第18話「二人の軌跡 2」
蝉の鳴き声が重なって聞こえる。田舎で人気が少なく周りには木々が生い茂っているから人よりも蝉の数の方が多いのではないかと思う。
あまりの暑さにベンチでうなだれている浅井の隣で優衣が地図と格闘していた。時折地図を白い指でなぞり何かをぶつぶつ呟いている。
浅井が空を見上げると高い位置に太陽があり青い空が広がっていた。田舎の空は今まで見ていた空よりも青の色を増し輝いている様に見えるのはただの錯覚だろう。
ベンチに座っている浅井と優衣の前を地元の子供達が元気に走って行く。その子供達を見送りながら浅井は呟く。
「……元気だなぁ」
「えっ? 何か言ったかな?」
「いや。元気だなぁとね。で、どうだ? 何か分かったか?」
地図を畳みながら優衣は申し訳なさそうにしおれる。
「全然見当もつかないよぉ」
「……それは困るな」
川上町はローカル線の線路しかない小さな町だ。優衣と一緒に東北の地を目指して電車を乗り継ぎ訪れた石原町の駅の外に設置されているベンチで浅井と優衣は途方に暮れる。
この町から目的地の場所までどう行けばいいのか優衣が分からなくなってしまったせいである。目的地は浅井が生まれ育った場所そこに行けば何か過去の記憶を手繰り寄せる糸口があるのではないかと考えたからだ。
肝心のその場所への行き方が分からなければ意味がないのだが。
「ごめんね。私も記憶が曖昧だから……」
「謝るなよ。俺が行きたいって言ったんだ。だから俺にも責任があるよ」
「う〜ん。方角は合ってるはずだし……この県のはずだし……ここから電車じゃなくてバスだったかなぁ」
旅費の全てを優衣が出しているのに優衣がしょぼくれる意味は無いと浅井は笑う。
そうだ。自分は一円も金を出していない。状況が状況だったからと言われればそうだが。それでも何かしなくてはと浅井は思う。思うが何も出来ていないのが現状だ。
前を見ると道路を挟んで向こう側の歩道からワイシャツにチェック柄のズボンを履いた高校生が横断歩道を渡り近づいてくる。浅井は駅の中に入って行くのだろうと思っていたが。男子高校生は浅井達の前で止まる。
「何かお困りですか?」
「あっ。実は道に迷ってしまいまして。黒川市って所に行きたいんですけど」
立ち上がって地図を見せる優衣。
「黒川市ですか? ここからバスで一時間程走れば着くと思いますよ」
優衣が浅井を振り返り。どうだこれで方向音痴とは言わせないぞと読み取れる表情をする。浅井は静かに拍手を送り優衣の方向感覚を讃えておくことにした。
「ところで浅井誠之君だろ? ほらサッカーの情報雑誌で特集された」
「ええっ!? そうなんですか?」
驚きの声を優衣が上げる。
そこまで驚くことないだろうとベンチに座っている浅井が小声で呟く。
「それって結構前ですよ。よく覚えていますね」
座ったままでは失礼なので、浅井は立ち上がり優衣の隣に並ぶ。
「記憶力にはそれなりに自信があってね。俺もサッカーやってるし。あぁでももう引退したけどね。今年で三年だからさ……自己紹介がまだだったね。僕は地元の石原高校三年の井上圭一。」
「浅井誠之です。こっちは……」
「神菜優衣です」
「っと。確かそろそろ黒川市行きのバスが来る時間だと思うよ。サッカー部に黒川から来ている奴がいるからバスの時間は憶えているんだ」
静かに心臓が高鳴るのが分かる。目的地としていた場所はもうすぐだ。そこに行けば何も変わらないかもしれない。だが、何かが変わってしまうかもしれない。
「今すぐに行くって訳じゃないですから大丈夫です」
「そう。じゃあ俺は家の手伝いがあるから……そうだ。もし旅行か何かで来ているなら泊まる場所は是非みやぎ旅館を。俺の親父達がやっている旅館だけど」
「考えておきます。ありがとうございましたっ」
手を振りながら明るい声で井上にお礼を言った優衣の横で浅井は複雑そうな顔をしていた。
「そう焦ることないよ。夏休みはまだまだ続くんだよ?」
「それも……そうだな」
バスで一時間の場所か行こうと思えば何時でも行ける訳だ。
「やっぱりすぐ行こう」
「どうして?」
不思議そうに見つめる優依に金銭面での事が気になっているとは言いづらい。言いづらいが言うしかない。
浅井が金銭面の心配を打ち明けると優依はきょとんとした表情をした後に笑い出す。
「なぜ笑う?」
「だ、だってねぇ?」
優依は浅井には見えない第三者に同意を求める様に言った。
「誰に同意を求めてんだよ」
「お金なら大丈夫大丈夫。全然平気だから。私は結構お金持ちなの」
旅が始まった一周間前。貯金から三十万を降ろして来たと当たり前のように言った優依の姿を思い出す。
「ちなみに貯金はいくらくらい?」
「あら、聞きたい? そんなに聞きたい?」
「いや。別に。さ、行こうか」
悪戯っ子みたいに言う優依に対し浅井は興味が無いように対応する。
「わ〜嘘。嘘。えっと貯金は確か五千万くらい」
「はっ? 冗談だろ?」
「嘘じゃないよ。ほら」
言いながら三つの手帳を差し出してくる。
それらを確認して簡単な足し算をすると総額は五千万と少し。そうなると浅井の疑問はただ一つしかなくなる。
「誰の金?」
「私のだって。こうみえて仕事をしている社会人ですから」
えっへんと胸を張る優依に浅井が水を挿す。
「でも学校に通ってたじゃん。それに歳も俺と同じだろ?」
「歳は同じだけど。あの学校には裏口で入ったからね。私や優希を一般の十五センチの物差しで計らない方がいいよ」
それはそうだ。特に殺し屋なんて三メータくらいの定規でないと計れそうもないだろう。もっとか。
「あの後ユキはどこに行ったんだか。悠緋さんのところか?」
「河瀬悠緋を黒木と白木の二人に護らせているみたい。優希は前に黒影とは縁を断ったみたいだから使える部下がそういないはずだよ。優希本人は分からない。彼が本気で姿を消したなら見つける術はないからね」
「そっ……か」
どうにも偉そうに命令している優希の姿は想像出来ない。どちらかと言えば逆に使われていそうだが。
それはあくまで浅井の中の優希のイメージであり実際は分からない。あの一件以来浅井は優希には色んな顔がある事を知り、今まで自分が接していたのは無数にある表の顔の一つだとも知った。
これは優依から聞いた話だが優希は特殊な技能があるらしい。それは自由に声を変えられる事。
アニメの声優が幾つもの声色を出せるように優希も男の声は勿論、女のの声も出せるらしい。
服装や雰囲気を変え時には男。時には女になり一人で何十人になれるそうだ。優希が別人になりすませばそれを見分ける方法は皆無だ。だからこそ優希の居場所を掴むのは難しい。
木は森に。人は人の中に隠せとはよく言ったものだ。
「あっ。夏雪、見て夏祭りだって」
いつまでも駅前にいる訳にいかないので町の中心部に歩いていく途中の店屋の窓にポスターが張られていた。
そのポスターを目敏く発見した優依は店に駆け寄る。
「夏祭りなんてそんなに珍しくないだろ?」
「そうだけど。やっぱりお祭りは楽しいよ」
嬉々としてポスターを見入る。その嬉しそうな横顔はとても無邪気でとても輝いて見え浅井は意味もなくどきっとした。
「その祭りは今年からやるんだよ。高校の生徒さんが実行委員でねぇ」
肉屋のおばさんが店先でポスターを眺めている優衣に向かって声をかける。
「あっ。すみません、お店の邪魔でしたね」
「気にするこたぁないよ。どうせ閑古鳥が鳴いてるんだから」
豪快に聞いていて心地よく笑うおばさんの前で浅井には自然と笑みがこぼれていた。本当にのどかな一日。
空を見上げると何処までも空は青く広く繋がっていた。この空の下のどこかに優希が居て、高宮が居て、雪夏が居て。それぞれ自分のするべき事をしているのだろうか。
この空の下にもう舞依はいない。受け入れがたい事実。だがそれは紛れもない事実。それが浅井の心を重厚な黒雲が覆い尽くす。
「えへへ。コロッケ貰っちゃった……あれ? 夏雪?」
浅井は目から流れ落ちそうになった雫を腕で拭うと笑顔で後を振り返る。もう二度と人の前では涙を流さないと決めたから。
「良かったな。ちゃんとおばさんにお礼言ったか?」
小さい子供にする様に浅井は優衣の髪を優しく撫でる。
「もう。子供扱いしないでよっ」