【N】 王国漂着
フェザーリオ王都への門は、他国の者が見れば無防備ではないかと呆れるほどに開放されていた。
それどころか、このフェザリア大陸に入ってからというもの、帝国に居た時とは比べ物にならないほど全ての事が穏健に運んで行く。
平和な国とは聞いていたが――なんて国だ。カルチャーショック甚だしい。
ただしそれは、俺達のような素姓の者にとっては、まさに願ってもない環境であって、その寛容さが良い方向に働く事はあっても、悪い方へ向かう事は決してなかった。
ここから海を越えて東のロヴェリア大陸では、絶えず戦争が続いている。
否――それはもはや戦争というよりも、強大な軍事力をもって大陸の過半を優に従えた、ロヴェル帝国による一方的な略奪行為でしかないのかもしれない。
直近では、東大陸北部のカレヤ共和国が併合され、その領土は3分の2を超えるに至っただろうか。
とにかく、この平和な大陸の外では、そんなトンでもない国家がのさばっているという事だ。
そして、敗戦国であり、既に悪の帝国に領土を吸収されたカレヤ共和国。
自分がその出身で、命からがら逃れてきたのだと打ち明ければ、王国の彼らは海の外で起こった悲劇にも胸を痛め、支援を惜しまなかった。
例えば入国の際、とりあえず住む場所と仕事が欲しいと言ったら、人が好すぎて関所の門番なんか務まるのか判らないくらいの兵士が、王都へ行けば何とかなると無賃で馬車に乗せてくれたりして。
国境を越えるのに何の許可証も要らないなんて、東大陸では考えられない事だ。
けれどそれは前述のとおり、渡りに船であるから拒む理由はない。
どうやら王都には職業紹介所まで備えられているらしく、もらった都の地図には親切に赤マルが付けてあったりして。
どこまで至れり尽くせりだ――と逆にちょっとした不安を覚えながらも、他に目的地がない以上、その場所を目指そうと通りを進む。
王都は、道の隅々までが活力に満ち、すれ違う人々の顔は、皆明るかった。
今の俺にはそれが、すこし眩しい。
「――そこの貴方」
目的の建物へ着くと、やはりそれほど混雑はしていないものの、多少の人の出入りはある。
地図を片手に、入り口の様子、周囲の雰囲気を確かめ――ると、女性の声が聞こえたような気がした。
あまり人足は多くない。
自分が呼ばれたのかとも思ったが、生憎と心当たりも確証もない。
どっちつかずで、建物には入らずに様子をうかがっていると。
「貴方、――聞こえなかった? そう、貴方よ。ちょっぴりアンニュイな影を背負った、だがそこがいいと乙女心を惑わす罪作りなお兄さん!」
最初に聞いた声音は上品なものだとも思ったが、そこからえらい頓興な呼び掛けに進化した。
……俺か? 俺の事なのか?
だとしても、あまり認めたくはないのだけど――しかし仮にそうであって、屋内まで付いて来られても困るという思いがあって、渋々と声の方を振り返る。
「……!」
やばい!
目が合った!
「人違いです」
妙に迫力のある美人だった。
眼福ではあったけれど、中身が変なのだったりしたら元も子もない。というか、関わり合いにならないのが吉か。
彼女の、ブルーのアイメイクが憂いを思わせる眼差しは、捕らえられたら海底までと言わんばかりの深さで、対する俺は捕まらないようにと一瞬で目を逸らす。
今日は日が悪かったかもしれない。出直そう。
別に急いでいるわけじゃないし、一泊くらいなら外で寝ても構わない。幸い、気候も暖かいし。
それよりも、変なのに捕まってこれからの人生台無しになる方がよほど問題だ。
が、美人のおねーさんは諦めが悪かった。
「ああんそんな釣れないこと言わないで! 貴方、仕事と、住む場所を探してるんでしょう? 良い話あるわよぉ」
そんな事を妖艶に囁かれても、益々あやしい。というか――
「どうしてわかったんだ」
その呟きは最早、疑問というよりは、不審さ炸裂中の彼女へのツッコミだった。
道行く人々はあんなに友好的だったのに、こんな時には助けてもくれない。
「わかるわよ。王国の人間なら、わざわざ地図を持って此処を訪ねたりはしない――それに戦争で大事な物を奪われて、外から逃げてきた人をアタシは沢山見てきたわ」
彼女の瞳は、海のように深い色をしていた。
合わさないようにしていた筈なのに、いつの間にか惹き込まれていた。
「『ジュエル・フィッシュ』――っていうアタシのお店なんだけど。そこに住み込みで働いてた男の子が結婚する事になって、余所へ行っちゃってね。だから、新しい人が欲しかったの」
低めのウィスパーボイスが、耳に心地良く響く。
いつの間にか絡められていた腕は鬱陶しいどころか、むしろ自然すぎて気が付かなかったほど。
豊かなウェーブを描く深海色の髪が、自分のアッシュブロンドと混ざり合うくらいに近い。
それでも俺は、最後の意地で、彼女の腕から逃れた。
絡め取られたのと同じ程度に、さり気なさを装って。
尤も、心は掴まえられたままだったけど。
「ホントよ? 怪しいと思うなら、そのへん巡回してる騎士さんに聞いてみなさい。何たって、あの騎士団長様も御用達なんだから! ……って、外国から来た人に言っても駄目か」
彼女は確信犯なのだろうか。
駄目どころか、駄目押しだった。
こんなに治安の恵まれた国にあって、それを維持する騎士団が腐っているとか腑抜けているなんて話は、それこそ筋が通らない。
ならば逆説的に、この国の騎士団は勤勉優秀であり、民からの信頼も厚いのであろう。
事実、自分も関所の兵士には世話になったわけだし。
元々、職にありつく事が出来て、この国でふつうの暮らしが出来ればそれで構わない。
東の大陸に残してきた――否、残せたものは、なにもないから。
「わかりました。そこまで言うなら案内してください」
俺は仕方なく折れた風を気取って、長い溜息を吐いた。
彼女にはそんなポーズも、お見通しだっただろうか。
紅く塗られた唇が、「よろしくね」と微笑む。
それが俺と、彼女と――そして彼らとの出会いの始まり。