ。彼は皇子の部屋まで主を送った後は、そのまま主の部屋に戻り、帰りを待っていた。さすがに婚約者との逢瀬を邪魔は出来ないし、相手が皇族ではどのみち立ち会えない。
言えばアルベルトは許可しただろうが、カイは、そこで出しゃばるような不出来な従者ではない。不出来なのは他の部分で、それも当主であるハーケンベルク侯爵には喜ばれている。もうすでに黒檀と何百回書いただろうか。
カイは優秀な従者なので、帰ってきた主が悩んでいることにすぐに気づく。ただ、それは嫌な雰囲気はないので、例えば皇子との茶会が失敗したなどの、悪い悩みではなさそうではあるが。
「レオノーラ様、先ほどから様子がおかしいですが、何か悩み事でもおありでしょうか?」
「え」
「あ、いえ。差し出がましい事を申しました。お許しください」
主の力になりたい。その純粋な重い思いがカイを突き動かしたが、明らかにやりすぎた。求められていないのに口を出すなど、従者失格である。
(そうか、カイならもしかしたら知ってるかもしれないな)
弟分として可愛がっている――少なくともレオはそのつもりだ――カイは、貴族の従者として教育を受けている。具体的には知らなくても、何かしら答えられるかもしれない。何より今そこにいるし、聞くだけなら、ただだからな。ただ、何て甘美で蠱惑で妖艶な響きなのだろうか。閑話休題。
「カイ、聞きたい事、あります」
そういってレオは、具体名は出さず、上級貴族が捕らえられた時の処遇について尋ねる。カイは妙な質問だとは思ったが、そもそも我が偉大なる主の思惑を、自身が理解出来るはずも無いと思っているので、疑問は横において素直に答える。
結果レオが得られたのは、上級貴族は王宮の地下に作られた特別な牢屋に入れられるという情報だった。
(王宮の地下か、どうすっかなあ。王宮は自由に出入りして良いって言われてるけど……)
あの精霊祭の日以降、王宮へのレオノーラの出入りは完全フリーパスになっていた。皇子の婚約者なのだから当たり前ではある。さすがのレオもその辺の事情は把握していた。
牢屋の場所は分かったものの、おいそれと出向けないので、さあどうしようかと思案しつつ夕食から就寝の準備を始めていた時、レオには想像もつかない事が同時進行で起こっていた。
レオから相談を受けたカイは、特に口止めもされなかったことから、主の様子と合わせてその日の内にハーケンベルク侯爵夫妻へ、問い合わされた内容を、鳩を使い伝えた。
精霊祭の事件を知っているハーケンベルク侯爵夫妻は、カイからもたらされた情報から、レオノーラがハグマイヤー伯爵に会いたがっていると当たりをつける。心配はあるものの基本的にレオノーラを信頼している夫妻は、協力を要請するためにその日の内に王宮の両陛下へ手紙を送る。
ハーケンベルク侯爵夫妻から手紙を受け取った両陛下は、精霊祭の様子からレオノーラの手腕に期待しているが、実際に会話を交わした回数が少なかったので、情報の真偽を確認するために、一番レオノーラを知っているであろうアルベルトに、その日の内に迎えを寄こす。
婚約者との逢瀬後に夕食、授業の予習復習を済ませ、さあ寝ようかとしたときに王宮から使いが来る。今、陛下が呼んでいるということで、緊急事態かとアルベルトは迎えの馬車に乗り、一目散に王宮へ向かう。これもまた、ギリギリその日の内の出来事だった。
ハーケンベルク侯爵夫妻も皇帝皇后も予定が詰まっていたのだが、レオノーラが何かするというのであれば、簡単に予定は未定になる。彼女の動向以上に優先することなど、どれほどあろうというのか。
この夜間緊急会議の場で、アルベルトは国の最上位権力者達から一つの言質を取ってくる。これは次世代であり、レオノーラの婚約者でもあるアルベルトにしか出来ないことなのだ。
余談だが、睡眠前に自室のテラスでお茶を楽しんでいたビアンカは、王宮の馬車が学園の敷地内に入って来て出ていくところの両方を目撃していた。馬車の紋章から兄が乗っているであろうと推測し、兄の事情を知っていそうなレオノーラを尋ねたが、彼女も事情を知らず、じゃあついでだからとそのままレオノーラの部屋にお泊りした。
兄と婚約したことで年下の姉になる、つまりレオノーラと本当の姉妹になれると大喜びのビアンカは、大好きなレオノーラと一緒に寝れて感無量であったという。
レオの方も孤児院時代を思い出し、まんざらでもなかったらしい。
次の日の昼過ぎ、レオのもとにハーケンベルク侯爵夫妻から手紙が届く。内容は、次の安息日に、護衛付きでハグマイヤーに会わせるということだった。
レオの思考が止まる。皇子にはハゲマイヤーさんについて聞いた。カイには貴族が収容されている場所を聞いた。だが、具体的に何を目的としているかは誰にも話していない。そもそも、昨日の夕方の話だ。それがなぜ、次の日の昼過ぎには準備万端なのか。ただ、侯爵夫妻へのルートはカイしかいない。
レオはついとカイに視線を向ける。手紙にはハーケンベルグ家の家紋が書かれているので、誰からの手紙かはすぐに分かる。そしてタイミング的に内容にも察しが付く。故にカイは、主の視線に込められた意図に気付く。
「はい。昨日、レオノーラ様からご相談頂いた件を、すぐさま旦那様にご連絡いたしました。そのお返事が来られたのですよね?」
口止めはしていなかったから、まあ伝わるのはともかく、ちょっと早すぎないですかね。
とは言うものの、同伴するのは護衛の騎士2名だけらしいので、とりあえずの目的は果たせそうである。護衛は、鉄格子越しといっても犯罪者と面会する以上、当然の処置らしい。しかし、提案は皇子だと書かれている。
(見張りか……)
レオは眉間に皺を寄せる。ハゲマイヤーについて確認をしたのが、癪に障ったのだろうか。皇子を共通の敵として、レオとハゲマイヤーが手を組むのを恐れたのかもしれない。この用心深さが彼の真骨頂か。
案の定、放課後に皇子がレオに接触してきた
学院の廊下をカイを従えて歩いていると、向こうからアルベルトがやってきたのだ。
レオは緊張する。相手の思惑は手に取るように分かる。
「レオノーラ、昨夜父上たちや侯爵から君のことを聞かされ、本当に驚いたよ。ハグマイヤー卿に会ってどうするんだい?」
(やっぱり、探りを入れてきたか)
レオとハゲマイヤーとの繋がりを疑っているのだろう。
レオは警戒心を一段上げる。具体的には客が値切りから、値切らせに切り替えた時と同じぐらいの警戒度だ。客から値切ってくるのはまだましで、熟練者になるとこちらに値下げを言わせようとしてくる。商品の不備や他店との価格差を持ち出してくるのは可愛い方で、ひどいときは常連になるか友人を紹介してこようとしてくる。今ここで値下げしても、将来的には客が増えるという、なんて甘い悪魔の囁きなのか。これで本当に紹介してくれるのか、一見で終わるのかを見極めるのがレオの腕の見せ所であり、一見から常連に進化させることこそが神の御業である。
些細なことだが、アルベルトが用心深くて、かつ探りを入れてきたのは事実である。簡単に言えば婚約者を心配しているだけなのだが。
「挨拶、したい、だけです」
レオは素直に答えた。皇子が信用するかはわからないが、痛くもない腹を探られるのは御免だ。利益がないのに腹の探り合いなど、それこそ腹の無駄だからだ。
「挨拶? なぜ?」
アルベルトが訝しむ。あのハグマイヤー卿に一体なんの用があるのか。まさか本当に、レオが挨拶だけで済ます気でいるとは、さすがに想像できない。
「鳥も、朝には、鳴きます」
(鶏だって、毎朝コケッコと挨拶するのに、何故もないだろうよ。)
ついでに言えば、犬だって猫だって挨拶をする。この皇子様だって挨拶をするのに、どんな理由を聞きたいのか、レオには想像もつかない。
「レオノーラ、君は本当に……」
アルベルトは驚愕に目を見開く。
鳥とはおそらくハグマイヤー家の家紋であるオオバンのことだろう。朝とは夜明け、鳴くとは目覚め、つまり現在暗闇に落ちてしまったハグマイヤー卿に、救いの手を差し出そうというのだろう。罪を憎んで人を憎まずとでも言うのか、慈愛の深さ暖かさは、もはや人のそれではないのではないだろうか。
「君は、ハグマイヤー卿が手を握り返すと思うのかい?」
アルベルトは思う、あの精霊祭の時を考えるに、あの卿が素直に慈悲の、救いの手に応じるとは思えない。
「? 当たり前、です」
(まあ、挨拶に行くんだし、握手ぐらいしてくるかな)
こうも当たり前のように宣言されては、もはやアルベルトに言えることなど何もない。婚約者になり、最近傍にいることが多くなった。自分も少しは無欲の聖女に相応しい男になれたかと思っていたが、とんでもない。無欲の聖女とは本当によく言ったものだ。無欲も、聖女も、彼女ほど相応しい人はいないだろう。
アルベルトの言葉が止まったので、会話は終わりかなとレオは頭を下げて、その場を去っていった。否、逃げて行った。
そして、決戦は次の安息日。さあ、挨拶に行こうか。こんにちは。
「アルベルト様、よろしいのですか? 彼女のやりたい様にさせてしまっても?」
廊下の角からナターリアが出てくる。まるで事情を承知したうえで、今まで立ち聞きしていたかの様だが、普通にこのタイミングで出くわしただけである。事情は今日の昼にアルベルト自身から聞かされていたが、この場でレオノーラとアルベルトが話していたことは知らない。
声を掛けられ、アルベルトは顔だけ相手に向ける。
「ナターリア、話を聞いていたのかい?」
「何をです?」
「いや、さっきまでレオノーラと話していたんだけど……」
「まあ、それはハグマイヤー伯爵の件についてですか?」
「あ、ほんとに聞いてなかったんだ」
「事情はよく分かりませんが、立ち聞きなどという無作法なことは、いたしませんわ」
「え~」
彼女の好きなロマンス小説では、うっかり立ち聞きから大事件なんて日常茶飯事なので、立ち聞きをするかしないかと言えば、彼女は恐らくするであろう。話の内容よりも、立ち聞きしているという状況を楽しみながら。
ちょっと前に、嫌な相手に大事な初めてと一緒に、恋に恋い焦がれる乙女心的な何かを捨ててきたナターリアだが、やっぱりロマンス小説好きは変わらなかった。今までほどのめり込む事は無くなったが。
やはり、大人になると価値観も変わるものである。
「それで、そのレオノーラの件です。アルベルト様はてっきり止める物と思っておりましたが」
「まあ、今までの自分なら止めただろうね」
「心配では無いと?」
「当然心配さ。ただ、知りたいんだ。レオノーラがなぜハグマイヤー卿を助けようとするのかを」
「レオノーラが誰かを助けるのに、理由を持ち出したことなど無かったと思いますが」
理由などない。確かに助けるのに理由は無かった。むしろ助けるつもりも特に無いのだが。レオは面倒見は良いので、請われれば手を差し伸べるぐらいはするかもしれない。有料で。
「ああ。それが彼女の尊敬できるところだ。だが、今度の相手は罪人だ。周りへの示しもある、ただ手を差し伸べるだけなら、僕は止めなければいけない」
「そんなに浅慮でしょうか?」
「いや、そうは思わないよ。だからこそ興味がある。これが最後ではないからね。」
今回は治水事業だけだったが、これからも同様の、貴族社会を脅かす改革が進んでく事になる。アルベルトは覚悟を決めたが、混乱するのは間違いないだろう。その時、どうするべきか、テストケースとしてハグマイヤー伯爵の処遇を利用しようと、アルベルトや皇帝は考えていた。
その中で、動き出した聖女レオノーラの思惑が見えないことが不安であると同時に、期待も大きくあるのだ。
そういった事情をアルベルトは、ナターリアに話す。
「思っていたより、賛同出来ない理由ですね」
「そうかな?」
「はい。レオノーラはまだ子供です。少し厳しいのではと考えます。いろいろと背負わせるには、背中が小さいのではありませんか?」
「本当にそう思ってる?」
「……彼女なら、期待に応えてくれるだろうと思います」
「僕もそう思っているよ」
アルベルトのレオノーラへの態度は変わった。レオノーラから婚約を了承してくれたからこそ、彼女の国政に対する姿勢を、覚悟を見極めたいのだ。自分から求めていれば、大事に仕舞って、表舞台に出さないことも選択出来たかもしれない。
今までの様に、ただ大事に大事に保護するだけの関係では終わりたくない。とか何とか考えてはいるものの、婚約したことで、やや亭主気分なのだ。調子に乗ってるわけだ。イケメンめ。
実際のレオは、世の中の酸いも甘いも金額換算するふてぶてしい守銭奴なので、心配無用であり、そもそも皇妃になる気すら無い。