【N】 酒場開店
白のカラーシャツに袖を通し、その上に黒いベストを羽織る。
ボタンを留め終えたところで見計らったように、俺を"拾った"女主人が現れた。
「あらあ、すごく似合ってるじゃない。急いで用意した甲斐があったわ……素敵よ、ノア」
「ステラさんの見立てに、狂いが無かったって事でしょ」
うっとりとした眼差しを向けられつつも、まずは受け流すことを若干意識しながら返事する。気を抜いたら好きになってしまいそうだ――というのは言い過ぎだが、彼女ほどの美人を、制服を着るくらいで喜ばせられるのなら、役得な事この上ない。
彼女と出逢ったのは、昨日。
そしてその日の内に、この酒場『ジュエル・フィッシュ』へ連れられて来たわけだが。
どうやら俺の前に働いていたというのは、俺よりは一回り背の小さい男子だったらしい。
店に置いてあった制服とはサイズが合わず、着の身着のままでカウンターに立つ事になった。――と、いうか、問題はそこではなく。
経験の有無も聞かず、店内の説明もロクすっぽせず、至極ナチュラルにあれこれと物を頼んでくるというのは、どう受け止めて良いのやら。
初日から、人遣いの荒い雇い主だった。
「ここ、俺以外の従業員とかいないんですか?」
店には、俺とステラの二人しかいなかった。
従業員どころか、まだ開店前で、客も入らない時間なのだけど。
昨日置き場所を覚えたばかりの布巾を出してきて、テーブル拭きを始めながら尋ねる。
店内はカウンターと、ボックス席が二つ。
あまり大きい店じゃないが、手入れも行き届いていて小奇麗な雰囲気の内装だ。
昨日は忙しなく動いてはいたものの席が埋まるほどではなかったし、何とか二人で捌く事は出来たけど。
俺の前の人が辞めてから昨日まで、一人で切り盛りしてたんだろうか――と考えると、ちょっと無理があるような気がする。
「そうねえ……、全くいない、ってワケでもないわ。ただ、ピンチヒッター的な子達だったり、今は丁度お休み中の子がいたり……色々ね」
……そうなのか。
一人が結婚して辞めたまではいいが、そんな人出が足りなくなってるような時期に、休んで出て来てないのがいるっていうのは、大丈夫なのだろうか。
一抹の不安を覚えないでもなかったが、俺の思いを知ってか知らずか、ステラは意味ありげに笑った。
「でも明日あたり、その内の一人に会えるハズよ」
そう言って艶めかしく、手にしたワイングラスの淵に唇を触れさせ――――
「え?」
なみなみとグラスの中に満ちていた、赤い液体を――――
「あ、あのー、ステラさん?」
飲み干した。
一気で。
「……っくううー! あのオジサン、今日も上物を置いて行ってくれたわね! 堪んないわ!」
ぐい、と唇を拭う。(だがしかし全く口紅が崩れていない不思議)
「あ、大丈夫よおー。ただのテイスティングだから。気にせず続けて頂戴」
ステラは、何も無いのにひらひらと手を振り、へらへらとだらしなく笑っている。
いや、そう言われても、…………。
何が試飲だ、どう見たってワイン一気飲みだろーが! あやまれ、ワインさんにあやまれ!
――という言葉を、ぐっと呑み込んだ。
「…………、まあ、いいか」
多分、日常茶飯事なのだろう。最初に会った時から、只ならぬ言動の目立った彼女だ。
それに、これが本当に仕事をする上での致命的な欠陥に成り得るのなら、この店はここに成り立っていないだろうし、こんな小洒落た設備を保てるわけがない。
昨日一泊させてもらったわけだけど、家具も必要最低限に絞られていたにしろ、それなりのものが揃っていたように思う。
気を取り直して、開店前の掃除に戻った俺をよそに、ステラは優雅にワイングラスを傾けていた。
……もしやアル中なのだろうかこの女主人は。
壮大な不安が頭の中に垂れ込めてきたが、良いんだか悪いんだか、開店準備を終えた時点でも、ステラは顔色一つ変えずにケロッとしていた。
きっと、あれは葡萄ジュースだったに違いない。
色々と無理があるが、そう思う事にした。
「いらっしゃいませー!」
開店してから相応の時間が経ち、酒場の中は程良い騒がしさに包まれ始めていた。
それに紛れてカランコロン、と入口のドアに取り付けられた鈴が鳴る。
接客していて解った事だが、最初にステラが言っていた通り、この店には騎士団所属の客が多い。
騎士というと、何だかお高く留まっているイメージがあったりしたものだが、少なくとも此処を訪れるのは気の良い奴ら、というのがぴったりな親しみやすい人種だった。これもお国柄なのか。
ただ、その客が入店した瞬間、場の空気が変わったような気がした。
うっかりしたら見過ごしてしまいそうな刹那、既に一杯やっていた彼らが、一様に酔いの醒めた眼でそちらを仰いだように見えたのだ。
別に危険とか、そんな警告じみたものじゃない。
答えは、その男を見たら、何となく判ったような気がしたけど。えらい悪人面だとか、そんな単純な見た目だけでは計れないような何か。
「ジェイド! いらっしゃい。いつもより遅いんじゃない? 今日は来てくれないのかと思ってたわ」
一人、ステラだけが変わらない調子で、彼に駆け寄っていった。
「ははっ、相変わらず愛されてるね、我らが団長様は。……ねえステラ? 僕もいるんだけどな」
「解ってるわ、フェイト。でもね、貴方の拗ねた顔も偶には見てみたいのよ」
ジェイドと呼ばれた男の後ろから、こちらはあまり冴えない風の男が顔を出す。
ステラは彼にも親しげな様子で軽口を叩き、馴染みの客なのだろうという事が窺える。
ふと、眼鏡の男――フェイトが口にした呼称が、引っかかった。
「団長?」
「そ。我らフェザーリオ騎士団を束ねる、ジェイド・フォーゼ・セレディシス団長閣下。……ちょーっと見た目は悪人っぽいけど、飲んでる時は良い人だよ。それと、団長と一緒に来てるのが、フェイト副団長さ」
カウンターで飲んでいた客の一人が、ちょっと酔っ払っているからか熱っぽい視線をあちらへ向けて答えてくれた。
そういえば、ステラが騎士団云々の話をしていた時、こうも言ってなかったっけ。騎士団長の御用達だって。
あと、その名前は、此処に勤め始めて一日目であった昨日からも、他の客の間で話題に上っていた。
とにかく人相の悪い、フェザーリオ王国騎士団長。
目つきが凶悪すぎて、その一睨みだけで敵を即死させたとか――――ああ、間違った。そんな有り得ない都市伝説じゃなくって。
とにかく、やたら統率力とかカリスマ性とかそういうチート的な才能に祝福されたスゴイ人が居るって話。
「へーぇ、あの人がそうなんだ……」
水割りを作りながら、ステラと談笑している団長、副団長の方へ視線をやる。
団長のオーラが凄すぎるのか、対照的に副団長の方は、一見ぱっとしない感じだ。
その平和さに反して、フェザーリオの騎士団は相当な練度だと、昨日来ていた一般客も言ってたけど……本当の所どうなんだろう。
人は見た目によらない、とはよく言うけど。
「そうだわ、二人に紹介しなくちゃ。ヒューゴの後に、新しい子を雇ったのよ。昨日から働いてもらってるの」
話の途切れたタイミングか、不意にステラがそんな事を言って、二人を連れこちらへやって来る。
グラスに満たした水割りを「どうぞ」と、さっき団長の事を教えてくれた客へと出して、俺は普段よりも二割増しくらいの営業スマイルを浮かべた。
「ノア、こちらは王国騎士団のジェイド団長に、フェイト副団長。一番のお得意様なんだから、しーっかりと御持て成ししてよね?」
カウンター越しに、二人の男を従えたステラが、どこか楽しそうな眼差しで見上げてくる。
「それはそれは、いつもご贔屓に与かりまして――ありがとうございます。俺、ノアっていいます。よろしく」
然るべき立場の人間への、礼節をもって。ただし、大衆も多く利用する店の雰囲気から逸脱しない――要は堅苦しくなりすぎない程度に、俺は答えた。
「二人とも、何にする? この子ったら、すごく手際が良いの。何でも作れるわよ」
挨拶が済んだところで、すかさずステラが尋ねていた。抜け目のないタイミングだ。
でも……無自覚でプレッシャーかけるのはやめてほしい。
確かに自分でも飲むし趣味の範囲で作ったりしてた事はあるけど、その道のプロじゃないんだし、自己流もいいところだ、
ましてや相手は、騎士団長様・副団長様なんて舌が肥えてそうな高貴な御方であらせられるわけだし。どう考えても太刀打ちできる気がしない。
「ステラさん、買いかぶり過ぎだよー。こっちに来る前に、色んなとこで仕事してたからかな。ちょっとだけ、勝手がわかってるだけだってば」
「謙遜するなや兄ちゃん! こいつは、あのヒューゴの坊ちゃんにも引けを取らないぜぇ……もう一杯!」
「もー、おじさんは、酔っ払って味わかんなくなってるだけでしょ。程々にしときなよね?」
かわそうとしたのだが、全然関係ない所から横槍が入って来てしまった。
おじさんは赤ら顔で、完全に出来上がってしまっているご様子で、手にしたグラスを前へ前へと突き出してくる。
窘めつつも、おかわりを作ってあげる俺の様子を、あの都市伝説級の眼差しがジィッと目で追っている気配がした。
…………うわあ。
マジでやり辛いんですけど。