第4話「過ちだと知りつつも」
上履きから靴に履き変え昇降口から外に出る。
右膝をついて靴紐を結び、空を見上げた。雲一つない青い空からは、春の柔らかい日差しが降り注ぎ、その眩しさに目を細める。
「おまたせ」
日差しを遮るように、悠緋が浅井の前に立つ。下から見上げると青いブレザーを着た悠緋が空に溶け込んでいるかのような錯覚が起きる。
二人並んで坂道を下ると、道の途中で何人かの男子生徒が固まって騒いでいた。
「おい」
一人の男子生徒が悠緋を見るとすぐに仲間に見てみろと言うように顎をしゃくる。
浅井は男子生徒の集団の横を通り過ぎる時にちらりと見たが、全員が悠緋に注目している。
それもそのはずだ。悠緋は誰が見てもテレビに出演していてもおかしくないと思わせる程に美人だ。
曇りに曇った浅井の眼から見ても、それだけは絶対に断言できる。
街を歩けば、すれ違った男はほとんど振り返るし、彼女が隣にいるにも関わらず、振り返って何かを言われるという典型的でベタな行動を見せてくれる。
そんな人と会話が出来て、二人で下校が出来ることは普通に嬉しい。
商店街に続く通りに出ると、悠緋は立ち止まり、時計の針の後ろにウサギが描かれた腕時計で時間を確認する。
「誠之君は、これから何か予定ある?」
「特には」
悠緋は明るく笑い。
「少し付き合ってよ」
と言いながら商店街に向かって歩き出した。
浅井はてっきり商店街にある女子生徒に人気がある雑貨屋にでも行くのかと思っていたが、悠緋は雑貨屋の前を素通りし商店街を抜ける。
「あの、何処に行くんですか?」
前を歩く悠緋の後ろ姿に投げかける。
「この前ね、美味しいお店を見つけたから、そこでお昼ご飯食べましょ」
悠緋は浅井に振り返り、後ろ向きで歩く。
傍から見たら自分達はどう見えているんだろうか。恋人同士とか。
「そんな訳無いか」
「どんな訳?」
「何でもないですよ。それより美味しい店ってラーメン屋ですか?」
「ううん。今回見つけたのはね、新しく出来た喫茶店だよ」
「新しく出来た、喫茶店……ですか?」
「そう、喫茶店」
何故だろうか。新しい喫茶店と言ってもそうである確率は高くはないはずなのだが、嫌な悪寒がする。風邪でも引いたのだろうか。
見つけてから何度も通ったのか、道に迷う事も、目印を捜すそぶりも見せずに悠緋は目当ての喫茶店の前で立ち止まる。
「ここだよ」
バスガイドみたく、明るい笑顔で右手を喫茶店に向かって広げる。
「ここ……ですか」
別荘やコテージを思わせる丸太で造られた喫茶店の入り口のドアの上には『軌跡』と書かれている。それがこの店の名前だろう。
入り口のドアを開けるとちりんと鈴が鳴り、カウンターの客と談笑していたまだ若い女のマスターは入り口に顔を向け、笑顔を作る。
「いらっしゃいませ……あら?」
マスターが悠緋の後に入って来た、浅井を見て少しだけ驚く。
「ただいま、姉さん」
浅井の言葉に悠緋が振り返り、カウンターに居た若い男も身をよじり浅井を見る。
こんな時には何て言ったら良いのだろうか。とりあえず浅井は苦笑し、カウンターの席に腰を降ろすと悠緋も隣の席に座る。
「なあに? 初めてここに来たと思ったら彼女同伴?」
悪戯な笑みを浮かべ、カウンターに身を乗り出して来る。
いくら身内がいるからって経営者がそんな態度をとってもいいのか浅井は疑問だった。
「姉さん。悠緋さんに失礼だよ。ただの先輩だって」
「初めまして。河瀬悠緋です」
「河瀬? もしかして優希君の」
「姉です」
悠緋が優希の姉だと分かると、浅井姉はいつも弟が世話になっています。と、世間一般的に使われる挨拶をし、悠緋もこちらこそと挨拶をする。
別に優希にはそんなに世話にはなってない。浅井は内心で姉の言葉を否定する。
「私はここを経営している、神菜舞依どうぞ御贔屓に」
深々とお辞儀をする様子はお姫様をダンスに誘う伯爵みたいだ。
あくまで伯爵だ。第一喫茶店の制服なんて男っぽい服だし、右手曲げて腹部の所に持ってくるのも男がするお辞儀だと浅井は思う。
―――苗字が違う?
姉弟にも関わらず、苗字が違うことを悠緋は疑問に思ったが、すぐに思い直した。
結婚していれば、苗字が変わことだし。苗字が違っていてもそんなに変なことではない。
「さて、そろそろ行くかな」
浅井と悠緋が来る前まで舞依と談笑していた男が支払いをして、店から出て行く。
「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしています」
店の中に舞依の陽気な声が響く。
「それで?」
二人の前に水の代わりに珈琲を置きながら。
「ご注文は?」
にっこりと微笑んむ。それだけで見た男を恋に落としそうな完璧な笑顔だった。
浅井はお品書きも見ずにカレーライスを注文し、悠緋はしばらくお品書きと書かれた紙を眺め、ラーメンセットを注文する。
数十分で注文した料理が差し出され、それらを食べ終わる頃に店の奥から舞依が何かを持って戻ってくる。
「悠緋ちゃん。これから時間ある?」
「ええ、大丈夫ですが」
やれやれと浅井は頭を押さえる。自分の姉ながら、これから何て言うかが容易に想像出来てしまう。
「ウェイトレスになってみない?」
言いながら、ウェイトレス用の制服を両手で広げる。
浅井は額に手を当てて思う。やっぱり。
「アルバイトですか?」
「そそ。お料理代はタダでいいし、バイト代も出すわよ」
「あの、別にバイトなんてしなくても……」
何かを考えている、悠緋に向かって断るように浅井は進めるが、悠緋は何を思ったのか聞いていて心地よいほど、明るい二つ返事で返答する。
それを聞いた舞依の矛先を次に向けられるのは、決まりきっていた。
「誠之」
「……分かってるよ」
不本意ながら、浅井は喫茶店の手伝いをすることに同意するしかなくなってしまった。
ああ、折角早く学校が終わったのに。浅井はせめて心の中だけで嘆く。
悠緋と浅井は店の仕事を一通りこなし、夕方になると丁度客足が途絶え、店内には今は誰一人としていない。
喫茶店の前には入り口の段差に浅井が腰掛け、その前の道路に舞依と悠緋が立っている。
「今日はありがとうね。アルバイト代は弾んでおいたから」
アルバイト代と書かれた白い封筒を悠緋に手渡す。
「ありがとうございます。喫茶店のお仕事も面白かったですよ」
「じゃあしばらく、ここでバイトしてみる?」
「舞依さんさえ宜しければ、喜んで」
すっかり意気投合をしている二人を尻目に浅井は疲れ果てた表情をしている。
「では。今日はこの辺で帰りますね」
「お疲れ様」
遠ざかって行く悠緋の背中に姉弟揃って何時までも手を振り続ける。やがて悠緋の姿が見えなくなると、ゆっくり手を下ろす。
「良い子ね。悠緋ちゃん、今時あんな娘いないわよ。感心するなあ」
いつもの舞依らしくない言葉に浅井は思わず立ち上がり、舞依の顔を見る。さっきまでの眩しいくらいの笑顔が、ふっと暗く沈み悲しそうな表情になる。
「でも……悠緋ちゃんにしろ、優希君にしろ。絶対に他人を信頼してはダメよ。ただでさえ、貴方は」
「……そんなこと、今更言われなくても分かってるよ」
自然と視線が地面に落ちる。悲しそうにしている舞依の顔を浅井は見たくなかった。
「人間はどんなに信頼を寄せていても、平然とそれを裏切る。他人との付き合いなんて、上辺だけでいいの」
俯いたままなので、姉がどんな表情なのかは分からないが、声色で悲しんでいることくらい浅井には分かっていた。
何度言っても分かろうとしない弟に対して悲しんでいるのではない。姉は自分自身に悲しんでいる。
恐らく分かっているのだろう自分が間違った常識を弟に刷り込ませようとしていることくらい。だから罪悪感に苛まれて、悲痛に聞こえてしまう。本人にはとっては精一杯冷静を、いや、冷酷な人間を装っているつもりだろうが、根が優し過ぎるのにそんな演技上手く出来る訳がない。
「ねえ、誠之。わたしの言ってる事、間違ってるかな?」
ずるい質問だと浅井は思う。ここで否定するのは簡単だ。だが、浅井はこれ以上悲しそうにしている舞依を感じたくはなかった。自分のせいで、悲しませたりはしたくなかった。
「間違って、ないと思う……」
これでいい。そう自分に言い聞かせる。これでいいんだと。
「今日はもう閉店にして、帰りましょうか」
「姉さん」
「なに?」
「他人を信じちゃ駄目だってことは分かるよ。でも……」
俯いていた顔を上げて浅井は舞依を見据える。
ドアを開けようと伸ばした舞依の手が止まる。
「……ごめん。何でもない」
この話題が出る度にいつも思っていた事を言おうとしたが、舞依を見た途端にその決意はあっさりと薄くなってしまう。
舞依が涙を堪えて無理に笑っているように見えたからだ。
「姉……さん?」
「家に帰りましょう。誠之の好きなカレー作ってあげる」
「姉さん……」
そうやって本心を明かせないくらい子供なのだろうか、そんなに頼りないのかと浅井は不満に思う。
歳が離れているのは、時間にすると五年分だ。五年を長いか短いかは人それぞれだと思うが、浅井はたった五年だと思っている。いや、本当は五年という年月がいかに長いかを知っているが、短く思いたいだけなのかもしれない。