道行く者たち 陸
それからしばらく神社側と寺側との問答が繰り返されたが、霊夢も早苗も結局聖に舌戦ですっかり丸め込まれてしまった。仏道の求道者らしく物静かで穏やかな空気の中に絶対的な自信も垣間見え、攻めにはのらりくらりと受け流し、隙あらば相手の痛いところを突いてくるあたりが熟練している。
踵を返そうとした刀哉も彼女の舌先三寸に感心してしまい、部屋の隅に腰を下ろして事の顛末を見守っていた。ふと我が事を考える。己は人の子であり、この身に宿る神はあくまでも心魂の領域のものでしかないと考えているが、その実はどうなのだろう。人里の中には己を真の神の如く崇め奉る連中すらいる。無論、崇められたところでその信仰に報いるだけの力などまるでないし、恭しくされること自体が気に食わなかった。
唯一の例外が白刃だ。刀の神を宿している以上、刀から信仰されるのはごく当たり前のこと。今では夫婦であるし、少々行き過ぎる面も見受けられるが、愛おしい伴侶ならば是非もない。
聖の言葉が思い起こされる。
剣の道とは殺生の道。言われるまでもないことだが、改めて思えば業の深い道である。この地に流れてから一体いくつの命を屠ってきたのだろう。時に無益な殺生で手を汚したこともある。
悔やんでいるわけではない。しかし、かつて地獄で己に怨嗟の目を向けてきた霊魂たちの声は未だに忘れられなかった。
生前の幸二が犯し、積み上げた罪業が我が身にふりかかるのも当然のこと。仏の道を修め、あらゆる苦悩から解放しようとする彼女から見れば、ひどく哀れに思えたろう。また、その罪業を尚も積み上げようとする刀哉の姿は狂気の沙汰であろうし、救済せねばならないと心中で考えているのかもしれない。
古来より、刀があるところに戦があった。
そして刀を操る剣客もまた、果てしない闘争と血の輪廻から脱することは出来ない。常に斬るか斬られるかの世界だ。嫌気がさした者は出家して世捨て人になるなり刀から鍬に持ち替えるなりして、その剣戟の嵐から白日の下へ逃れた。
生きるために、命を守るために、彼らは賢明な選択をしたといえよう。
されど刀哉は違った。もとより一度は死んだ身。神に見出され、刀剣たちを鎮めるために再び生を受けた彼からすれば、命とは後生大事に守るものではなく、塵芥になるまで燃やし尽くし、使い尽くすもの。ただ惰性に流されて命を持て余すくらいならば、桜の如く、一度だけ華々しく咲き乱れて潔く散る。
もはや願望と言って差し支えなかった。
現実には人里に根を下ろし、居を構え、家族が飢えぬように日々生きなければならないが、その覚悟だけは今でも揺らぎはしない。
でなければ刀なぞ握れない。剣の道を歩む資格さえない。
たとえその果てに底無き血の池に沈むとも、幸二のように六道輪廻を彷徨うことになろうとも、己には刀以外の道など存在しなかった。
さて、霊夢たちの様子はといえば既に大局は決し、聖の静かな微笑に苛立った霊夢が足音を踏み鳴らしながら一足先に命蓮寺から退散してしまった。一方の早苗はといえば、初めは守矢神社の御利益を必死に説いていたが、いつしか聖に丸め込まれてふむふむと幾度も首を縦に振って彼女の説法に聞き入っているではないか。
ミイラ取りがミイラになるとはこのことか。
そもそも土俵が違う。神社側は神道、すなわち天然自然、森羅万象を神と定めた信仰。舌先三寸で広めるようなものではない。
対して仏道は精神世界のもの。目に見えぬものだからこそ、言葉を尽くして相手を折伏する。早苗はともかく、今までろくに修行もしてこなかった霊夢の言葉に力があるはずもなく、こと煩悩に敏感な聖からすれば虚しく響くだけのこと。
勝負など初めから見えていた。
早苗も珍しく日々の愚痴や相談事を聞いて貰って満足したのか、あるいは夕刻になって二柱の夕餉を作らねばならなくなったのか、兎にも角にも半刻ほどで寺を後にした。
言い出しっぺを見送った刀哉は愛刀を抱いたまま立つ気配を見せず、ただ聖の背後に佇む木製の仏像を眺めていた。
「何か、思うところでも?」
微かに首を傾げつつ、変わらぬ微笑で尋ねる聖に彼はフッと溜息を吐いた。
「いや、ただ我が身のことを考えていただけだ」
「殺生の道を悔い改める気になりましたか?」
「悔いたことなどないから、改めることもない。だが人も妖怪も聖殿の下、道を究めんとしている姿は感心している」
「皆、道に迷っているのです。煩悩に苦しむ姿は見ていて痛ましい。私に出来るのは、そんな彼らを導いてあげることだけ。どうでしょう? あなたも此処で修行をしてみては?」
「修行か。嫌いではないが、俺は既に師匠から教えを受けている。人は悩み、苦しむもの。されど清濁を呑み込むだけの度量を持て、と。俺はただ、物事の道理に従って生きていくだけだ。願わくばこの刃を鞘から抜きたくはないが、此処は幻想郷。そして俺が刀を振るい続けることを願う者がいる限り、俺はこれを置くことは出来ない」
「……そこまで曇りのない言葉を聞いては、私の説法は届きそうもありませんね」
すると廊下から小さな足音が聞こえ、一輪とは違う声が聖を呼んだ。
「白蓮、そろそろ夕餉の時刻。来客も程々にして頂きたい」
夕陽に照らされながら顔を覗かせた虎柄の法衣を纏った金髪の少女は、床に腰を下ろす刀哉に向かって不敵な笑みを向けた。
その手には身の丈よりも長い鉾を携え、姿がどこか毘沙門天の像に似ている。よもやと彼が聖に視線を向けると、彼女はゆっくりと首を縦に振った。本尊の方も粗方の事情を察したのだろう。
少し尊大に胸を張り、夕陽を神々しい後光にして彼を見下ろす。
刀哉もまた目礼で彼女を迎え、名乗った。
「経津主刀哉と申す。毘沙門天殿とお見受けいたす」
「いかにも。遥々の参拝、殊勝の極みです」
と、大きく頷く本尊であったが、やはり見た目が見た目だけにいまいち名高き毘沙門天といった風に感じられない。何よりも音に聞こえた武威がまるで肌に伝わらなかった。訝しむ刀哉がさらに切り込む。
「不躾ながら、誠にアノ毘沙門天で相違ないか?」
「む、無論です。私こそが毘沙門天王の――」
「代理を務めている寅丸星様」
「あ、こら! ナズーリン!」
寅丸星の背後から現れたナズーリンと呼ばれた小柄な姿は、銀色の髪に大きな丸い耳と、スカートの下から伸びた細長い尾が、ネズミの化身であることを如実に物語っていた。ナズーリンによって代理であることを明かされた寅丸星が慌てて取り繕うとするものの、時既に遅し。本物の毘沙門天ではないことに納得がいった刀哉が思わず頬を緩ませ、立ち上がる。
「寅丸星に、ナズーリンといったか。これはまた、随分とおっちょこちょいな毘沙門天がいたものだ」
「おっちょこちょいとは何ですか! 初対面で無礼でしょう!」
「ご主人、怒っては図星と丸わかりだぞ?」
「ナズーリンは黙っていてください!」
腹に力んだ所為か、寅丸星が大声をあげた途端に腹の虫が鳴いてしまい、もう威厳も何もあったものではなく、寅丸星は顔を夕焼けのような朱に染めて俯いてしまった。
刀哉は愛刀を腰の帯に差し込んで聖に一礼する。
「いや、すっかり長居してしまった。そろそろお暇するとしよう」
「せっかくですし、一緒に夕餉でも如何ですか? あなたとは道こそ違えど、修行という点では色々と学び合うこともあると思いますし、私もあなたに興味が湧きました。精進料理でよろしければ、ご馳走しましょう」
出来れば城に戻って白刃と夕餉を共にしたいところであったが、聖の口調から察するに夕餉の支度は既に整っているようだ。
せっかく用意された心尽くしの料理を無駄にするのは忍びなく、白刃への良いみやげ話も出来るかもしれないと思い、もう暫し留まることにした。
生臭や酒を禁止する寺院の食事は須らく山の幸を用いて作られる。香ばしい胡麻粥、豆腐など、どれも体に良いものばかり。とくに聖手製の漬物は絶品だった。素朴だが、どれも味わい深いものばかりで、刀哉の好みにぴたりと合った。