第16話「柏木優希と浅井誠之」
「ユキ……」
浅井は病室で見た優希を思い出す。普段通り変わらぬ笑顔ではあったが、どうしてか優希の顔を見ると不安と恐怖が込み上げてきた。それがどうしてなのかはあの時の記憶が無い浅井には分からずじまいだった。
「彼の本当の名前は柏木優希。日本有数の資産家である柏木グループ会長の子息……というのはあくまで表向き。裏世界では黒影と呼ばれ恐れられています」
「黒影……?」
どこかで聴いたことがあるような気がするが、それが何処でなのかは全く分からない。
黒影と白木が言った時に浅井の横にいた雪夏の表情が少しばかり変化する。その変化に浅井は気づかないが、白木は雪夏の悲しそうな顔を横目で見ながら話を続ける。
「闇から闇へ。太陽の光が届かない場所に出来る影の中でしか生きられない一族はやがて黒影と呼ばれるようになったと言われています。
柏木・黒木・白木の三家は元々暗殺を請け負う一族として永い歴史の中を生きて来ました。権力者の突然死にはほとんど関わりを持っているとも言われ、代々受け継がれた技術を今も捨てることはなく僕達は大勢の人間を殺しています。時には自分達の企業の利益になるように。時にはこの国から法で裁く事が出来ない者達を殺すように頼まれた事もありました」
そこで一度言葉を切り、白木は腕時計を確認する素振りを見せる。
「最近では三家をまとめて黒影と呼ばれていますが僕達の間では黒影とは個人を指す名前です。柏木・黒木・白木の三家の裏の顔をまとめる存在であり、三家の中から最も優れた技術を持つ者に受け継がれる名前。
不思議でしょう? 黒影とは元々周りが呼び始めた名称なのに現在では自分達でそう名乗っている。これは僕の私見ですがおそらく気づいているのでしょう。いくら光の下で生きようとしても自分達には捨てられない闇の部分があることに。自分の影はどうしても捨てられませんからね」
ふと白木が笑顔を崩し、温かさの感じられない無機質な瞳で浅井を見つめる。
見つめられた浅井は暗示にでもかかったのかのようにその場から動けず。そして映画のワンシーンを見てるようにあの日の光景が蘇る。
腹部に突き刺さったナイフ。静かに見下ろす冷たい瞳。暗闇の中で光る銀色の刃。無表情で意味が分からない事を言った優希。
次々とあの時の状況を思い出した浅井は背筋が本当に凍った気がした。急に寒気が襲って来るが、寒さを感じているはずなのに額から汗が頬を伝わる。足が震えまともに立っていられなくなりその場にうずくまる。
「大丈夫っ!?」
しゃがみながら雪夏が浅井の両肩に両手を添える。
「っ……」
「やっぱり、記憶を操作されていたようですね。薬を使い記憶を改ざんする。莉遠がもっとも得意とする技術か」
胸に痛みを感じるのは心がその場所にあるからか。浅井は頭の片隅でそう思った。
一年前。初めて優希と会ったの日の事を思う。第一印象に人の良さそうでどこか好感が持てそうだと感じた。事実優希は人が良くて、誰からも好かれる存在だった。そしてただ人が良いだけじゃない。自分には無い強さを持っていた。
まだ転校して来て日が浅い優希がクラスでいじめを受けていた男子生徒を庇い、いじめをやめさせたことがあった。思えば浅井はその時から優希に友達以上の感情を抱いていたのかもしれない。そう、同じ人としての憧れを浅井は優希に抱いていた。
心優しくていつも笑顔で。心から信じられる。本当に聖人君子のような人間だと信じていた。しかし優希は人殺しで、自分をも殺そうとした。
それを知ってしまった浅井には一年前。突然いじめを止めた男子生徒と女子生徒のグループの事を思い出す。ある日を境に何かに怯え始め、そして逃げる様に転校して行った数人の姿を思い浮かべる。
もしかしたら、あいつらは優希に脅されていたのかもしれない。
様々な憶測や仮説が頭を駆け巡る。出来る事なら白木の言った事を否定したかった。何も知らずにいたらそれが出来ただろう。だが、今の浅井には確かな記憶がある。河瀬優希が自分を殺そうとした確かな記憶が。
一層胸の痛みが強くなる。悲しくはない。だから涙も流さない。ただ、痛いだけだ。心が軋むように痛いだけだ。裏切られたこともない浅井にとっては初めての痛みだった。もしかしたら舞依は裏切られることの痛みを知っていてだからこそ浅井に誰も信じるなと警告していたのかもしれない。
ゆっくりと浅井は目を開き、立ち上がる。
できるだけ冷静にならなくてはならない。ここで取り乱して喚いても何も解決はしない。まだ痛みは襲って来るが、現実から目を逸らすことはしたくない。
「白木……ユキはどこだ? どこにいる?」
「会って、どうしようと言うんですか?」
「俺を殺す理由を聞く。俺としても何も分からないまま殺されたくはないからな」
白木が初めて戸惑いを見せる。浅井に優希の居場所を告げていいかどうか、誰かに指示を仰いでいるかのような表情だ。
「……彼の居場所を教える事までは許可されていない」
「だったら、今すぐその許可をもらえ。俺はユキに会って話をしたい」
「言うほど簡単な事では……」
「やっぱり君は面白い人だね。まさか一度は殺そうとした人間に会いたいなんて……ね?」
後ろに居る雪夏が含み笑いをしながら言った。
「雪夏……?」
「違うよ。僕は」
慌てて振り返った浅井の視界に映ったのは、雪夏ではなく雪夏の姿をした柏木優希の姿だった。
「白木。もうすぐ莉遠が来る時間だ。黒木と合流して例の場所で待機していてくれ」
「分かりました。それでは浅井さん。良い夜を」
後ろで白木が何かを言ったが、浅井にとってはどうでもいい事だった。目の前に優希がいる。浅井の知らない柏木優希が目の前に立っている。
「お初にお目に掛かります。柏木家現当主の柏木優希。宜しくお願いします」
「ユキ……一体何が」
「順を追って説明するよ。まず雪夏の事なら心配がいらない。
今頃は家で眠っているはずだから。あと月の兎は本当に実在する組織で本当に雪夏と清はその組織の監視員だ。君に月の兎の存在を教えたのは君にとって唯一血の繋がった妹が組織にいるから……君に教えることはシンも同意していることだよ。だけどあまり口外はして欲しくない後始末が面倒だからね」
時間が無いのか、優希は口早に次々と言葉を繋いでいく。浅井は聞き洩らさないように必死に聞き耳を立て。優希からもたらされた情報を脳に刻む。
「気をつけた方がいい。君は不特定多数の組織から命を狙われている」
「俺が……なんで?」
「悠緋を人質にとって僕に君を殺す様に依頼を出した組織は潰した。だけどその組織に命令を下した上層組織はまだ分かっていないしその組織の目的もまだ分かっていない。けど君を邪魔に思い殺そうとしている事は確かだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんで俺が邪魔だと思われなきゃならないんだよ。ハッキリ言って心当たりなんかないぞ?」
優希は浅井に背中を見せ、ガードレールに手を置いて街を見下ろす。
「本当の浅井誠之だったら良かったんだよ君が」
突然の優希の言葉に浅井は首を傾げる。
本当の浅井誠之だったら良かった……? どういう意味かと浅井が訊き返そうとするよりも早く優希が口を開く。
「君の本当の名前は蒼羽夏雪。君の本当の父親は蒼羽夏樹十一年前に暗殺されたこの国の首相だった人だよ」
「えっ……?」
「これは僕個人の憶測だけど。君は蒼羽首相の死に何か関わりを持っている……あるいはその真相を知っているんじゃないかと思ってる」
優希の言葉を信用するべきか、ふらつく足を懸命に支えながら優希の背中を見つめる。
視線を受けていた優希はゆっくりと振り返る。振り返った優希の目は本気だった。今言った事が嘘ではないとを目で訴えている。
「信じるか信じないかは君次第だよ。でも、これだけは信じて欲しい。君には双子の妹がいる。言った事が嘘ではないとを目で訴えている。
「信じるか信じないかは君次第だよ。でも、これだけは信じて欲しい。君には双子の妹がいる。名前は蒼羽雪夏……雪夏と君は血の繋がった兄妹だよ」
「……ははっ。俺と雪夏が兄妹? 俺の父さんが総理大臣? そんな話……信じられるはずないだろっ!?」
目に涙を溜めながら浅井は優希を睨み付ける。
もし優希の話を信じるのなら、浅井は今までの生活が嘘で塗り固められた事を認めなくてはならない。
浅井孝太郎に引き取られてからの生活。舞依が働くようになってからは舞依に引き取られこの地に引っ越して来た。
楽しかった毎日が。いつも笑顔で優しかった舞依すらも嘘に満ちた世界だった。知らないのは自分だけだった。
優希の言葉を信じるのならもう戻れない気がするから。だから。
「お前の話なんか信じられるか……俺の家族は姉
さんだけだ。妹なんかいない。俺は。俺は浅井誠之だ!」
語気を荒くし大声で叫ぶように言い切った浅井は苦しそうに肩で息をする。
「君にとって神菜舞依の存在は他の何よりも勝っている……か。君に莉遠の事を話すのは酷かも知れない。でも、僕は君に真実を知って欲しい」
今まではずっと雪夏の声だった優希が自分の声色で喋った。
浅井には昼にも聞いたはずなのに優希の声が随分懐かしいと感じる。
「過去に柏木は同じ一族同士で殺し合いをした事がある。柏木本家に対して、幾つかの分家が反旗を翻し、反旗を翻した柏木の分家は裏遠と呼ばれるようになった。柏木本家の意志が柏木の表面上の総意。それに反逆した裏の意志。永遠に柏木の裏という意味合いだと僕は思う」
更新が凄く不定期で申し訳ありません作者でございます。主人公ともども大した特徴はありませんが、どうか見捨てないで頂ければ幸いかと思います。