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桜屋敷氷雨の思惑

作者: 福村六月

【議事録】記録者R.S.

 H.S.――卒業式が終わったわね。

 M.K.――氷雨様は何当たり前のことを仰りやがるんですか? 寝言ですか?

 本日の議題1『人材確保』

 H.S.――寝てないわよ。違うの。ごっそりと三年生が抜けた生徒会を立て直すには、何が必要だと思う? はい、では、まりも。発言を許可するわ。

 M.K.――桜屋敷氷雨政権の早期解散だと思われます。

 H.S.――バカにしたわね。

 M.K.――しておりません。氷雨様の身を案じて発言したまでです。わたくしは心労の絶えない氷雨様が、わたくしの繊細な心身ともに疲弊してしまうほど心底心配なのです。

 H.S.――ふ、ふぅん。そう、そういうことなら今の発言を許すわ。

 R.S.――あの。

 H.S.――何よ。何か日本レコード大賞モノの妙案が思いついたとでも言うの?

 R.S.――に、日本レコード大賞ですか? いえ、や、その、妙案というか何というか……、提案……ですね……はい。に、日本レコード大賞? レコード大賞……?

 M.K.――わたくし、興味がございます。

 H.S.――よろしい。発言を許可するわ。ありがたがりなさい。

 R.S.――は、はい。……ええと、私はこれから入学する下級生を勧誘すべきだと思うんです。受け身では良い人材は確保できません。私たちから何か催し物を……といってもそんな大きなイベントとかじゃなくてもいいんですけど、魅力的な生徒会をアピールしてみるのもひとつの方法かなって、思うんですけど……いかがですか?

 M.K.――なるほど、柔軟な発想だと思います。生徒会の実績のアピールもできますし、活動内容の透明化にも繋がる実現可能な提案でございます。

 H.S.――ふぅん、アンタにしてはなかなかやるじゃないの。で、具体的に何をするの? 校庭で花見でもする? ぱーっとお酒でも振る舞う?

 M.K.――寝言は寝て言ってください。

 H.S.――だから寝てないわよ。昨日はぐっすり寝たんだから。九時間よ、九時間。

 気がついたこと『氷雨様は寝過ぎです』

 M.K.――そういうことを申しているわけではございません。|(これだからアホは嫌です)未成年であることをお忘れなきよう、お嬢様。

 H.S.――パーティーなら飲酒も認められるでしょう? お母様のワインセラーから何本か盗んでくることも造作ではないわ。新入生の生まれ年のものを開けましょう。

 気がついたこと『ありすぎて一行ではメモできず。家で日記をつけます』

 M.K.――氷雨様、あなたにもわかる日本語でご説明いたします。庶民は、二十歳まで飲酒を禁止されているのです。おわかりになりましたでしょうか、お嬢様。

 H.S.――ふぅん。それなら口当たりのいい日本酒を飲めばいいのに。これだから庶民は。

 R.S.――|(そういう問題では……)

 H.S.――で、花見がダメなら具体的に何をするの? 

 本日の議題2『新入生の勧誘』

 H.S.――いいこと思いついたわ! 完璧だわっ!

 気がつ


【場所】

  〇〇道△△市××区 私立学校法人桜屋敷学園 西時星高等学校 生徒会室


【配役】

  桜屋敷氷雨 ……美人で優しい深窓の令嬢。←寝言ですか。←寝てないわ

  湖沼まりも ……底辺付き人らしく口が悪い。←それほどでも。←褒めてないわ。

  青堂憐麻  ……新入生。←…………。←……えぇっ!?


【本文】

 声が聞こえる。

 少女の声だ。おそらく二人だろうか。というか二人だろう。疑問は別にある。

 僕の記憶はどこから途切れてしまったのだろう。

 僕は晴れて全国的に有名な名門、私立西時星高等学校に入学した。今日はその初登校日。そういえば、校門から校舎まで続く桜並木の小径を覚えている。綺麗だった。これから高校生活がはじまるのだという期待と希望に彩られた至福の風景だった。

 今あるのは、闇だ。ふむ、どうやら目を閉じているらしい。しばらくの間、僕は気を失ってしまっていたようだ。やれやれ、登校初日からとんだ災難に見舞われたものだ。

 僕は意識的に瞼を持ち上げようとした。意識が覚醒していくにつれて後頭部と全身の関節が痛む。一体どうしてこうなってしまったのだろう。何か大きな事件に巻き込まれていなければいいのだけど。

 寝返りを打とうと体をよじるとガシャリという金属音に阻まれた。後頭部のこぶの様子を探ろうと手を動かすも、金属と金属が擦れ合う音が邪魔をした。手首に硬くて細い何かが食い込んだ。両手にかかる体重が、寝ているときのそれではない。重力の方向からして、僕は立っているらしい。ぼやけた視界が時間が経つごとに正常に戻っていく。そして、僕は我が目を疑った。

 目に入ってきたもの。それは、男物の制服のスラックスを引っ張り合う少女二人だった。

 両裾を引き合うその様は、まるで酷刑で名を馳せフランス革命時に非道に尽きるとして廃止された八つ裂きの刑のごとし。スラックスの稼働領域が限界突破し、ワンエイティオーバーの大開脚をキメていた。惨たらしい光景だ。

 少女達はギリギリと綱引きをする。歯ぎしりをしながら引っ張っている一方は珍しい銀髪の少女。外国人の血が混じっているのだろうか、色白で端整な顔立ちだ。西時星高校の制服を着ている。もう一方は黒髪の少女。銀髪の少女とは対照的に理知的な瞳をしていた。口元を真一文字に引き結んだ古武士のような彼女もまた西時星高校の制服を着ていた。

 ここは新手の見世物小屋か何かだろうか。いや、現実的に考えよう。ここは現実だ。不思議なことは起こりやしない。

 知らぬ間に僕は各部活動の新入生歓迎会に紛れ込んでいるのかもしれない。そう、今日は新入生歓迎会が行なわれるはずだ。だとすると、彼女たちは綱引き部か。もしくは演劇部か。

 それにしても今の状況が把握できない。そしてやはり後頭部が痛い。絶対に大きなたんこぶができているぞこれ。視界がまたぐらりぐらりとぼやけはじめた。そのせいか、綱引きをするそのシルエットが、二頭の馬がジーパンを引き合う有名な皮パッチを連想させた。

 しかし、今、彼女たちが引き合っているのはジーパンではなくスラックスだ。スラックスは破けやすいのに大丈夫だろうか。もしかして、生地と縫製の丈夫さをアピールするための裁縫部の出し物かなにかだろうか? いずれにせよ、この光景は斬新である。

 冷静な自分が適当にご都合主義を構築する。

 西時星高校は部活動も盛んだと聞いているしあり得なくはない。

 教室内はやけにがらんとしている。二人以外の姿は確認できない。

 そういえば開け放たれた窓から見える外の景色が橙色だ。まるでそれは沈む夕日に似た、昨日を思わせる切ない色。遠くで下校を知らせるチャイムと、カラスの鳴き声が聞こえた。夕方らしい。

 視線だけを動かして全身を確認する。肩よりも高い位置で固定された手首を左右交互に見つめると手錠括り付けられていた。さっきの食い込むような痛みはこのせいだ。足も感触から言って、同様に金属製のチェーンがぐるぐるに巻かれているようだ。全身の痛みはこのせいだ。

 なんとなくわかってきたぞ。僕は拘束されているらしい。

 状況は理解できたけど、まるで意味がわからない。整理しよう。

 夕方の空き教室に、拘束された僕とスラックスを引き合う少女二人がいる。

 やはり意味がわからなかった。

 風が吹いた。

 足下から体を包み込むような、まだ少しだけひんやりとする春の潮風。それが僕の脛を優しく撫でつけ、ふわりと一枚布を持ち上げた気がした。そして風は下着をすり抜けてそわそわと体温を奪って……え?

 上半身を固定されているせいで下を向くことができない。が、下半身が妙にすーすーすることくらいはわかってしまった。どうにもこうにも下半身が軽い。

 あー、てことは、やっぱりそうなるよな。

 ようやく、一番重要なことに気がついた。

「それ僕のスラックスだよね!?」

「きゃあっ!?」

 銀髪の少女は甲高い声をあげ仰け反った。その瞬間、スラックスからけたたましい裂傷音が響き、僕の所有物であり男子の象徴であるスラックスは、西部劇の一場面のように極刑の執行を余儀なくされる。その反動で黒髪の少女もバランスを崩す。僕は次に予測される事態に備えて目を閉じた。……だって、こんな状況でもラッキースケベは回避するべきだ。パンチラは良くないだろ。どんな状況でも見るほうが悪いと判決は決まっているのだから。

 頃合いを見て目を開けると、スカートを押さえ女の子座りになった銀髪の少女――どこからどう見ても生徒会長の桜屋敷氷雨だった――が対角線の向こう側で尻餅をついている黒髪の少女に叫んだ。

「まりも! 破けたじゃないのよ! ちょっとくらい男装させてよっ! 放課後まで待っていたっていうのに! もうっ、もうっ、もうっ!」

 片足分のスラックスを投げ捨て、悔しそうに顔を歪め、指をビシィッとした。

 彼女の狼のような瞳はより強烈に釣り上がり、独特の光を湛えている。

 すると、まりもと呼ばれた黒髪の少女もスラックスの片割れを器用に畳み、床に置き、立ち上がりスカートを払った。一片の無駄な動作はなかった。両手をへその位置で恭しく重ね、どこか冷めた漆黒の瞳で桜屋敷氷雨を見据えた。その姿はまるで冷静な社長秘書。が、彼女は無残な姿になった股裂けスラックスを、ウジ虫を見るように一瞥し、淡々と言葉を吐き捨てた。

「氷雨様、叫んではなりません。お互いに引っ張りあえば、耐久性に乏しい殿方のスラックスのことです、こうなることは尋常一様、自明でございました」

 黒髪の少女――まりもは機械人形のようだ。桜屋敷氷雨は対称的に肩で息をしている。

「それはそうかもしれないけど、でも、私もスラックスを穿いてみたかったのに」

「氷雨様、お気持ちはわかりますが、このボロ雑巾は殿方専用の礼服でございます。氷雨様が身につければ末代までボロ雑巾の呪いがかかってしまいます。おやめになった方がよろしいかと」

 ひどい言われようだった。デザイナーに謝れよ。

「なるほどね、それは危険ね」

 桜屋敷氷雨は納得したようだった。って、マジで?

 それにボロ雑巾になったのは間違いなくあなた方二人のせいだ。

 桜屋敷氷雨は細身の体には似つかわしくないふくよかでありながら慎ましい胸に手を置いた。

「じゃあどうして彼女は男装していたの? SNSのマイページに登録された性別も男性よ? あの子はそこまでして男子として生きることを強いられているというの? 機動戦士なの?」

 桜屋敷氷雨の言葉に強烈な違和感を覚え、僕は思わず口を挟んだ。

「……ちょっと待ってください。……それは僕のことですか?」

 言っておくが僕は男だ。大事なことだからもう一度言うが、僕は正真正銘、男だ。ネカマでもないかぎり、SNSの性別を偽る気はない。ん、彼女たちの主張はその逆か? とにかく、僕は何も間違ったことをしていない。

「幻聴かしら。何か聞こえた?」

「氷雨様。わたくしは何も聞いておりませんが」

 彼女たちはひどく混乱しているように見える。って目の前の男子生徒が喋りかけているだろうが! 幻聴じゃねえよ!

「おいまて。いや、待ってください。質問に答えてくださいって!」

 しかし、二人は互いに視線を交わすだけ。そして桜屋敷氷雨にいたっては肩を抱いて本気で怖がり始めた。二人とも僕のことは眼中にないらしい。いやいやいや、虐めですか。ってかなんでやねん。

「彼女は紳士になりたかったのかもしれませんね」

 まりもが思い出したように言葉を紡いだ。桜屋敷氷雨も思い出したかのように、「集中集中……」と小さく呟いた。そして桜屋敷氷雨は言った。

「それじゃあ私と一緒じゃないの。その理屈で納得できないわよ」

「左様でございますか」

「もちろんよ。私も紳士に憧れる女だもの。彼女と私は一緒ってことじゃないの」

 一緒じゃないです。僕は男です。

「では、単純明快に氷雨様がスラックスを穿いてはならない理由を申し上げましょう。さすれば氷雨様でもご納得いただけるかと」

「それはどうかしら」

 黒髪の少女は姿勢を正した。

「氷雨様、それは校則違反でございます」

「むむ」

「校則で殿方はスラックス、嬢子はスカートと定められています」

「それは不平等よ」

「お言葉ですが、不平等ではございません。男女平等を謳う大前提として、無視できない性別的役割というものがございます故。ただしわたくしは声高々に叫ぶことしか能のない活動家の言う、ジェンダーやセックスのようなクソのような定義のことを言っているのではありません。高校生のうちは、その人が美しく、一人の人間として成長する過程で、必要な作法を学ぶ時期に必要なものを与えられているだけ。つまり現時点での氷雨様に最も相応しいものを理事長は氷雨様にお与えなさっているのですよ。次期理事長としての教養を学ばせるために嬢子の制服を身につけさせているのです。その場にふさわしいドレスコードがおありでしょう?」

「お母様の話はしなくていいわ。謹んでちょうだい」

「これは失礼しました」

「まりも、あなたがどう思うのかを聞きたいわ。聞かせてちょうだい」

「かしこまりました。わたくしはなにも、氷雨様に紳士になるな、とは申しておりません。むしろそれは喜ばしい決意表明でございます。ただスラックスを身につけることが紳士になるための最善策ではないと、わたくしはそう申し上げたいのです。紳士とは内面から滲み出るオーラ、……氷雨様の口癖であり、私の敬愛する文言です」

「ふむ、まあまあの説得ね。わかったわ。納得してあげる」

 桜屋敷氷雨は腰に手を当てて、満足げに深く息を吐いた。

 この二人はどうやら主従関係にあるらしい。

 ただ、どうしてだろう。二人のやりとりに僕に対する悪意を感じる。僕は男だけどスラックスがふさわしくないからスカートを穿くことを選択させようとしているような、そんな気がしてならない。しかし、これが僕の成長にとって必要なものなのだとしたら、逆らわない方がいいのかも……、なんてんなわけあるかボケ!

 桜屋敷氷雨は僕のスラックスを足で蹴り飛ばして部屋の隅に追いやった。くそ、何てことをしやがる。

「失念だったわ。言われてみれば他人の汗染みのついたこんなボロ雑巾を穿きたいとは思わないわね。でもこんなので破れるなんて、不良品しか身につけられないなんて、それも男物を与えられるなんて、なんて不憫な少女なのかしら。かわいそうに。どう見ても女の子じゃない。女の子のくせにスラックスを穿いていたと思うと少しうらやましいけど……」

 いや、だから男です。

「氷雨様、お言葉ですがそのボロ雑巾は不良品ではございません。殿方のスラックスが脆弱な構造に甘んじているわけは、必要があってのことなのです」

「ふむ、聞かせてちょうだい」

「かしこまりました。スラックスの構造が弱い理由、それは殿方の持つ特有の生理現象をコントロール下に置くための修行方法の一つなのです。古人は仰いました。


『欲望に/屹立()てば破ける/股間かな』


 紳士道は心の鍛錬の積み重ね。常に性的欲望によって暴発するのではないかという危険性とあえて隣り合わせにいることで、明鏡止水の心境へ至れるのです。それが紳士というものです。ちなみに前面の布地にゆとりが出るツータックを好む年配の男性は皆、落第者でありケダモノでございます。彼らこそが現代日本にはびこる真実のゆとり世代でございます」

 嘘もここまで饒舌に語れば真実になりそうだった。なんだこの人、天才か。

 いやいや、んなわけあるか。真実になるものか。

 これは非営利のツータック愛好会から抗議の電話が来てもおかしくないレベルの暴言だろ。

「へ、へぇ、なるほどね。修行方法の一つ、と。男ってすごいのね」

 信じるのかよ。何でだよ。どこまでお嬢様なんだこの人。あ、この人、アホなんだ。

 桜屋敷氷雨は律儀に懐から手帳と筆記具を取り出してメモをしながら首肯した。少しだけ頬が赤いのは夕日のせいではないと思う。僕は口を挟んだ。

「……メモる必要性は皆無だと思いますけど。ていうか無視をしないで。ええと、さっき目が合いませんでしたか? 気のせいですかね? 先ほど、驚かれましたよね?」

 しかし、手帳と筆記具を見つめて尚も僕をシカトする。

「ならばノータックが義務付けられている西時星高校の男子生徒は皆、その明鏡止水の心境に至っているのではないのかしら? 私はスラックスの股間部分が破けたところに遭遇したことがないのだけれど」

「氷雨様、授業後に前屈みになってトイレに駆け込む殿方を見たことはございませんか?」

「そういえば、あるわね」

「あれこそが破ける五秒前でございます」

「ふぅん。それで? 彼らはそういうときどうするの? どうするの?」

 桜屋敷氷雨は、頬に桜色のチークでも塗っているのだろうか。赤い。真っ赤だ。

「帰ってきた殿方は皆、つやつやテカテカしていますでしょう? あれはいわゆる肉欲という煩悩をエネルギーとした縮退砲を放出した事後というものです。彼らは皆、殿方特有の風呂上がりの虚脱感を感じておられるのですよ。マラソンの完走に例える遅漏野郎もございますが」

 ひでえ。血も涙もない罵倒である。誰この黒髪の方の人、鉄血政治の人?

「た、確かに言われてみればそうかもね。そう考えると男が紳士を目指すっていうのも難儀なものね。むしろ、男って紳士になれないんじゃないの?」

「左様でございます。殿方は元来、ケダモノでございますゆえ、その悲しみをも背負って生きておられます。紳士と男性性は二律背反のアイデンティティ。殿方はその悲しみを分かち合うため、授業後に煩悩を排出する連れションという旅に出るのですよ。それゆえに殿方は愚かな存在。真の紳士称号を手に入れることができないのです。女性は、しかし、太陽でございます」

 言葉を聞き届けた桜屋敷氷雨は顔色を一変させ、不敵に微笑んだ。夕日に包まれてまさに太陽みたいだ。

「ならば決まりね。そんな愚鈍な雄どもを従え導くために、次期桜屋敷学園理事長たる私がこの学校を去る前に新しい人材を育成してあげようじゃないの! そうね……その野望を叶えるための初陣を、そこの雌豚に協力してもらうわ!」

 突如僕に桜屋敷氷雨の人差し指と視線が突き刺さった。

「……え、雌豚って、僕? 僕、男ですけど。てか手錠を外しませんか? もしかして零細演劇部とか、なんですか? あの、本当に生徒会の方ですか」

「当たり前じゃないの、憐麻さん。名前は調べさせて貰ったわ。あなた女の子よね?」

 彼女は笑顔だった。彼女は芝居染みた一切の動作を切り上げ、手櫛で髪の毛を整え、制服の皺を丁寧に伸ばした。

「青堂憐麻様でございますね? 私、生徒会会長をしています。桜屋敷氷雨でございます」

「氷雨様、青堂憐麻様は目覚めていらっしゃったので、今更体面を取り繕う必要は皆無かと」

「いいのよ。この方が庶民は喜ぶんでしょ? 老若男女に効果覿面なんでしょ?」

 聞きたくもない、ダダ漏れの本音だった。

 桜屋敷氷雨は改めて深々と腰を折った。そして起き上がった彼女の瞳を見て僕は戦慄した。灰色の瞳が、肉食獣の目のように笑っていない。僕は彼女に食べられる。そう思った。

 彼女の目的は何だ? さっき、何て言った?

 本性を隠した彼女は尚も丁寧な口調を崩すことなく、自分の隣へ手のひらを差し出し、至極当然のように、

「そして、こちらが私の付き人兼クラスメイトの湖沼家ご令嬢の、湖沼まりもですわ」

 黒髪を乱れさせることなく湖沼まりもは礼をした。てかこの人も身分高いのかよ。

 雪女と鬼神。この二人はそんなコンビだ。僕はどうなるのだろう。

 湖沼まりもは薄く引き締まった唇をわずかに動かした。

「氷雨様の身辺のお世話をしております。湖沼と申します。青堂憐麻様、わたくしは謝らねばならないことがあります。今朝、金属バッドで、粗末な頭蓋、及び全身を執拗なまでに殴打して申し訳ありませんでした。すべては気絶させるためでした。訴えるなら首謀者の氷雨様を訴えてください」

「はぁっ!? 実行犯はまりもじゃないの!」

「氷雨様、共謀という言葉をご存じですか? あ、青堂憐麻様にはあとで我がグループの連絡先リストをお渡し致します」

 きょうぼう? 凶暴? 狂暴? と首を傾げる桜屋敷氷雨。やっぱりアホの子らしい。

「しかし青堂憐麻様はむかつくほどしぶといですね。死なないなんて。ゴキブリですか?」

「え、あ、いや、一応、人間ですけど。ゴキブリではないです」

 や、何を真面目に答えてんの僕。バカにされているだけじゃん。しかもこの人僕の事を記憶が飛ぶまで殴ったんだよ!? すげえよこの人。すげえ怖いよ。

 あまりの迫力に思わず防衛本能が働いて、暴言を受け入れた上で人間であることを釈明してしまった。情けない。もう言い返す気力はなくなっていた。

「青堂憐麻様に是非ご覧頂きたいものがありますの」

 そんなことを言って、桜屋敷氷雨は一台の姿見を用意した。

「これが本来のあなたの姿ですわ」

「や、やめろ!」

 思わず叫んだ。卒倒しかけた。両手両足が自由だったら、窓の外へ飛び出していた。しかし、残念なことに手錠が体を拘束している。後頭部の痛みが二度目の昏睡を許してくれなかった。

「……ぼ、僕は認めない……!」

「何を仰るのですか青堂憐麻様。真実を映し出す鏡からは逃れることはできないのです」

 ……なんてことだ。

 女子の制服を完璧に着こなした僕がそこにはいた。

 いや、はじめから気が付いてはいたんだ。

 足下がすーすーする時点で、ああこれはスカートだなと、わかってしまったのだ。恐ろしくて言及できなかったのだ。僕は意を決して鏡を覗き込んだ。

 そこには西時星高校に通う女子がいた。腰に絞りが入ったエンジのブレザー、濃紺のリボンタイ、真っ白なブラウス、上品なチェックのプリーツスカート。その格好に一見ミスマッチなショートヘアがスポーツ少女然としていて、自分で自分のことを女だと思ってしまった。

 てか、ここに至るまでに絶対に一回脱がされてるよねこれ。

「青堂憐麻、性別詐称は校則違反ですわ」

 桜屋敷氷雨は姿見に手をかけて、ウインクをした。僕は前進しようとした。が、がしゃりと音が鳴る。手錠は僕のことを解放してくれない。僕は叫んだ。

「こっちの姿が詐称のほうですって! 僕は男だ! どっからどう見ても男でしょうが!」

 桜屋敷氷雨は反論する僕をあざ笑うように、

「あらあら、青堂憐麻様はまだ混乱されているようですわね。ではただいまお茶をご用意いたしますわ。まりも、彼女にお茶を用意して差し上げて。鎮静薬としてモルヒネも入れなさい」

「かしこまりました、氷雨様」

「モルヒネは駄目ですよ! 校則どころか法律違反だろ!」

 抵抗する叫びは聞き届けられず、湖沼まりもは当然のように僕を無視して部屋の外へ消えていってしまった。もう怒った。悪ふざけも大概にして欲しい。ここまでされて黙っている男はいない。僕は桜屋敷氷雨を睨んだ。

「さっきの芝居はなんですか?」

「………………なんのことですの?」

 ネコを被るということはやはり芝居だったんだ。男に憧れる女を演じたんだろう。

「無視しないでください。ネコ被っていますよね?」

「猫は飼っておりませんわ」

 しれっと言う。いやいやいや、聞き間違いですか。アホなせいでめんどうくさい。

「ですから比喩表現と言いまして、猫をですね」

「めんどうくさい男」

「何っ!?」

 まさか桜屋敷氷雨に言われるとは思わなかった!

「しつこいわね。ちょっと黙ってなさい。引きちぎるわよっ」

「何をだよ!?」

「下半身にぶら下げているミニチュアダックスフンドをよ!」

「何だよそれ! つーか今僕のことを男って言ったよな! 言ったな! 認めたな!? ってうわぁっ!」

 叫んだ瞬間、僕は殺気が膨れあがるのを感じた。顔の横を何かが通過していったのだ。

 桜屋敷氷雨が最短距離で振り下ろした手刀の延長線上、僕の顔の横で、ビィィィンというバネのしなる音がした。彫刻刀が壁に突き刺さる音だった。みょんみょんとしなっている。どんだけ高速で投げたんだ……。人体なら貫通するレベルだろ。

 桜屋敷氷雨は肩に掛かった銀髪を鬱陶しそうに払った。ネコ被りをやめたらしい。

 うわ……、開き直るのはやっ。ていうか、短気なの、こいつ。アホな上に短気なのか。

てか、その手にいつの間にか握られている鋭利なものは何ですか。キチチチチチ……って何ですかその伸びている刃。……カッターナイフじゃないですかお嬢様。

「……ごめんなさい。黙るので、その手に持ったものをしまって欲しいんですけど」

「切られるよりも引きちぎられたいの?」

「どっちも嫌だ!」

「オススメは切断よ。刃を熱して傷口を焼きながら切断するから出血は少ないわ。それとも八つ裂きの刑が良いのかしらね? タコさんウインナーみたいに裁断してあげるわよ?この場合、うめかれたらイヤだから麻酔を打ってあげる」

「んな処置いらんわ! 切らない選択肢はないのかよ!」

「わがままね」

「当然の抵抗だよ!」

「うざいわね」

「…………」

 男ってどうしてこの言葉で酷く傷つくようにできているんだろうね。心が痛いんですけど。しかし、何がしたんだよこいつら。すると湖沼まりもが帰ってきた。お盆を抱え、その上に本当に湯飲みが置かれていた。本当にモルヒネが入っていたらどうしよう。

「お待たせ致しました、氷雨様」

「遅いわよ、まりも。耳を貸しなさい」

 桜屋敷氷雨は湖沼まりもに耳打ちをする。そして、お茶を受け取った彼女は床に湯飲みをぽつんと置いた。夕暮れに包まれた湯飲みはとてもシュールだった。

「飲めねえよっ!」

 飲みたくないけど思わず叫んでしまった。

「当たり前じゃないの。お茶を用意するとしか言っていないわ」

「飲ませる気ないのかよ!」

「涙でも飲んでなさい」

「なんだよ! その勝ち誇った顔は!」

「氷雨様、厚塗りファンデーションは剥いでしまわれたのですか」

「失礼ね。私はノーメイクよ」

「左様でございますか」

 ……マジかよ。それでその美貌なのかよ。英国の蝋人形なの?

 貼り付けの刑は継続中だ。涙すら枯れ果てたこの状況に僕はもう心がかぴかぴだった。

「……ていうかそろそろ手錠を外してよ。本当に腕がちぎれそうなんだけど」

 すると桜屋敷氷雨は今日いちばんの、鋭くも美しい凍てついた瞳を僕に向けた。

「わかったわ。でもその前に私と取引しましょうか」

 この状況を待っていたと言わんばかりに。

 胸の前で指を絡めて一歩僕に詰め寄った。

 百貨店の一階のような高貴でいい匂いがした。化粧品を使ってないと言うのに。

「私はどうしても紳士の心を持った後輩が欲しいの。だから青堂憐麻、あなたを生徒会に入ることを許すわ。あなたは私に選ばれたのよ」

「は?」

「青堂憐麻にはいずれ生徒会長になってもらうわ。これは決定事項なのよ」

「な、何言ってんの? 冗談だろ。そうやって僕をからかっているだけだろ」

「後輩育成による生徒会の活性化は、私の悲願なのよ」

「…………な」

 僕は彼女の灰色の瞳に吸い込まれそうになっていた。何かを決意しているかのような意思の固まった、覚悟を決めた瞳だと思った。けれど、どう猛な肉食獣を相手にしているような野性的な瞳孔が見え隠れしている。それは本気の気持ちをあらわしていた。

「いや、だからって、なぜ僕に女装させるんだよ」

「私の後任だからよ」

「それだけの理由で?」

 それなら男のままでもいいだろうに。

「いいえ、青堂憐麻様、それだけではございません」

 湖沼まりもが口を開いた。

「氷雨様は男の後輩を持つわけにはいかないのです。ましてやこれから先親しくする間柄です。そうすると将来も視野に入れた交際をしなければならなくなってしまいます。当然、殿方には負担が強いられるでしょう。それは庶民には耐えることのできない責務の嵐、青堂憐麻様にとってかつてない苦しみを産むであろうその可能性をはじめから摘み取る氷雨様をとてもお優しい方とは思いませんか?」

 なんていう設定を持ったお嬢様なのだろう。

「だけど私はアンタのこと気に入ったのよ。今年は生徒会に相応しい女子はいなかった。みんなイモみたいな顔をしていたわ。でもアンタは違った。いつかこの学校の生徒会を任せられる逸材だと思った。今はまだ原石だけどね」

 ほ、褒められているのか?

 そ、そうか……。

「この学校で生徒会長を務めることができれば、大学は推薦できまりよ。他にも青堂憐麻にとっていいこと尽くめのメリットリミットなしよ」

「氷雨様、ギャグですか?」

「え、そうよ。当たり前じゃない」

「面白いです」

「ありがと」

 ……面白くなかったよ。湖沼まりもも笑っていないじゃんか。確かに僕にとって面白いメリットは用意されているようだけど。

「男子生徒として三年間は生活を送ることはできないわ。でも女子の制服なんか着こなしちゃって完璧なんだから問題ないわよね」

「制服はおまえらが着せたんだろ」

 桜屋敷氷雨は返事をしなかった。これ以上僕が何を言っても無駄だと思った。従うしかないのか。桜屋敷氷雨はにやりと笑う。

「生徒会の発展と青堂憐麻の進学先の確保、利害関係の一致でいいかしら? 次期生徒会長候補さん」

「いや、待てよ。フェアな状況に戻そう。男子の制服を一着用意してくれ。拘束を解いてくれ。話はそれからだ。まずはそこからだ」

 僕がちょっと女の子っぽい容姿だからといってこんな風に弄るのはよくないし、その女装させて従えるっていう正気の沙汰とは思えない精神攻撃はもはや犯罪だろ。

 すると、桜屋敷氷雨は嗜虐的な笑みをその整った顔に貼り付けた。

「イヤよ。制服は破けちゃったもの」

「縫えよ」

「裁縫は苦手なの」

 ふふっと、実に愉快そうに声を漏らした。

「青堂憐麻は私の女装奴隷になるの」

「意味がわからないんだけど」

 彼女は振り返った。

「まりも、そろそろ終わったかしら?」

「氷雨様、ただいま完了致しました」

 傍らでなにやらお盆を操作していた湖沼まりもがすっと顔をあげた。湯飲みを運ぶためのお盆だと思っていたそれは、タッチパネル式のタブレットだった。西時星学園の頭文字『WMSS』をデコライズしたものが背面に描かれていているから、生徒一人ひとりが持っているタブレットの一つなのだろう。僕も入学式の案内が送られてきたとき一緒にもらった。

「氷雨様に代わり、西時星学園高等部事務局のデータバンクへのハッキング及び青堂憐麻様に関する情報――主に性別の書き換え、辻褄合わせ、すべてが完了致しました。今後、青堂憐麻様は、男性ではなく、女性としてこの学園に登録されました」

 ……………………はい? なんつった今。

「でかしたわ、まりも」

「お褒めにあずかり光栄でございます」

「嘘つけ! そんなことできるわけないだろ!」

「できるわよ。まりもだもん」

「……納得できるか!」

「そもそも、青堂憐麻には女でいてもらわないと困るのよ」

「困るって何だよ! さすがにそれは理由を言え!」

「ふん。その声、その容姿、その仕草、ムカツクほど女装奴隷じゃないの。男でいるなんてもったいない」

「もったいないって何だよ! それに奴隷って言うな! 僕の尊厳が崩壊した!」

 しかし僕は黙ってしまった。鋭い舌打ちが僕の尊厳にとどめを刺したからだ。桜屋敷氷雨は深くため息を吐いた。チェスで格下の相手をチェックメイトした貴族のような振る舞いだった。いかにもパンがなければお菓子を食べろと言いそうな常識を持ったヤツっぽい。

「これを見て観念するといいわ」

 湖沼まりもからタブレットを受け取った桜屋敷氷雨は僕に画面を見せてきた。

 事務局に登録された僕の学生情報が男性から女性に書き換わっていた。SNSのマイページも見せられた。ここも問答無用で変更されていた。写真もしっかりと普段の僕の顔に差し替えられていた。これ登録したら基本情報変更できないやつなんだよ? 只者じゃないとは思ったけど、湖沼まりもってスペック高すぎるだろ。てか、僕何かそんなに悪いことした?

 手足を拘束され、女装させられ、登録上の性別を変更され、もはや四面楚歌もいいところだった。何を言っても状況の改善は望めそうにない。絶望的だ。意識が飛びそうだ。

「これからは運命共同体よ。青堂憐麻が私達を裏切れば私は容赦なく性別詐称で学園から追放するわ。そして一生私の女装奴隷として生きたまま死んで貰うわ」

 完膚無き奴隷宣言だった。

 四面楚歌の状況で呉越同舟かよ。結末で舟をたたき割られて沈められそうだ。

「……おまえ、悪魔かよ」

 なんとか絞り出した言葉はひどく力のないものだった。男の中の男を目指すために名門に入学したというのに、どうして僕は女として生きろみたいな女サムライの逆バージョンみたいな状況に陥らなきゃならないんだ。これを悪魔の所業と言わずしてなんと言おう。

 桜屋敷氷雨から意外な言葉が返ってきた。

「ところで青堂憐麻、私の事を『おまえ』って言うな」

 まったく意図していないところだったので驚いた。

「……なんて呼べばいいんだよ。悪魔様か?」

「悪魔も光栄だけれど氷雨でいいわよ」

「そんなフレンドリーに下の名前でなんか呼べるか。せめて名字」

「言っておくけど、名字で呼んだら穴という穴にうなぎをぶち込むわよ」

「なぜにうなぎ」

「ぬるぬるだからよ」

 ……うわあ。目に宿った殺意が本物だ。……確かに、湖沼まりもも氷雨様と呼んでいるか。

「……わかったよ」

「素直でよろしい。じゃあ呼んでみなさい。今すぐ、手足を緊縛された状態で三角木馬に跨がって喉の奥にうなぎを飼いながら『氷雨様、水をください』って叫ぶといいわ」

 そんな状況だったらお嫁に行けないって。男だけど。

「うなぎ大好きだな、おまえ」

 すると桜屋敷氷雨は僕に頭突きができるほど接近して、その緻密な人形のように美しい手を僕の顔の横へ伸ばした。カッターナイフが握られていた。

「待て、話せばわかるから、な?」

「お言葉ですが加虐体質の氷雨様、それでは青堂憐麻様のお体がもちませんよ」

「こ、湖沼さん」

 この人、桜屋敷氷雨の抑止力になってくれそうだ。

 湖沼まりもは淡々と言う。

「氷雨様はこれから先、青堂憐麻様をトップレディとして生徒会長の席まで導かねばなりません。夜は肉便器にしても結構でございますが、昼はどうか家畜を愛する牧場主の慈愛を、もとい、平等な関係性を構築し、白日の下に氷雨様の紳士的なお姿をお晒し下さいませ」

「……それ、平等って言わないと思います」

「まぁ、まりもの言う通りね。しょうがないわね」

「や、だから」

 言いかけて僕は黙る。触れぬ悪魔に祟り無しだ。

 しかしだ、思ったが、湖沼まりもって呼吸するより多く暴言吐いてないか? 桜屋敷氷雨はそれをマタドールみたいに華麗にスルーしているし、や、アホなだけか。僕も暴言を気にしなければいいのか? これを平等と呼ぶなら、まぁ……平等じゃないけどさ。

「ほら、青堂憐麻、私のことを呼び捨てにするといいわ」

桜屋敷氷雨はなぜか嬉しそうに灰色の瞳を輝かせた。睫毛が芸術的に長いというどうでもいいことに気が付いてしまった。それどころか期待するような目を寄せられて僕は男の性に逆らえずドキリとしてしまった。そして、仕方なく僕は彼女を名前で呼ぶことを決意した。

「ひ、ひ……氷雨。お水下さい」

 声が裏返ってしまった。悪魔召喚をしているようだ。

「あら? 飲みたいの? そこまで言えとは言わなかったのに」

「ぐぬ!?」

 誤算だった。あまりにも自然にそこまで懇願してしまった。

 するとすんなりと飲ませてくれた。危険なものは入っていないようだった。普通にお茶だった。

「青堂憐麻様、どうぞわたくしめのことも、まりもとお呼び下さい」

 なんと被せてくるとは、難易度上げるのが得意な人なのか。

「ま、まり、も? さん?」

 語尾のイントネーションが上擦ってしまった。訪れる微妙な沈黙が痛い。

「ねえまりも? 青堂憐麻って女の子慣れしてないのかしら?」

 氷雨は言う。

 その通りだった。僕はぐぅと黙った。

「致命的な弱点ですね。……時に青堂憐麻様。青堂憐麻様のお考えになる紳士像とはどのようなものでしょうか?」

「……どんな女性にも等しく優しく、そして女性を喜ばせることができる人かな」

 それは『女性を尊重し、気遣うことこそ至高の男子』と言うことだ。

「氷雨様、この殿方はハーレムを夢見る童貞野郎です」

 はぁっ!?

「え、処女じゃなくて?」

 驚くところそこかよ! やっぱり氷雨はアホの子だろ!

「処女なわけあるか! 男だから童貞だよ! 僕は童貞! って、あっ! ああああああ!」

「……自信満々に言う人初めて見たわ。童貞に価値を求めるタイプなの?」

「カミングアウトとは、ドン引きでございますね」

「……し、し、しまったあああああああああああっ!?」

 二人そろって潰れたカエルを見るような目を向けてきた。同じ目線のはずなのに高低差を感じる。うっわ、消えてなくなりたい。確かに僕は女の子のことを何も知らない。認めるよ。でも童貞に罪はないだろふざけんな人間として認めろ! くそう。

「氷雨様、この殿方は殿方としては半人前でございます」

「ふぅむ、続けて」

「今の青堂憐麻様は仮性包茎でございます。草食系の皮を被ったムッツリ肉食系男子と言ったところでしょうか。紳士のしの字も知らないのに紳士を語る変態でございます」

くそ、何てことを言うんだ! 悔しいのに何も言い返せない!

「ですから、氷雨様が紳士としてあるべき姿を、どうぞ見せつけて下さい」

「言われなくても、そうするわよ。それに、女性としても育てて行かなきゃね」

 少しだけ鬱陶しそうに氷雨は肩に掛かった銀髪を払う。

 口元を凄惨に歪めて、僕に向かって高らかに宣言した。

「さて、これでチェックメイトね。今日から青堂憐麻は私の女装奴隷よ!」

 その時、数え切れないほどの男としての大切な何かを、僕は喪失した。

「それから、仮性包茎で短小で童貞の青堂憐麻様」

「まりもさん、もう、ほんと、涙腺決壊しそうだからこれ以上淡々とそんなひどいこと言わないでくれない?」

 消えてなくなりたいって思ってしまいます。

 まりもさんは姿勢を正した。

「悪いようには致しません。すべてがうまくいけば卒業後に青堂憐麻様を男に戻して差し上げます。それが氷雨様に付き従えるわたくしの勤め。どうか氷雨様の願いを、生徒会の発展を望むわたくし達の願いを聞き届けて下さいませ」

 そして、頭を下げた。

「ちょっと、まりも、そんな事言わなくても」

「氷雨様、ここは頭をきちんとさげて下さい」

 まりもさんは氷雨の後頭部をぐいっと押さえつけて、最敬礼した。

氷雨も嫌々ながら頭を下げる。

「女子として生徒会に所属しながら生活して下さいませ」

 いや、とりあえず、この拘束を解いてくれませんか……?

 それに、断ったら僕、もう人として生きていけなくされちゃうじゃん。

 進路も、退路も、男としての人生さえも、詰まれたような気がした。

 僕はどうやら、生徒会長まで上り詰めなければならないようだ。


【放課後】

 私、青堂憐麻は上履きから外履きに履き替え、外に出た。

 手首のアザが少し気になるけど、そのうち消えるだろう。しかし、よく叫んだ。

 夕日はもう山の端を彩るばかりで、反対側の空には夜の帳が降りていた。

「生徒会室の鍵、かけてきた?」

 後ろから氷雨さんの声がする。

「ええ、もちろんです」

 私は立ち止まった。すると、氷雨さんとまりもさんが私のあとに続いて外に出てきた。私たち三人は同学年だ。今の生徒会役員は私たちしかいない。来年度から二年生の私たちは、一年生の時から、主に氷雨さんのせいではちゃめちゃにやってきたから、三年生の先輩は卒業していくけど、二年生は皆やめてしまったのだ。でも、氷雨さんは悪くない。氷雨さんはこの学校が好きなのだ。だから、一生懸命なだけなのだ。

 しばらく行くと桜並木に差し掛かる。私は足を止めた。

「あ、桜の木につぼみがありますよ」

「…………(こくこく)」とまりもさん。

「本当ね。もうすぐ春なのね」

 季節はまだ三月である。立ち止まるとやっぱり寒い。まりもさんはマフラーをぐるぐる巻きにしている。今日はもう何も言葉を発する気がないようだ。あれだけ台詞を言い続ければ毒も残っていないのかもしれない。

 三人そろって歩き出す。といっても、氷雨さんとまりもさんは校門のところで運転手が待っているから、私たち生徒会がそろって帰宅できるのは、この今はまだつぼみのままの桜並木を通過する間だけだ。私は徒歩で普通の家に帰るから。

 私は息を吐き出した。

「こんな演劇で、生徒会の魅力が伝わるでしょうか」

 とんでもない設定が全面に出過ぎていて、何が言いたいのか伝わないのでは?

 氷雨さんは難しい顔をして言う。

「ん、演劇じゃないわよ」

「え?」

「きっとね、憐麻の演じた男の子のような新入生が、今年入ってくる気がするの」

「……まさか……、捕獲のリハだったんですか?」

「そうよ。かわいい男子を捕まえて、人形にするの。マスコットキャラってやつね」

「ええー」

 となると、まりもさんが金属バッドでマスコットキャラ候補を殴打しまくることになるわけで……。

「……氷雨様、わたくしが捕まるのでやめてください」

 やっぱり嫌だよね。うんうん。私も嫌だよ、そんなことするの。

「冗談よ」

 私とまりもさんはそろって胸をなで下ろした。氷雨さんは言う。

「演劇はちょっと設定にこだわりすぎたけど、ほら、私がアホの設定とか、そういうの」

 私はまりもさんを見つめた。まりもさんは無言で頷くだけだった。

 まあ、いいか。

 氷雨さんは続けた。

「そこにね、あとは生徒会としてどんなことをしていくかを台詞として盛り込んでいけば、良い感じになると思うわ。それは春休みを使って三人で考えましょう? 私たちの手でこの学校を盛り上げていくのよ。とてもわくわくするわ。これからもっと楽しい演劇にするわよ!」

 私は頷いた。

 まりもさんも頷いた。

 もちろん、わくわくする。三人でどんな学校にしていくかを考えて、することを選択して、実現のために行動する楽しみが、眼前に溢れていた。きっとそこには新たな仲間もいるはずだ。私はそう信じることにした。

「ところで憐麻」

「なんですか?」

 私はひんやりとした風に身を委ねながら、氷雨さんの顔を見つめる。氷雨さんは複雑な表情をしていた。

「あのパンツはないと思うわ」

「……へ?」

「設定にこだわるあまり、男子の制服を憐麻に着せて、それを脱がして、あなたの制服を着せる、というのをやってみたけど、バックプリントはさすがに、手を合せそうになったわ」

 バックプリント……。今日の下着はどんなものだったかな。

「……憐麻様は熊さんパンツでございましたね」

「はうわっ!」

 沈んでいく夕日に私たちの笑い声が届いた気がした。


~おしまい~

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