第一話 ハグマイヤーの半生
少年にとって、父は偉大でとても立派だった。貴族として立派だったし、皇帝陛下から重要な仕事を任されていて立派だったし、家での振る舞いも家族の前だというのに、とても立派だった。
その少年ヨーゼフは、父の背中を見て育った。自分も父の様に成りたいと思っていたし、いずれ継ぐであろう父の仕事にも幼い頃から誇りを持っていた。
ただしそれが、子供故の無知から来るものだと気付くのは、やはり大人になってからだった。
フェナーイン・ゲン・ハグマイヤーは、大陸一の覇権を握るヴァイツ帝国の伯爵の地位にいる、由緒ある貴族である。相応の実績と歴史を持つハグマイヤー伯爵家は、近年その実績を認められ、人口の増加に伴い拡大していく、帝国の首都リヒエルトの治水事業を任された。
水脈を調べ、井戸を掘り、上水道を通す。水は人々が生活するうえで必要不可欠なものであり、それの開発、管理を任されるということは、大任であり名誉なことであった。しかも、水の精霊の協力が不可欠であり、教会との折衝力も求められた。
フェナーインは大役を見事に果たしていった。教会と協力し、井戸が必要な場所に必要なほど、順次設置していった。さらには水脈の関係で井戸が掘れない地域には、上水道を設置し、人々に文字通りの潤いを与えていった。
フェナーインは自分の代で治水事業が完了しないことを理解していた。息子であるヨーゼフがある程度の年齢になったら、仕事をいろいろ教えていった。興味があるのか息子は真面目に勉強し、どんどん覚えていった。フェナーインは喜んだ。自らの頭髪とは正反対に、とても頼もしいことであると。
ハグマイヤー家は代々、頭髪に不自由する血筋なのだが、治水事業には一切関係が無いので簡単に触れるだけに留めておく。
成長したヨーゼフは、尊敬する立派な父の仕事を手伝い始める。
さらに成長したヨーゼフは、それなりにいい感じの青年になる。貴族の嗜みとして剣もある程度は学んでいるので、体つきもそこそこガッシリしている。
そして、髪は有る。まだ。
結婚適齢期になったヨーゼフは、ある男爵家から嫁をもらう。その名はヘアンナ。貴族令嬢として過不足なく、踊りも刺繍も詩もそこそこ出来る、普通の女だった。
ヨーゼフとヘアンナは政略結婚だったが、とても仲睦まじい夫婦だった。夫は尊敬する父を手伝い、妻はその夫を支えた。
ヨーゼフはよく働いた。まだ未熟な面も見受けられたが、その姿は父であるフェナーインによく似ていた。働く姿も、その容姿も。ヘアンナも健気に夫を支えたが、健気だけではどうすることも出来ない事も、もちろんあった。むしろ、ハグマイヤー家の血筋こそが健気であったのだが。主に頭上の。
社交界ではその見事なブルネットから「美髪姫」などとも呼ばれているヘアンナだが、今回の結婚にはあまり髪は関係がないので、簡単に触れるだけに留めておく。
フェナーインが初老に差し掛かるころに、ヘアンナは妊娠した。初孫に大いに喜んだフェナーインは、体の衰えも感じていた為、当主の座を息子に譲って現役から後退した。
生え際はとっくに後退しすぎて頂上を超え、反対側から下山を始めていたのだが、それはまるで、ヨーゼフの見た目と人生の今後を物語るようでとても不吉ではあったのだがどうでもいいことである。ヨーゼフは絶好調だと感じていたからだ。
ここに、ヨーゼフ・ゲン・ハグマイヤーはハグマイヤー伯爵家の当主として、首都リヒエルトの治水の全権を担うことになる。
いざ当主として治水事業に乗り出すと、これまで通りに行かないことも多々あった。責任の全てを負うことになるので当然ではあったのだが、ヨーゼフは父の仕事が不十分であったことを思い知ることになる。いや、不十分では語弊があるかもしれないが、それでもヨーゼフは、偉大でとても立派な父が、普通の貴族でしかなかったことを思い知らされる。
結論から言えば、フェナーインは対処や住民との折衝が楽なところから、手を付けていたのだ。それ自体は決して悪いことではない。水は必要なのだ。
治水事業の手を止めるわけにはいかない以上、出来るところからやるのも選択肢の一つだ。しかし、残されたヨーゼフは、そのツケを払う羽目になる。
***
貴族の住まう貴地の夜は早い。酒や女を扱う店などは治安の悪化にしかならない為、貴地の外れに集中している。そもそも貴族たちは自身の館で十分にその両方を堪能出来るので外を出歩く事などほとんどしない。そういった店が必要なのは下級貴族だけだが、彼らの家もやはり貴地の外れにしか無い。
ハグマイヤー伯爵家は上級貴族であるので、その屋敷の周辺は当然の様に静かだった。
長く美しいブルネットを簡単にまとめ、薄い夜着の上から一枚羽織っただけの格好をしたヘアンナが、薄暗い廊下を歩く。豪華な窓枠に豪華な壁、天井も豪華だし照明も豪華。飾ってある壺や絵画も、まあ豪華である。ただ、どれも薄暗いためはっきりとは確認出来なかったが。
まだ当主であるヨーゼフが起きている間は、明かりを完全には落とさない為、夜になっても明かりを持ち歩く必要が無い。ただ、それはつまりヨーゼフがまだ起きていることを意味していた。
夫であるヨーゼフの書斎の前に辿り着いたヘアンナは、その扉をノックする。一拍遅れて返事があったので、彼女は扉を開けて中に入る。
書斎ではヨーゼフが仕事をしていた。父が手を付けなかった地域の上水道工事が進まないのだ。すでに人々が生活している為、上水道設置の為の土地が確保出来ないでいる。その土地に住んでいる平民たちが移動したがらないのだ。
だからといって通さないわけもいかず、住民からも要望が上がっている現状がある。水は欲しいが土地は手放したくないなど自分勝手でしかないが、進んで損を被ることを嫌がるのも当然ではある。もちろん相応の金銭の用意はあるが、ある意味、土地は金には代えられない。
急激に大きくなった都市の歪みのようなもので、道が悪い、家が小さいなどの話も聞くが、ヨーゼフの管轄ではないので特に意識を割くこともしない。余裕がないとも言う。おかげでひたいの広さにはずいぶん余裕が出来てしまったが。
「まだ起きているのですね。明かりがもったいないですし、使用人たちも休めません。自身のお体にも障ります。そろそろお休みになってはいかがですか?」
「もう少し待て。平民たちからの意見を纏めている。これにキリがつかんことには事業が先に進まん」
気遣って肩に置かれたヘアンナの手に、ヨーゼフは自分の手を重ねる。
「自分勝手な平民の事など、放っておけばよろしいではありませんか」
「そうはいかんよ。この事業は陛下より賜った大事なお役目だ。中途半端なことをするわけにはいかん。父にも顔向けできんからな」
「……お父義様は、今回の件はなんと?」
「謝られたよ。不甲斐無くて申し訳ないと頭まで下げられた。頭を下げた父を見ていると、自分の事の様で、とてもつらい」
「平民や導師達に頭を下げているご自分を、想像されますか」
ヘアンナの問いに返事はなかった。自分と父との何を重ねたかは、ヘアンナには想像することしか出来ない。夫が見ていたのが頭を下げた様子なのか、下げた頭の様子なのか、かなり際どい選択だったが、正解は分からないままだ。ただ、どちらも際どい様子なのは間違いなかった。
ヘアンナは、夫を休ませる為に話の矛先を変えることにした。
「最近、かまってくれないとモーリンが拗ねていましたよ」
「娘がか? むう、朝食だけでもと、朝は必ず家にいるのだが、やはり足りんか」
「当然です」
「私が子供のころは、働く父の姿はそれだけで満足出来るほど素晴らしかったがなあ」
そう言うヨーゼフの表情は硬い。素晴らしいだけでは無いことを、大人に成り、初めて理解したのだ。だからと言って、当時の想いを否定したいとも思えない。父は確かに立派だった。
「モーリンは女の子です。嫁に行くにしろ、婿を取るにしろ、家の事に深く関わることはないでしょう。だからこそ、会えないことが素直に寂しいのです」
「つまり、どうしろと?」
「今から娘の部屋に行きませんか? ちょっと夜更かしですが、時間が取れるので良しとしましょう」
「んん、わかったよ」
妻の思惑を理解したヨーゼフは、ヘアンナに軽く口づけすると、素直に仕事を切り上げて、娘の部屋に夫婦で向かった。
その後、突然できた親子三人の時間に、テンションが上がったモーリンがなかなか寝付かず、次の日の朝は三人とも寝坊してしまった。有能な使用人たちは、家主の起きていた時間も把握していたので、朝食の時間を当然のように合わせてきたが。
***
「よう、最近、上手くいってないらしいじゃないか」
「なんだ、ツゥライール卿か」
とある貴族の晩餐会。
食事も済み、閑談の場でヨーゼフは友人に話しかけられた。
彼もまた帝国の上級貴族である。ヨーゼフとは社交の場で何度か知り合う内に、歳が近いこともあって打ち解けていった仲だ。ちなみにフサフサだ。
「なんだとはつれないな。聞いたぜ、平民の我儘に付き合ってやってるらしいじゃないか」
「そんなつもりはない。やるべき事をやるだけだ。平民が邪魔だからといって跳ね除けては、やるべきことが達成出来ない。それだけだ」
「お優しいことで。適当に金を渡して、強制的に追い出せばいいじゃないか」
「……それはあまりしたくない」
「そんなに、平民の肩を持つのか?」
「違う。本音を言えば、平民がどうなろうとそれほど興味はない」
「じゃあ、なんで?」
偉大で立派な父が出来なかったことを、自分の手で達成したい。
そんな思いは当然口には出さない。ヨーゼフは適当に笑って誤魔化した。
付き合いの長い友人は、そんなヨーゼフの様子に何かを察したのか、軽く肩を竦めると、別の話題を切り出した。
「そういえば、皇子殿下の話は聞いたか?」
「殿下の? 確か、元公爵家のアルベルト皇子だったか」
「そう、そのアルベルト殿下さ。なんでも龍徴が金貨だったとか」
「金貨? それはまたあけすけな……」
「面白いだろう? まあ、金がなければ国も動かない。なんて分かりやすいんだろうな」
「杯や矛のほうが、第一後継者の殿下としては楽だったろうに」
「一部のお偉いさんは群がってるらしいが。まあ、俺たちはおこぼれを貰う位がちょうどいい。俺たちより下だと、そのおこぼれすら届かないしな」
「まだ、幼いのだろう。考えても仕方があるまい」
「つれないな」
「ほかに考えることが多い」
ヨーゼフはそう言って、ずっと手に持っていたグラスのワインをぐいっと飲みほした。
「もったいないな。確かそれ、30年ものだぞ」
「気にするな。地下のワインセラーにはまだ有ったはずだし、どうしても飲みたければ取り寄せればいい。ここでしか飲めないわけではない」
「俺の家に来れば、もっといい物もあるぜ?」
「ワインにそこまでこだわりはない。私を屋敷に呼んで、どうするつもりなんだ」
「何も。たまには悪くないだろう」
ツゥライールは、通りかかった給仕から中身の入ったグラスを二つ受け取ると、片方をヨーゼフに渡し、グラスを合わせた。
「ま、頑張れよ」
「頑張るさ」
***
さらに月日は、頭を洗っている最中の頭髪のように流れていった。
太陽が一番高く上る少し前、下町の朝市も落ち着きを見せ、片づけ始める店も出始めた頃、一台の豪華な馬車が路地裏から出てきて、朝市の真ん中をそのまま貴地へと向かって行く。馬車の側面に描かれているオオバンという鳥をモチーフにした紋章は、ハグマイヤー伯爵家のものだ。
馬車の中にはヨーゼフがいた。それなりに年を取り、髪の毛もそれなりに取れてしまったようだが、当然まだ現役であり、少女になった娘と幼い息子、優しい妻に囲まれて幸せに暮らしていた。と言うわけにはいかなかった。
治水事業が一向に進んでいないのだ。
もう出来ることが無い。自身の利益は追及するのに不利益には過剰に反応する。そういった平民の感情を受け止めきれないのだ。
毛が抜けても貴族であるヨーゼフには、「貴族の義務」が当然のように染み付いている。本来ならば平民に求めることは無い。無いが、協力すら得られない状況に限界を感じていた。
これは、決して平民たちが身勝手だというだけではない。貧困と教養の低さ、つまりは国政の不十分さが生み出した歪みの表れなのだ。
自分の生活に余裕がない状況で、自身に利益のあることでも自己犠牲を選択出来ない。一歩間違えれば、そのまま転落しかねない生活環境では仕方がない面もあった。
治水事業に土地などの財産を提供させるには、保証が必要になるが、そうなってくるとほかの貴族との兼ね合いも出てくる。ハグマイヤー家に与えられた裁量では限界がある。
今回も対象地区の住民との話し合いや、精霊教会の導師と水脈についての打ち合わせ、さらには、当然のように地上げも必要になって来る。そういった様々な懸案事項を現地で調整していた為、ヨーゼフはすでに何日も屋敷に帰っていなかった。
当然、睡眠不足でもあるのだが、ここまで来たら寝るのは我が家のベッドが一番だ。あと単純に、馬車は体が痛い。
久しぶりに愛する家族に会える。そう思うだけで、疲れも吹き飛びそうに思えてくる。髪の毛は、それなりに吹き飛んでしまった様だが。
しかし、幸せがそのまま続くとは限らない。そんな当たり前の事を改めて思い知らされる事件が、この後に起こる。それもヨーゼフにとって最悪の形で。
屋敷に帰ったヨーゼフに、最愛の娘との悲しい別れが待っていたのだ。
「お父様、臭い。近寄らないでください」
なんだって。
「なんてことを言うのモーリン! 旦那様に謝りなさい」
「だってお母様、お父様はきっと何日もお風呂に入ってないのよ? 不潔ではないですか!」
不潔だって?
「なんてことを! あ、待ちなさいモーリン!! ……申し訳あり、うっ、ありません。あなた」
今、なんで途中で言葉に詰まったんだ!
呆然とするヨーゼフは、暴言を吐き逃げした娘を追いかけることも出来ずにいた。もう、玄関開けたら2分でガクンって感じで、エントランスで膝をついている。ズボンの膝が汚れたりしないのが貴族の館だ。掃除に抜かりはない。抜けるのは髪の毛だけで、それも当然、掃除済みだ。
「私は、そんなに臭くて不潔かね?」
目の前の妻に声をかける。微妙な距離を維持し、決して近寄って来ない妻に。
「いえ、モーリンも年頃ですし。少々の反抗的な態度についても、後で言って聞かせますので」
そう言って、優しく近寄って来ない妻。多分、この距離が平静が保てる最短なのだろう。透けて見える優しさは時に猛毒にもなる。使用人たちはさすがに近づいてきて、マントや帽子等を預かっていく。心なしかいつもより口数も少なく、動作もテキパキ過ぎる気がする。何をそんなに急いでいるのか。
その後、使用人に風呂を用意させ、体も頭もすっきりしたヨーゼフだが、心まではすっきり出来なかった。
平民の潤いの為に日々働いているのに、なぜ自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか。日々頭上の潤いを失い、さらに家族からの心の潤いまで失ってしまうなんて、受け入れられるわけがない。
本来であれば、優しく受け流せたかもしれないが、連日の仕事から来るストレスがそれを許さなかった。結局流せたのは、汚れと髪の毛だけだった。
もうすでに匂いはしなくなっているが、印象が強すぎたのだろう。その晩のディナー時には家族全員が席に着いたのだが、モーリンはヨーゼフから一番遠い席に座り、食事が終わるとすぐさま部屋に戻っていった。夜、ヘアンナが娘の部屋を訪れ少し話をしたようだが、あまり効果はなく、翌日の朝食ではモーリンは仮病を使い時間をずらした。
この時点でヨーゼフは娘の我儘を許した。正直、何度も突いてぶり返されるのが辛かったのだ。ただでさえ毛病の心配をしているのだ。娘の仮病ぐらい、もうどうでも良かった。
結果から言えば、この時点で娘としっかり話し合っていれば、関係修復が可能だった。モーリンも臭いが一時的な物だったことは理解していたが、自分から謝るのも恥ずかしく、きっかけが掴めずにいたのだ。
この後、ヨーゼフとモーリンが笑顔で同席するのに十数年かかることになる。
思春期の女の子なんて、いつの時代も難しい。
***
その後、ヨーゼフは治水事業への取り組みを一変させた。すべて部下に投げ、予算も横領し、下町が枯れるのをそのままに放置し始めた。もうやってられっかの心境だ。
当然、他の貴族からの諫言があったが、横の繋がりが弱く、それぞれの貴族の権限が独立していた為、ヨーゼフの態度を改めさせるまでにはいかなかった。ツゥライール卿の言葉だけは少し届いた。
ハグマイヤー伯爵邸の応接間には、ツゥライール伯爵が訪れていた。あの、ヨーゼフが娘と決別した日から数年が過ぎ、人が変わったハグマイヤー卿の評判は地に落ちていた。
付き合いのある相手は自然と変わっていき、今では金にうるさい下級貴族だけが、ヨーゼフの取り巻きのごとく纏わりついているのみである。ただ一人、ツゥライール伯爵を除いて。
「最近の調子はどうだ?」
「くだらん世間話だな。もう私に構うな。お前に何の得があるんだ」
「損得で付き合ってきたつもりじゃ、ないんだがな」
「……知っているさ。だからこそ、もう来るな。みじめなのは頭髪だけで十分だ」
ソファーから立ち上がったヨーゼフは、部屋の隅に置いてある香炉を手に取り、中身を補充したあとに火を付ける。しかし香りが部屋を満たすことはない。
「まだ、それを使っているのか」
「習慣みたいなものだ。特に意味はない」
ツゥライールからの指摘に対して、返事をする声は弱い。
「一つだけ確認がしたい」
表情を引き締めて、ツゥライールはヨーゼフに問う。
「勝手に井戸を掘ろうとした平民を捕らえたのは、本当なのか?」
ヨーゼフは香炉の傍から動かない。ソファーまで戻ってこない。顔も香炉に向けたままだ。おかげで眩しい後頭部がツゥライールを直撃する。
「平民に井戸掘りは、許可されていない」
顔を向けずにヨーゼフが答える。
「知っている」
「捕まえるしかあるまい」
「……その後、その平民はどうした」
「関係無いだろう」
「家族ごと居なくなってる」
「知らんな」
「本当か?」
「疑うなら好きにすればいい」
「調べてもいいのか」
「お前ならな」
「彼らはまだ生きているのか」
「知らんよ。だが、もしかしたら、家族で食うに困らない程度の収入がある仕事についているかもな」
ヨーゼフは、話は終わりだとばかりに呼び鈴を鳴らし、執事を部屋に呼びつけて、一方的にツゥライールが帰ることを告げる。
ツゥライールは何か言いたそうにヨーゼフを見たが、結局、何も言わずに執事に案内されるままに帰っていった。
ヨーゼフはそんな彼を見送れなかった。
実際、ヨーゼフ・ゲン・ハグマイヤーは平民を捕らえていた。
治水はあくまでも貴族の、この場合はハグマイヤー伯爵家の事業である。平民は論外で、他の貴族ですら安易に参加は出来ない。それは治水事業だけに限らず、その他の貴族が請け負う事業も同様で、ハグマイヤー伯爵家も治水事業以外に手を出すことは許されていない。
貴族達はそれぞれの領分を侵すような真似は当然していない。表向きは。
捕らえられた平民たちは、一旦は牢に入れられた後、家族もまとめてハグマイヤー伯爵家の所有する土地に送られていた。帝都からそれなりに離れているその土地で行われている事は、見事に隠匿され、中央に露見する事は無かった。
そこで行われているのは、特定の植物を栽培する為の強制労働だった。ただし給与はでる。口止め料込で多めで。
平民たちは住み慣れた土地を離れることに抵抗はあったが、治水事業の立ち退きと違い罪を犯している為に強制力があり、抗うことが出来なかった。しかし、いざ連れていかれた先で行われていたのは、ただの農業であり、給与も今までより良かった。
もちろん口止め料である事は理解していたが、それが無くても連れていかれた平民たちは公言しようとは思えなかった。そこで栽培されている植物にどんな意味があるかを理解していたからだ。
外出の自由はそれほど多くなかったし、近隣に大きな町もなかったが、貯えが出来るのは素直に感謝していた。もともと職業選択の自由などほとんど無い。家業を継ぐか、奉公に出るかだ。
引っ越しだって一部の富豪ぐらいしかしない。仕事も住居も好きで選んだわけではない以上、貴族に無理やり変更させられても簡単に受け入れられた。選択する機会も理由もほとんどないので、そういうものだ思っていたのだ。
ヨーゼフが平民を使い、密かに栽培しているものはある種の薬草だ。ヨーゼフにとって悪夢の様なあの日以降、彼はその薬草を切らすことを恐れた。常に持ち歩き、常用した。飲んでよし。焚いてよし。塗ってよし。
その名をヴァカの花という。
貴族にとっても、平民にとっても親しみのあるその花は、だからこそ強制労働をさせられている平民の理解に一役かっていたのだ。あと、欲しがる平民には格安で譲っていた。
***
「なんだそれは!! なんだそれはあ!! なんなんだあ!! それはあ!!」
さらに月日が立ち、白髪を禿げ散らかして、でっぷりしちゃったヨーゼフは、怒りと困惑のあまりに顔と頭皮を真っ赤にし、唾をまき散らしながら叫ぶ。
治水、なにそれおいしいの状態で、もはやギリギリ既存の上水道や井戸の維持管理を最低限やっているだけのハグマイヤー伯爵である。
しないことが当たり前になれば、後ろめたさや罪悪感なんて髪の毛と一緒にどこかに捨ててしまっていた。いや、髪の毛は好きで捨てていた訳ではないのだが。
もうすっかり髪の毛も少なくじゃない、白くなり孫もいるのだが、実年齢より老けてみられるヨーゼフである。なんだかんだで不摂生な生活を送っていれば止む無しである。
ここは、ハグマイヤー邸の応接間だ。息を切らせた風のツゥライールが駆け込んで来て、ヨーゼフにとって聞き捨てならない話題を持ってきたのが三日前。マジで?と急いで人を派遣し裏を取ってみたらマジだった。
ちなみに初日のツゥライールは馬車で来たから、息を切らせていた風なのは、雰囲気だ。
「ふさげるなあ!! なにが皇子だ! なにが聖女だ!!」
怒りのあまり調度品のツボを手に取り、わなわなしたあと元に戻す。床に叩きつけて割るといい気分かもしれないが、破片が飛んで危ない。掃除のために使用人を呼ぶと話が中断されるし、後で破片を踏んで痛ってなるのもバカらしい。
室内には妻のヘアンナも居るのだが、夫の剣幕に黙っているしかない。さらに彼女は長年苦しんできた夫を見てきた。かける言葉などそう簡単には出てこない。
友人であるツゥライールがもたらしたのは、皇子と聖女が、陣を用いて水不足を解消したという、ヨーゼフにとって許しがたい事実だった。
皇子とは金貨王のアルベルトだ。イケメンで有能という、いけ好かない奴だ。
聖女とは最近話題の無欲の聖女、ハーケンベルグ侯爵家の孫にあたる。あの『フローラの禍』で貴族社会から追放されたクラウディアの娘、レオノーラだ。詳しくは本編を参照。
アルベルト皇子がどこかの商家と手を組み、精霊の協力のもと、陣を経由して簡単に水を供給できる仕組みを用意したのだ。精霊の協力を取り付けたのがレオノーラで、実際に精霊と契約したのが皇女のビアンカだという。
信じられない。認められない。ハグマイヤー家の既得権を侵した。それもある。だが、それ以上に父と自分が長年かけて実現出来ずに、そのまま諦めてしまった下町への水の供給を、まだ二十歳にも満たない若造が成し遂げたという。それも陣などと貴族の権利を脅かす方法で。
何一つ理解できない。父と自分の努力は何だったのか。あの苦悩の日々は無駄だったのか。娘に嫌われてしまったのに、意味が無かったのか。
貴族の既得権を侵害したのはいい。そんなものに拘らない。だが、そんな簡単に解決する方法があるのならば、誰か教えてくれても良かったのではないか。なぜ、皇族が臣下である我々貴族の努力をあざ笑うようなことをするのか。
ふざけるな。バカにするな。確かに腐ってしまったが、無視されてまで大人しくしていられる訳がない。
幸いにも、もうすぐ精霊祭がある。この日は上級貴族には王宮が解放される。正式な手続きでも謁見は可能だが時間がかかる。直訴するには絶好の機会だ。
ヨーゼフは覚悟を決めた。今までの自分の不始末の責任と引き換えに、今回の皇子の行動について問いただす。最悪共倒れになるだろうが関係ない。このままでは終わらせない。
調度品のツボを持ったり置いたりしながら、叩き割ることもなく、心を落ち着かせる。明らかに奇行だが、妻も友も空気を読んで放置していた。そして二人は、落ちつたヨーゼフから決意を聞かされ、最終的には同意することになる。
だかしかし、
精霊祭の直前になって、アルベルト皇子がかなり重い処罰を受けていると知り気が緩んだヨーゼフは、精霊祭当日、景気付けにとアルコールをいい感じに摂取し、いい感じ以上に摂取し、結果陛下の御前で盛大にやらかす。
前後不覚の状態で皇族の茶会に乱入し、皇子への暴言のみならず危害を加えようとしたのだ。幸い皇子への危害は、その場にいた聡明な少女が身代わりになることによって回避されたが、そのまま衛兵に捕らえられ牢に放り込まれることとなった。