第8話「裁判長は弁護士を怖れる」
「ふ〜ん」
自分に向けられたはずの莉遠の言葉に浅井は生返事を返し、それから少しの沈黙が訪れる。
割引券を無意味に裏返したりしていた浅井は突然手を止めて割引券を食い入るように見始める。
底無し沼に沈んでいた思考が徐々に浮上し始め、浅井は頭に血が上って行くのを感じた。
これはまさか世間一般的に言われているデートの誘いってやつなのかな、いやしかし、背が高い訳でもなければ、顔が良い訳でもないし。
いや待て、この際顔の良い悪いは関係ないのではないだろうか、現にこうして誘われているのだし。
いや待てよ、実はこれは悠緋さん辺りが仕組んだドッキリ企画ではないだろうか。恋愛映画のワンシーンを撮影するとか何とか。
落ち着けこんな時こそ冷静になれ、情報だ情報が足りない。
「誠之?」
「はいっ!?」
名前を呼ばれ思わず姿勢を正して返事をする。坂道を少し上がっている莉遠が不思議そうに見下ろして来た。
「どうかしたの? ぼーっとして」
「いや……考え事」
極めて冷静を装い渡された割引券を乱暴にブレザーのポケットに突っ込み歩き出す。
莉遠の隣に並ぶと莉遠も一緒に歩きだした。
「あのさ、実はこれカメラとか回ってる?」
「カメラ?」
怪訝そうな顔をする莉遠の反応を見る限り、映画の撮影ではないようだ。演技ではないだろう。多分。
「す、水族館に行くってユキや悠緋さんが提案していたり……」
「しないよ。さっきから変だよ誠之」
自分でも変な事を言っているのは、分かっている。しかし、莉遠が水族館に行こうと誘って来る方が変な事だ。とは浅井は言えなかった。
「あっ誠之、返事は?」
莉遠の言葉を無視して足早に歩き、校門を抜け昇降口に向かう。
「……卑怯者」
後ろから拗ねた声が聞こえ、浅井は振り返り莉遠を見る。
先ほどまでの笑顔はなく、不満げな表情で浅井を見つめている。
拗ねた表情も可愛いな。一瞬そう考えた浅井は、すぐに思い直す。
「卑怯? どうして?」
「私が昇降口の前までしか一緒にいられないのを利用して、土曜日の返事をしないからよ」
「そうだな。莉遠はいつもここでいなくなる。でもそれはどうしてだ? 莉遠は自分のクラス……いや、学年を知られたくないんだろ?」
莉遠の表情が一瞬変わったのを浅井は見逃さない。どうやら図星のようだ。
「何で隠すのかは分からないけど、俺を卑怯者呼ばわりする前に、君は一体何なんだ? どうしていつもここでいなくなる、その理由は?」
一気にまくし立てる浅井は莉遠が俯いてしまっているのに気付く。
少し言い過ぎたかもしれない。
「莉遠……?」
「…………っ!」
やばいと思った浅井は。俯いた莉遠に出来るだけ、優しく聞こえるように名前を呼ぶ。
「あの、ごめ……」
言葉が中断されたのは莉遠に平手打ちを見舞われたからだ。
朝早くから昇降口前で男が女に平手打ちをされているのは周りから見てどう見えるのだろうか。
「馬鹿誠之!! 変態! スケベ! スケコマシ!!」
叫ぶように言い捨てると昇降口に背を向けて、グランドの方に走り出した。
「……何でそうなるの」
莉遠の小さな背中を見つめながら、誰に言うともなしに浅井は呟く。
意味が分からない。どうして学年とクラスを問い質しただけで、平手打ちをされなくてはならないのか。
もしかしたら、莉遠は本気で水族館に一緒に行きたかったのだろうか、それなのに話題をすり替えたから怒ったのだろうか。それにしても平手打ちと様々な誤解を招く言葉は少し行き過ぎではないだろうか。
「やあ、馬鹿誠之君」
「よぉ、変態誠之君」
いつの間にか両隣に國御坂と同じクラスの柿本が立っていた。
浅井は重い溜め息をつく。
「何だよ?」
「いやいや、朝から貴重なものを見せてもらったから讃えておこうかと」
と柿本。
「それはそうと、浅井君も隅に置けないなぁ。あの女子誰だ?」
と國御坂。
「お前達には関係……」
いきなり後ろから両肩を鷲掴みにされビクッと身体が反射的に震える。
恐る恐る後ろを振り返ると、般若が立っていた。正確には般若の如き形相の高宮がいた。
「俺には可愛い子の情報を教えず、自分だけで楽しんでいたのか……許さん許さんぞお!!!」
「まずは落ち着け。そして帰れ」
「柿本、國御坂。浅井を連行しろ」
「了解です。ボス」
腕を拘束されズルズルと引きずられていく。
逃げようもなく、一年二組の窓際の一番前の席に座ると周りを高宮と國御坂、柿本のサッカー部トリオが取り囲む。
「さて、浅井君。君の言い分は?」
「とりあえず、高宮。違うクラスだろ」
「裁判長閣下。被告人は自分の罪を逃れようとしています」
誰だよ裁判長って。
浅井は何となく窓の外に視線を移す。校門を通る生徒の集団の中に優希と悠緋の姿を見つける。
一ヶ月前から浅井は優希と一緒に登校しなくなった。莉遠が迎えに来るからだ。
莉遠。一ヶ月前にこの教室で浅井が出会った少女。莉遠と言う名前が本名ではないのを浅井は知っている。一学年全ての名簿をこっそり調べたが、そんな名前の女子生徒はいなかった。
もしかしたらと思い、浅井は悠緋に頼んで二学年も調べてもらったが、やはりそんな名前の生徒はいない。
残る可能性は三学年だが、その可能性も低いだろうな。
莉遠はいつも悠緋さんに敬語を使っているし。本当に一体誰なんだろう、どうして本名を隠し、学年をも隠しているのだろうか。
「おい被告人!! 聞いているのか!?」
「えっ?」
大声で我に返り、窓の外から前に視線を戻す。
「やあやあスケコマシ誠之君。裁判中に考え事ですかな?」
高宮が睨んでくる。右にいる國御坂と後ろにいる柿本の顔を確認すると、浅井はまた溜め息をつく。
最近溜め息が多くなったような気がしてならない。
「裁判長閣下。これ以上の審議は無意味かと」
と柿本検事が言い、
「うむ。國御坂検事の意見は?」
「異義ありません」
、と國御坂検事が言った。
「待った」
おかしくないか? 浅井はそう感じ思わず口を挟んでしまう。しまったと後悔しても後の祭だ。
仕方なく、浅井は無駄だと知りつつも一応は確認をしてみる。
「俺の弁護士は?」
この裁判には重大な欠員が生じている。大体裁判長と検察官だけってどう考えてもおかしい。
「いるわけないだろう。という訳で有罪」
どんな訳だ。もう勝手にしてくれと浅井は肩をすくめ頬杖をしながら窓の外をもう一度見る。
「被告人をさっきの女の子は誰だったのか白状する刑に処する」
「知るか」
「素直に白状せねば、秘密をばらすぞ」
いつまでも検事を気取っている柿本に浅井は哀れむような視線を投げ掛ける。
「俺には口外されて困る秘密はない」
「違うな浅井。無ければ、作ればいいのだよ」
國御坂が血迷った事を言い出す。しかし、確かに学校社会における噂と言うのは、不思議な魔力を持っていてそれが事実だと思われてしまう。
それを知っている浅井はこの世界の理不尽さを噛み締める。
理不尽だ。弁護士がいないし、莉遠の事についてなんてあまり知らないし、それを正直に答えたとしても、この三馬鹿トリオには通じないだろう。浅井は切に願った。弁護士がこの法廷に駆け付けてくれるのを。
「さあ、浅井。素直に吐いて楽になれよ。自分だけ明るい青春を過ごすなんて、俺達を裏切る事になるんだぞ、しかしまだ間に合う。あの可愛い子を紹介するんだ」
熱く語って来る高宮を見上げると、丁度教室の前のドアが開き、一人の生徒が入って来たのが見えた。
「高宮……俺、間違ってたよ。本当に、俺感動したよっ」
「俺達を裏切っていた罪を認め、あの子を紹介するつもりになったか。それでこそマイブラザ―!!」
浅井は本当に感激していた。高宮のアホな発言内容にではなく、この理不尽空間に駆け付けてくれた一人の常識人もとい弁護士の存在にだ。その弁護士の名は、永山雪夏と言う。どうやら、世界は理不尽だけで構成されてはいないらしい。
「おはよ、誠之君に柿本君、國御坂君。それに馬鹿」
三馬鹿トリオは一瞬にして凍り付いた。形勢逆転とはこの事だ。
今こそ國御坂の作戦をそのままトレースして実行する時だ。
「良い所に、聞いてよ、実は高宮が……」
「あわわわわ!? 何を言ってるのかな、浅井君!?」
さすが作戦を考えた國御坂。気づくのも早いな、だが、もう遅い。
「高宮が、なにかしたの?」
「女子を泣かした……」
次の瞬間高宮は凄まじい勢いで教室から退却し雪夏は素早く自分のバックからハリセンを取り出すと、高宮を追い掛けて教室から出ていく。
「待ちなさい!! あんた一体何したの!?」
雪夏の大声の後に続いて高宮の叫び声が聞こえて来る。
「さてと」
國御坂と柿本は互いに顔を見合わせた後に、浅井を見る。浅井は実に爽やかな笑みを浮かべ、
「裁判長不在でこの法廷は終了だな」
爽やかに言った浅井の姿は柿本と國御坂には悪魔のように見えた事だろう。
二週間前に席替えが行われ、浅井は窓際の一番前、隣に國御坂。その後ろが柿本の席になっている。
國御坂と柿本は自分の席に座り、浅井は窓から外を眺めていると、誰かに肩を叩かれ後ろに振り向くと雪夏と同じテニス部で雪夏と仲の良い佐藤真奈美が立っていた。