道行く者たち 捌
翌朝のこと。
いつものように朝の鍛錬を済ませ、井戸端で顔を洗っていた折、俄に城内が騒がしくなった。理由は考えるまでもない。
せめて朝飯を済ませてから目覚めて欲しかったが、今となっては詮無きこと。手早く濡れた顔を手拭いで拭き、愛刀を片手に騒ぎの階へ上がっていくと、案の定、眠りから覚めた布都が武者相手に暴れていた。
武者たちも太刀を抜き払って威嚇しているが、布都を丁重に扱うべしという刀哉の命に従っている為に手出し出来ず、投げつけられる皿を避け、あるいは具足にぶつけられている始末。
それを傍から見る白刃は明らかに不機嫌を通り越して憤怒の形相を呈しており、今まさに小太刀を抜いて布都に飛びかかろうとしたとき、刀哉の手が彼女の肩を掴んで引き止めた。
「あ、殿! おはようございまする! ご覧くだされ、あの狼藉者を! 殿のご温情によって救われておきながらあの態度! この桜一文字にて成敗してくれましょうぞ!」
「落ち着け。目覚めた場所が見知らぬ城では動揺するのも道理。俺が話そう。武者どもを退かせろ。下手に警戒させることもない」
不満げな表情を浮かべる白刃も主君の言葉となれば如何ともし難く、渋々武者たちを霧散させ、事の成り行きを小太刀の柄を指先で撫でながら見守った。
さて件の布都である。記憶の上では命蓮寺に乗り込み、神霊廟に差し向けられるであろう刺客を退治してやろうと啖呵を切ったあたりまでは覚えているのだが、気づけば覚えのない天井と座敷が広がり、しかも部屋の外に出てみれば物々しい鎧武者に取り囲まれてしまったのだから堪らない。悲鳴をあげて術を四方八方に放ち、障子も襖も無残なことになってしまったが、布都にとってそんなことは思案の外で、近づいてくる刀哉にも怯えた視線を向けて呪符を構えた。
「お、お主は命蓮寺の刺客! おのれ! 我を人質に太子様をおびき出すつもりか!」
「何を勘違いしているのか知らんが、俺は命蓮寺に雇われた刺客でも、神霊廟とやらに乗り込むつもりもない。ただ偶然そこに居合わせただけのことだ。そちらが襲ってきたのでやむを得ず此処へ運んだ。第一何の根拠で俺を狙ったのだ?」
「ふふん、隠し立てしたところで無駄無駄ァ。博霊や守矢の巫女どもと結託しているのであろう? すなわち合力して我らを討ち果たさんとする企みに相違なく、お主はその先鋒として雇われた刺客に違いない! 太子様の命により、お主を神霊廟に引っ立ててくれるゆえ、心しておれ! どうだ、参ったか!」
「参った……まさかここまでとは……」
「さあ、化けの皮が剥がれたところで我が道術を喰ら――」
「だまれ!」
珍しく刀哉が怒号を飛ばし、布都は目を丸めて固まった。
白刃も息を飲んでいる。
呆れを過ぎれば怒りがこみ上げ、しかも自分の論が絶対に間違いないと信じる相手を黙らせるには論よりも威を用いるに限る。
彼は刀の鯉口を切る勢いで凄んだ。
「その太子とやらが如何なる人物か知ったことではないが、よくよく吟味もせずに刺客と決め付け、あろうことか引っ立てるとは何事か! そこまで俺を刺客というのならば是非もない! 今すぐにでも神霊廟に行って太子とやらに直談判だ! 来いというのならば行ってやる! 事と次第によっては太子の首を……む? 待て。太子が俺を引っ立てろと命じたとな?」
怒気が徐々に疑念へと変わり、布都が大きく頷く。
「うむ。聡明な太子様はお主を神霊廟まで引っ立てろと仰ったが、お主ごとき我がとっとと片付けてくれようと思ったまでのこと」
もはや言葉を失った。結局のところ、この騒ぎの発端は布都が主命を勘違いしただけのことだったのだ。そもそも引っ立てろという言葉自体が誠に怪しい。太子が如何なる人物かは皆目検討がつかないが、少なくとも恨みを買うような覚えは無く、恐らくはただ神霊廟に案内せよという指示だったのだろう。彼にとって不幸だったのは、時を同じくして霊夢や早苗と共に命蓮寺へ赴いたことだった。
理不尽ではあるが、布都の誤解の要因を少なからず自覚した彼は息を整え、穏やかに声をかける。
「度々言うが、俺は神霊廟にも、ましてや太子殿に刃を向ける気など毛頭ない。太子殿が俺に用があるならば伺おう。物部も、ここは一つ穏便に事を運んではくれないか? これ以上騒ぎを大きくしたく無い。このとおりだ」
刀哉は布都に頭を垂れた。口出ししようとした白刃を手で制し、布都の様子をちらりと見れば、意表を突かれた彼女は暫し彼の言葉を噛み砕いていく内に己の誤解に気づいたらしい。
「も、もしや……我の早とちり、か?」
「だから殿は最初から仰っていたであろうが! この落とし前を如何につけてくれるつもりか」
白刃の追い打ちに布都はすっかりしゅんとしてしまい、互いに気まずい空気が流れたところで、女中の一人が廊下の陰から恐る恐る声をかけてきた。
「あのぉ~……お取り込み中に失礼致しますだ。朝飯の用意が整ったけども、どうなさいます?」
気がつけば朝餉の時刻はとうに過ぎ、日も高く、とどめとばかりに布都の小さな腹がくぅと鳴った。恥ずかしげに俯く布都に思わず破顔した刀哉は彼女を手招く。
「腹が減っては戦にならぬというし、ここは一先ず、飯にしよう」
「……すまぬ。思えば昨晩から何も口にしておらぬ」
「気にするな。飯は、皆で食べたほうが美味い。白刃も異存はあるまいな?」
「殿のご意向に従うまで」
かくして一悶着の後に奇妙な客人と朝餉の膳をつつき、腹ごしらえも闌に差し掛かった頃合いで本題に入った。
「して、神霊廟とやらは何処にありや?」
「外の世界とも幻想郷も別の場所、かつては命蓮寺の地下深くにあったのだが、諸々の事情で今は狭間の世界に建っておる」
「成程。白玉楼のようなものか。しかし、太子殿とは何者か?」
「御名前を豊聡耳神子様と申す」
「……性別は?」
「麗しくも凛々しい女性である」
「さもありなん」
行く先行く先で出会う者の殆どが女というのは偶然か、はたまた幻想郷にはそういう掟でもあるのかは定かでないが、ともかくも、朝餉を終えた後に出立の支度に取り掛かった。
何の用件かは布都も聞かされておらず、不可解ながらも帯を結び、紋付きの羽織を纏った。
「神子なる者、何を企んでいるのでしょう?」
「わからん。幻想郷の大事ならば博霊か八雲辺りに話を持ちかけるはず。面識も無く、一介の剣客に何故会おうというのか……」
「無礼千万で御座います。用があるなら、向こうから会いに来るのが道理で御座いましょうに」
「尤もだが、向こうも太子と称しているからにはそれなりの気位があるのだろう。故に、客を招くからには相応の礼儀があると見ている。此度は白刃も同行せよ。また小太刀に騒がれては困る」
「しょ、承知致しました。身命を賭して殿をお護り致しまする!」
「ただし、荒事は控えよ。腹の子を第一に、な」
「心得ておりまする」
しかし刀哉にはある予感があった。どうにも一連の出来事が単なる偶然とは考えにくい。霊夢はともかくとして、神霊廟の背後に八雲の影がちらついているように思えてならなかった。今までの経験からくる勘であり、確信は無いが、腑に落ちないことが多すぎて、かの大妖怪を疑わざるを得なかった。
人……ではないが、風評や信用とはこういう時に活きてくる。
が、それも身から出た錆。あの歯がゆく人を小馬鹿にしたような物言いこそ、刀哉が最も嫌う性格だった。
白刃共々身支度を整えて女中たちに留守を任せ、客間で待たせていた布都に整った旨を告げた。
「うむ。では参ろうぞ」
「して神霊廟への道は何処に?」
「ふふふ、我に任せよ」
にやりと不敵に笑った布都が体内の気を練り、指先に霊気を纏わせ、虚に八卦の印を描いていくと、八雲がスキマを開くように神霊廟へ繋がる扉が開かれた。その奥に佇む神霊廟に刀哉も白刃も見惚れて感嘆の吐息を漏らす。中華に端を発する道教の社だけあって紅白を基調とした柱や壁に龍や鳳凰が描かれ、仙人を目指す道士たちの声が聞こえてくる。
幻想郷の宗派の一角を担うだけあって、その規模は彼の予想を上回っていた。少なくとも博麗神社よりもずっと荘厳で綺羅びやかだ。
扉を抜け、敷き詰められた白い石畳を歩く彼らの前に、廟から聖徳王の二つ名を持つ太子神子が降り立った。高貴な紫の外套の下に袖のない純白の衣、手に笏を持ち、腰に七星剣と呼ばれる直剣を吊り下げ、獣耳に見紛う形をした薄い金色の髪が目立つ。
豊聡耳神子――脳裏で彼女の名を思い起こす刀哉の目の前で、布都が神子に深々と一礼した。
「太子様。物部布都、ただいま戻り――あだっ!」
すると神子は手にしていた笏で布都の頭をこつんと打った。
「布都、私の言いつけを勝手な解釈で捻じ曲げた挙句、お客人に無礼を働いたこと、聞き及んでいる。全く君はいつもいつも……」
「も、申し訳ございません……」
打たれた頭を擦る布都を押しのけ、神子が刀哉に歩み寄った。
「ご無礼の段をお詫び致します。神霊廟の主、豊聡耳神子。此度は招きに応じて頂き、感謝します」
気品があり、物腰柔らかで丁重な挨拶に刀哉も相応の礼を返す。
「お初にお目にかかる。経津主刀哉と申す。傍らに控えるは、伴侶の姫鶴白刃なる者」
「白刃で御座る。以後、お見知り置きを」
互いに挨拶を済ませたところで刀哉は続けて神子に問う。
「不躾ながら問い申す。面識もなく、一介の剣客を招きし所以は如何に?」
「無論理由はあります。まずは中へ。布都、ご案内しなさい」
「承知致しました!」
かくして神霊廟へ至った刀哉と白刃。
果たしてこの先に、何が待ち構えているのか、今は知る由も無かったのである。