道行く者たち 弐
異変……その一言がいつまでも耳に残響して消えなかった。
こと最近では異変という言葉に敏感になってしまい、白刃も含めて霊夢の言葉に耳を傾ける。今度は何処の誰が騒動を起こしてくれたというのか。幻想郷の連中が異変を起こしたとなれば、花鳥風月を愛でる生活に興じている暇も無くなるだろう。
億劫な気分になる一方で、己の腕を振るう機会がきたことは多少なりとも嬉しくも思えた。二人の視線を一身に受けた霊夢が鬱陶しそうに一瞥しつつ、言葉を紡ぐ。
「そんなに見つめるんじゃないわよ。まだ何も起きて無いんだから」
「なんと?」
身構えていた刀哉も白刃も狐につままれたような気分になった。
まだ何も起きていないのに異変とは如何なることだろう。訝しげに首を傾げる二人の気持ちを察した霊夢だが、のらりくらりと寛ぎ始めている。どうにも様子がおかしい。いつも単刀直入な物言いをする霊夢らしくないのだ。まるで端から茶でも飲みにきたような態度で居座り、饅頭を頬張っている。
苛立つ白刃を宥めつつ、彼は核心を問うた。
「一体、何事があったというのだ? それとも異変というのは上がり込むための方便か?」
「両方。大体、あんたが何度も手紙を寄越すから様子を見に来てやったのよ。それに異変は起きていないくとも、異変を起こしそうな連中なんていくらでもいるでしょ?」
それを言われては元も子もない。
現に異変を起こした者が隣に座っているのだから。
刀哉は少し語気を強める。
「これ以上戯言を弄するならばお引取り願おうか」
「……分かったわよ」
流石に霊夢も空気が変わったのを察し、こほんと咳払いを一つ鳴らして本題に入る。
「命蓮寺という連中を知ってる?」
その問に彼は無言で頷いた。以前に里人たちと共に農作業をしていた際、里の近くに命蓮寺なる仏閣があると聞いていたが、実際に足を運んだことは未だ無い。されど仮にも相手は仏道を修める僧。
およそ争い事を引き起こすようなことは無いと思い、差して気に留めていなかっただけに、彼女が命蓮寺を危険視していることが意外だった。
「で、一体どんな異変を起こすというのだ?」
「連中がいること自体が既に異変なのよ!」
いきなり霊夢は怒気を露わにし、拳を畳に振り下ろした。
「ただでさえ賽銭が入らないってのに、里の連中もごっそり命蓮寺に参拝してる有り様! ええい、忌々しいわ! 大体あんただってどういうつもりよ! ちょっと前にふらりと現れたと思ったらこんなでっかい城なんて構えちゃって!」
だんだんと話が妙な方向に流れ始めた。異変というよりは単なる愚痴になり、挙句の果てに刀哉にまで矛先が向く始末。
誠に迷惑この上ない。口から零れそうになった溜息を飲み込む。
「要するに、命蓮寺が信仰を集めていることが気に入らないのだな?」
「それだけじゃないの! 命蓮寺は妖怪もしきりに出入りしているらしくてね、中には人を喰うことを止める妖怪も出てきている。これが広まると幻想郷のバランスそのものに関わるの」
「成る程、そういう理屈か。だが解せぬ。それと俺と何の関係が?」
「里の用心棒やってるんでしょ? 少しは気にしなさいよ。明日、一緒に命蓮寺に行って貰うから」
途端に白刃が刀哉の手を振りほどいて立ち上がった。
「ええい、この無礼者ぉ! 殿には殿の都合があるのだ。勝手に決めるでない!」
「白刃……落ち着け。俺は行っても良いと思う。霊夢の言うところにも一理あるし、噂の寺とやらを見てみたい」
「流石、話が早いわね。で、どうなのよ。新婚生活っていうのは」
そこからは他愛の無い雑談に興じた。白刃は終始不満を満面に浮かべていたが、苦手な相手とはいえ、律儀に手紙を送って近況を知ろうとしていただけに無碍に追い返すことも出来ず、結局饅頭だけでなく吟醸と膳まで振る舞った。
互いにほろ酔いになったところで霊夢は月夜を翔けて神社へ戻り、つむじ風でも吹き去ったような気分で彼女を見送った二人はどっと疲れて寝所に入った。
部屋を照らしていた蝋燭の灯りを吹き消し、布団を並べて暗い天井を二人して見つめる。
「殿……本当によろしかったのですか?」
「寺に行きたいというのは本心だ。里人だけでなく、妖怪までも帰依させる程の仏ならば、な。もしも其奴が仏に化けた物怪ならば成敗するまでのこと」
「しかし、わざわざ殿が出向くことも……お命じ下されば、名代として拙者が」
「それは駄目だ。お前が出て行くと色々と話しが拗れかねない。そもそも、寺に軍勢が押し寄せれば俺たちに非が生ずるだろう。向こうは僧なのだ。刀を抜かずとも、舌で相手をすればよい。故に此度は俺と霊夢で行く。白刃は留守番をしていろ。土産は期待するな?」
「御意……」
とは言いつつも、やはり不満なものは不満だ。特にあの霊夢の傲岸不遜な態度が何よりも腹立たしい。己に対してならば別にここまで腹を立てることもないが、主人に対してあの物言いは見過ごせない。幻想郷と外界を隔てる結界の管理者だか何だか知らないが、いつか刀哉の前に跪かせてやろうと密かに復讐心を燃やす。
そんな妻の邪悪な顔を暗がりから見つめる夫が夢の世界へ旅立とうと瞼を閉じたとき、不意に、白刃が彼の腕に擦り寄った。
寝返りかと思ったが、息遣いからまだ起きている様子。
「如何した? 寒いか?」
「はい……少し。ご無礼致しました」
「気にするな。今宵は冷える」
彼は自身が被っていた布団を半分、白刃の布団へ上乗せした。
「これで温いか?」
「はい……されど、もう少し、寒う御座います」
「左様か。風邪などひいては一大事だ……もっと寄れ」
刀哉は白刃を胸元に引き寄せた。息遣いが聞こえるほどの距離に白刃の鼓動が高鳴り、マメの跡が逞しい彼の掌が優しく髪を撫でる。
「ひゃ……と、殿? どうされたのですか? いつも、すぐにお休みになられてしまうのに」
「うるさい。俺とて、少し寒いだけだ」
ぶっきらぼうな彼の言葉に白刃が微笑む。
「ふふ、左様で御座いますね。今宵は、とても寒う御座います。されど拙者は、寒いのが好きで御座います」
「そうか。俺は、やはり温い方が良い。ちょうど今のように……」
感慨深く瞼を閉じた彼の脳裏に、かつて外の世界に在った頃の己が走馬灯のように浮かぶ。貧しい村に幸二として生まれ、父と共に山へ逃れてきた落ち武者を狩る幼少の頃、母の死をきっかけに自らの手で村を焼いた。自身が生きるために不義の限りを尽くし、外道と成り果て、数多の人間を斬り捨てた幸二に待っていたのは、心身を蝕む不治の病と、血みどろの戦いに明け暮れる無間地獄。
ただ生きたかっただけなのに、ただ幸せを求めていただけなのに、されど天が与えた罰は彼に孤独な最期を迎えさせ、今際の際に降臨した刀神にその身を捧げ、冥府にて七度の難儀の転生を申し渡された。今となっては如何なる人生を歩んでいるのか知る由もないが、幸二は外の世界で、刀哉は幻想郷で、かつて夢見た幸福を追い求めている。
刀哉は白刃の腹部を擦った。
「俺が……父となるのか。せめてこの子には、幸二のような苦しみを味わわせたくない」
「無論でございます。心配は御無用。この白刃が、立派なお世継ぎに育ててみせまする」
「くくく、半人半神の父と、刀の母か。一体どんな子が産まれるのやら」
「どのような子であろうとも、殿の子で御座います。それだけでも拙者は愛おしくてたまりません。拙者たち刀は、元は一粒の砂鉄から生まれました。冷たく、ただ人を斬ることだけを使命とされた拙者たちにとって、人の温かさは何よりの喜びです。柄に感じる主人の手の感触……それだけが、心の支えで御座いました。故に、今はこの上なく幸せで御座います」
彼の鼓動が聞こえる胸板に頬を擦り付ける白刃がいつしか寝息を立て始め、刀哉もまた明日のことを考えつつ夢の世界へと旅だった。