第10話「ラッコ」
駅から徒歩で十分の場所にこの街で、カップルの待ち合わせの目印に使われる不運な水族館がある。何が不運かといえば水族館の存在価値はあくまでも分かりやすい目印でしかない事だ。水族館の前で待ち合わせをしたカップルがその水族館に入る訳ではないのだ。
この街でデートすると言ったら最近建設され駅前から直通のバスが出ている遊園地か、駅前に鎮座している大型デパート。それに映画館が一般的だろうと浅井の隣の席の國御坂は言っていた。
自分がデートなんてしたこともない癖にと浅井は思う。そんな奴に水族館も批判されたくはないだろう。
腕時計を見ると十時まで五分を切った。まだ莉遠の姿は見えない。
家を出るときは待ち合わせの時間に間に合わないと思ったが、よくよく考えれば待ち合わせの時間なんて決めていなかった。なら、どうしてそんな記憶が捏造されたのか、この一週間を早足で振り返ってみる。
月曜日。朝に莉遠に殴られてアホな裁判をして黒木先生に脅されて、訳が分からなくて。あまり思い出したくもない厄日だ。
火曜日は記憶に残っている事すらない。水曜日も、どうでもいい。
思い出すのも面倒になったので浅井はどうでもいいやと結論に至る。
待ち合わせの時間も分からないのだ、十時になっても来なかったら家に帰って寝るとしよう。
そう決意をして顔を上げると道の向こうから見覚えのある少女が歩いて来ていた。
その少女は水族館の門の前に立っている浅井を見て、少しだけ意外そうな顔をした。
「来てくれたんだね」
視線を合わせようともせずに、困ったように莉遠が言う。
二人の間に気まずい雰囲気が流れる。浅井はその雰囲気を打破しようとわざと明るく笑う。
「一時間の遅刻だ。これはたっぷりサービスしてもらわないとな」
「……怒ってないの?」
今にも消えてしまいそうな声色に不安そうな莉遠を見ていると高宮ならもっとうまい言葉を見つけるのかなとちらりと思う。つくづく自分の経験不足とボキャブラリ―の少なさがふがいない。
「怒ってないよ」
「叩いたのに? 酷い事言ったのに……?」
「俺も悪いしな。早く入ろう。時間が無くなるし、たっぷりサービスしてくれよ」
「隊長!! ターゲットが移動を開始しました。水族館の中に入るようです」
「そう。後の尾行は私達に任せて高宮君達は待機していなさい」
無線機の電源を切った隊長こと舞依は浅井が水族館の中に入ってから充分な間をとって受付のおじさんに高らかに宣言する。
「大人一枚!」
「あの、僕の分は?」
「忘れてた。ついでに大人一枚!」
水族館分の代金を支払わなくて良かったと優希は内心ほっとする。今月はなにかと出費が多くて生活費がギリギリなのだから、無駄な浪費は避けなければいけない。
こんな人のデートを尾行するなんて正直どうでもいい事で金が飛んで行くのは納得がいかないし一円たりとも払いたくはない。
それにしても、この人はプライバシーという権利を知らないのだろうか、勝手に弟のデートを尾行するなんてことをしていいのだろうか。悩みながらもラッコのコーナーに行こうとした舞依の背中に声を投げ掛ける。
「そっちじゃありませんよ」
舞依が浅井が向かったコーナーとは違う場所に行こうとしたのを思わず引き止めてしまう。
許してくれ浅井。恨むなら僕ではなく僕の性格を恨んでくれ。
「こっちでいいのよ」
「いや、浅井達は向こう側に……」
反対側に行こうとした優希の腕を掴み、問答無用でトイレに向かってずんずん突き進む舞依の手を振り払おうとしても、腕が少しも動かない。
本当に女の人の力かと優希は舞依の性別を疑う。ゴリラが人の着ぐるみでも着ているのではないだろうか。
連行された先は女子トイレの個室の中。
「何で女子トイレに連れ込むんですか!? 何の罰ゲームですか!?」
「うるさいわよ。人が来たら面倒でしょう」
逃がさないと言わんばかりに個室のドアに鍵をかけた舞依は肩から下げていた浅井がいつも使っているエナメルバックをトイレの床に下ろすと、エナメルバックを開ける。中には所狭しと女物の服が詰め込んであった。
さすがに嫌な予感を覚えた優希は初めから気になっていたことを聞く。
「あの、どうして僕を連れて来たんですか? 先輩や高宮達は外から見張らせておいて……」
「君なら女の子になれると見込んだからよ。悠緋ちゃんは変装してもバレちゃいそうだし、高宮君は問題外。でも、君なら完璧な女の子になれる! さぁ服を脱いで!! パンツも!」
パ、パンツも!? 冗談でしょ!?
「あ、あの、一体何の為に僕が女装を……?」
「誠之の近くに行ったり接触してもばれないようによ。さあ、観念しなさい!!」
少しは心の準備を、待って、少し待ってぇぇぇぇ!!
「ラッコ?」
莉遠がラッコが見たいと言い出したので、浅井はパンフレットを確認する。どうやら戻らなければいけないみたいだ。
「来た道を戻るしかないな。ラッコは順路に従って行くと最後らしい」
「すぐ戻ろう」
即答した莉遠はくるりと身を翻して来た道を戻って行く。浅井も莉遠に続き、左側の一度見た水槽の中にいる魚をもう一度見る。
「あれ?」
入口の近くにあるラッコのコーナーの近くで浅井は足を止める。水槽を見ながら歩いていた莉遠は隣に浅井がいないのに気づき立ち止まり、後ろを振り返った。
「どうかしたの?」
「いや、そこのトイレから今悲鳴みたいなのが聞こえた様な気がして」
途端に莉遠の表情が険しくなる。
「悲鳴? しかも犯罪の宝庫のトイレから?」
「犯罪の宝庫かは知らないけど、気のせいかな」
「誠之は男子トイレを見て、私は女子トイレを見るから」
考える時間を与えないつもりか莉遠は足早にトイレに近付き女子トイレの中を窺う。
やれやれと浅井は頭の後ろの髪に触れる。
水族館に入る前はしょんぼりしてたのにもう明るさを取り戻している。情緒不安定と言われても文句は言えそうにないんじゃないか。
それにしても。もし男子トイレの中に恐喝されている少年なんかがいたら、自分はどうしたら良いのだろう。助けるにしても、喧嘩は苦手だし、痛いのは嫌いだ。大体話した事もない見知らぬ他人の為に自分が痛い思いをするのは馬鹿げている。
すぐに警察に知らせる事が出来るように携帯を片手に持っておくか。
ズボンのポケットから携帯を取り出し、男子トイレの中を慎重に窺う。
後ろを振り向くと短い通路を挟んで反対側にいる莉遠と目が合う。
莉遠が頷くと浅井は男子トイレの中にいかにも用を足しに来ました的な雰囲気を醸しだしながら入っていく。
トイレの中に異常無かった。
不良みたいな兄ちゃんが誰かを取り囲んでもいないし、殴られて鼻から血を出している少年もいない。ただ所々汚れている男子用の便器が三つあるだけである。
個室の中まで確認する必要はないだろう。
ほっと安心しながら男子トイレから出ると、女子トイレの入口のドアの前で、頭を下げて謝っている莉遠の姿が目に飛び込む。
莉遠が謝っている相手は二人居てどちらも女の人だった。女子トイレに入っているのだから当たり前か。
「どうかしたの?」
莉遠の隣に立ち、何があったのか尋ねると困り切った莉遠が浅井を見て説明しようとするが、
「なにもありませんよ。少しぶつかってしまっただけですから、気にしないでください」
先に口を開いたのは莉遠が謝っていた相手だった。浅井と同じくらいの身長で浅井より幼く見えるショートカットの少女が明るくハキハキした口調で言う。
肩よりも短くカットされた黒髪はサラサラと流れそうなくらい柔らかく、清潔感が漂い、何でも見通せるかのような二重の双眸。目鼻立ちは美しく整い欠点などありはしない。程よく日焼けをした肌はスポーツマンって感じを醸し出している。
街を歩いていても五人に三人は振り返り、二人は横目でしっかりと見て行きそうだ。まさに美少女と呼ぶに相応しいと浅井は思う。
外見とは別だが声にも強い印象を受ける。まるでアニメの中に出てきそうな声だ。
声優みたいな声と言えば良いいのか。それも悠緋さんが好きそうな。
「本当にすみません」
なおも頭を下げて謝る莉遠に習い浅井も頭を下げる。
「ああ、いや。そんなに謝らないで下さい。出会い頭でしたし。あたしも悪いのですからおあいこってことで」
頭を上げ、苦笑いをしている少女を見ながら浅井は関心していた。
見た目からしてまだ中学生くらいだが、年齢の割にはしっかりしているらしい。
「あなた達は恋人?」
今まで静かに事の成り行きを見守っていた長身の女性が尋ねてくる。
「えっ!? い、いや……」
予想もしていなかった質問に浅井はしどろもどろになる。
莉遠との関係は一体何なんだろうと思うのと同時に長身の女性があまりにも美人で揚がってしまう。
流れるような長い黒髪。透き通るような白い肌はまるで純白の雪を思わる。
ぱっちりと開かれた丸い瞳。精巧に均整の取れた顔立ちはまるで人形みたいだ。
着物を着せれば大和撫子と呼ばれるに違いないだろう。
しかし、浅井には長身の女性に見覚えがあった。それに雰囲気にもだ。
その長身の女性は舞依によく似ていた。
「それで、あなた達の関係は?」
「俺達の関係は恋人?」
この独り言とも取れる浅井の言葉で、莉遠の頬は真紅に染まる。
「こ、こ、こ、恋人!? な、何変な事言ってるの!? もう私ラッコ見てくる!」
走りながら去って行く莉遠の後ろ姿につかめないと知りつつ手を伸ばし、
「莉遠! って仕方ないな。えっとすみませんでした。それでは」
ショートカットの少女と長身の女性に一瞥してから、莉遠の後を走って追う。
本当に情緒不安定なのかもしれないなと考えながら、ラッコのコーナーを逆走して莉遠の姿を捜す。
「あら〜。見事に振り回されてるはね」
それでもどこか嬉しいそうな舞依に対して優希は、簡単に返答する。
「浅井ですからね」
「それどういう意味かしら? うちの誠之は甲斐性無しとでも?」
「違いますよ。ただ浅井は鈍感なだけです」
それはつまり甲斐性無しって意味じゃない。と言う舞依を無視して、優希はたった今起きた出来事について考えていた。
どうやら浅井にはばれずに済んでなによりだ。恐らく莉遠には見破られているだろうが、別に構わない。それに今は莉遠の事よりも、
「さあ。行くわよユキちゃん!」
この人の心配をしなくてはならない。
良識ある社会人なら心配などしなくてもいいような気がするが、万が一馬鹿な行為をするようなら、止めなくてはならない。
可愛い弟の為になると、普段から可愛がりなおかつ優しくて真面目な姉ほど何をしでかすか分からないものだ。
優希は何も起こらなければ良いと内心願いながら、舞依の後を追う。