記憶を拾う
記憶を拾う仕事をしている。見渡す限り延々と続く砂漠を歩きながら、ぽつりぽつりと落ちている記憶を拾う。目を凝らさなければなかなか見つけられないけれど、周りと少しだけ色が違うから、それが記憶だとわかる。
色々な記憶がある。眼鏡を机の上に置いた記憶。二人で夜明け前の海を眺めた記憶。父親に手を引かれて縁日へ出かけた記憶。産まれたことを祝って集まった親戚に、次々と顔を覗きこまれた記憶。拾い上げると記憶は嬉しそうに少しだけ脈打つ。僕はそれを、背中のかごへと放り込む。特別な藁で編まれた籠だから、それは記憶を受け止めることができる。今日も一杯になるまで、僕は記憶を放り込む。
僕には記憶がない。いや正しくは、記憶をどこかへやってしまった。毎日たくさんの記憶を拾い集めたものだから、それに紛れ込んでどこへ行ったか分からなくなってしまったのだ。多分触れれば思い出すのだと思う。あ、これは僕の記憶なんだって。だって自分の身体で経験したものなのだから、それは使い古した傘の柄のように、僕の手のひらにぴったりと吸いつくだろう。もしかしたら、気づかないかもしれない。自分と他人の記憶とは、本質的な違いを持っていない。
いつも通り記憶を拾い上げた時、これは僕の記憶だって気がつくことがある。それはとても懐かしくて、手触りもぴったりしている。それは間違いなく僕の記憶だ。それは例えばこう言う記憶だ。毎日えさをあげていた子猫がある日突然いなくなる。僕は持ってきたパックの牛乳と煮干しを握り締め、しばらくその場に立ち尽くす。それからちょこんと座り込んで、煮干しを齧りながら牛乳を飲むのだ。牛乳は温くなっていて、少しだけ気持ち悪い。記憶の中で僕は小さな女の子で、それから腹が立つほど純粋に透き通った肌を持っているけど、それは確かに僕の記憶だ。
こう言う仕事をしていると、時々寂しい気持ちになる。一人でしか出来ない仕事だから同僚も存在しない。それに拾い集めるのはいつも、誰かに置き忘れられたり、捨て去られたりした記憶だ。それを拾い集めながら、孤独の片鱗のようなものを、それらから受け取ってしまう。感化される、と言う方が少しだけ正しい気がする。拾い上げる瞬間に、記憶たちの孤独や悲しみが指先の毛細血管からじんわりと染み込み、それは大きな血管の中へと次々と流れ込むと、全身を巡って僕の心臓へと蓄積していく。だから僕の心臓は、結構重い。僕は一度、鉛のようになったそれを取り出して、中身を綺麗に洗ってしまいたいと思っている。肩こりも少し楽になるかもしれない。
ときどきは、同業者と行き合うこともある。同業者はすぐにわかる。僕たちは必ず地面を見ながら歩いているから、背中は大きく曲がっている。それから大きさや形は違っても、必ず背中には特別な籠を背負っているのだ。それは空っぽのときもあれば、満杯のときもある。空っぽに見えるけど満杯のときもある。僕には全部の記憶が見えるわけではないから、多分そう言う人は僕には見えないものを拾って集めているんだと思う。きっとその人からは、僕の満杯の籠は空っぽに見えているんじゃないかなと考えたことがある。でもそのことを思いつくのは大抵一人で歩いている時だし、訊ねるチャンスにめぐりあうときには不思議とすっかり忘れてしまっているから、結局いつまでも訊くことは出来ないでいる。今度こそ忘れないように、どこかに書き付けておいた方が良いかもしれない。紙と鉛筆はどこへやったかな。
僕たちは基本的に、すれ違っても声をかけない。互いの仕事に互いは関係ないし、その必要がないからだ。すれ違いざまには小さく会釈をしたりする。しないこともある。お互いに地面に夢中で、気付かないこともあるし、気付かなかったことにすることもある。いずれにせよ僕らはあまり交流を持つことを好まないのだ。だけどそんな僕でも、三回に一回くらいは会話でもしてみようという気になることがある。それは他の人達も同じみたいで、結果的に僕たちは九回に一回くらい、会話をすることになる。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日は暑いですね」
「いいえ、僕には寒いくらいです」
「それは良いことだ」
「いいことですか」
「そうですね、寒いことは暑いことより、幾分か良いですね」
「そういうものですか」
「そういうものだと思います」
「僕には分かりません」
「それは幸運だ」
「そうですか」
「ええ、分かる楽しみが残ってる」
指を怪我することがある。ある種の記憶はとても鋭く尖っているから、それに気付かずに拾うととても危険なのだ。僕がそれをやらかしてしまうのは、いつも午後になってからだ。少しずつ疲れた精神が、その鋭さを見分ける仕事を怠ってしまうのだろう。いつもは注意深く拾う記憶を少し乱暴に触った瞬間、指先に熱さと、それから不気味な感触が走るのだ。痛みはいつも、少しだけ遅れてやってくる。痛みが到着した時に、僕ははじめて怪我をしたのだと知ることになる。指先に斜めに走る切り口からはピンク色の肉が少し顔を覗かせ、切り口からにじんだ赤い液体はしばし玉を作ったかと思うと、指の皺を伝ってつーっと流れ落ちる。砂の上に滴った血液はじんわりと滲んで、一瞬ののちに痕へと変わる。痕になってしまうとそれはただの地面の模様だ。少しも現実感はないし、それが自分から流れたものだと言うのもあまり実感できない、ただのシミ。僕の右足はそれを周囲の砂と混ぜ、しっかりと散らしてから良く踏み固めてしまう。それから布をちぎって止血をし、今度は出来る限り優しくその記憶を拾い上げると、籠の一番上に丁寧にのせる。
素手で記憶を拾う人は、あまり多くはない。色々な人を見ていて、ぼんやりとそのことがわかってきた。素手で拾うのはだいたい三人に一人で、三人に一人は手袋をしているし(もちろんそれは特別な素材で出来た手袋だ)、三人に一人は箸やトングのような道具を使って記憶を拾い集めている。僕は何も考えずに素手で拾っていたから、彼らの知恵に感心した。それから僕も、試してみた。手袋もトングも結構高かった。僕は老後のために溜めていたお金を使って、それらを買ってみた。両方一度だけ使って、それからはもう使わなかった。物事にはやはり向き、不向きというものがあって、それは多くの場合、人間にとって最も大事なものの一つだ。ずっと素手で拾い続けた僕は、道具を使うことに不向きになっていた。僕は手袋で拾う人にも、トングで拾う人にもなれたのかもしれない。昔の僕は確かにそう言う可能性も持っていた。でも今の僕は、もうそれにはなれない。今の僕はどう頑張っても、素手で記憶を拾う人なのだ。
僕は今日もまた記憶を拾う。明日も拾うし、明後日も拾う。それより先はちょっと分からないけど、多分ずっと拾うんじゃないかな。背中を丸めて地面を眺め、見落としそうな記憶を摘む。同業者には会釈をして、ときどき彼らと言葉を交わす。不注意をして怪我をして、地面に作ったシミを散らして、それから再び記憶を拾う。毎日、毎日。そういうのって、結構悪くない。