表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第二話 下北沢パラドックス  作者: 波多野 成一郎 (前田智彦)
第1章 止まったままの時計
3/6

夏の下北沢

 それでは、2073年の話です。小山内布裕美の父である高橋悟は47才になっていた。大手金属メーカである東洋軽金属に勤める営業マンである。


 高橋は下北沢の夜が好きだ。なんとも独特の雰囲気を持つこの街は、不眠症の高橋をやさしく包み込んでくれるからである。路地が込み入っていて、ごちゃごちゃと色々な店があるところがまたたまらない。子供の頃よく遊んだ水道道路沿いの路地裏を思い出させる。街にはちょっと変わった風体の若者が多いが、大きな騒ぎを起こす事もなく、しっかりとした良識も持ち合わせている。ここはごく普通の街でありながらも非日常的な生活を両立できる、ゆっくりと時間の流れる街なのだ。


 さて、高橋は満員の小田急線を降り、人ごみに揉まれながら階段を上り、高架になっている改札を出ると、大して広くもない改札口の前は、待ち合わせの学生やOL、年配のサラリーマンでごった返していた。既に酩酊状態の高橋は、改札前で待ち合わせているラメ入りパンストの女子大生や、胸の谷間が柔らかそうなOLなどには全く興味の無い様子で、改札を出るとすぐに右手の階段を夢遊病者のようにフラフラと降りていった。


「う、あつっ」


 汗をぬぐいながら、下北沢駅北口の看板の下にぼうっとたたずむ高橋の前には、夜の下北沢の商店が静かに広がっていた。8月の最終日、この日もじめっとした暑い夜だ。昼間ほどの人通りはなく、駅前のスーパーでは夕方の惣菜タイムセールが終わろうとしており、OLや近所の主婦でざわめいていた。高橋は右に向かって歩き出した。ドラッグストアや雑貨店の立ち並ぶ路地を、人と人の間をすり抜けるようによろよろと通り抜けて、銀行の角を左に折れる。電話ボックスの回りには商店の出したゴミ袋が積まれており、一つが高橋の千鳥足に絡まった。


「おっと」


 高橋は、緑のネットからはみ出て捨てられていた、足に引っかかったゴミ袋を丁寧にネットの中にしまいこんだ。


「カラスに食われないようにな」


 ゴミに向かって一言はなしかけると、その前の緩やかな坂道を登っていった。花屋のとなり、赤い看板が目立つレンガ造りの建物の階段を上がっていき、重い木のドアを開けた。


「カラ、カラーン」


 ドアベルが常連が到着したことをマスターに告げた。『カフェ・レイチェル』という名前のその喫茶店に、高橋は吸い込まれるように入って行った。高橋の体がオールドビーンズの珈琲豆の香りで包まれた。琥珀色の香りのクッションに包まれたソファーに腰掛けるような気持ちで、高橋が少し暗い照明に照らされたカウンターのいつもの場所に座った。奥の方では静かにママが珈琲を淹れている、天井近くに取り付けられた黒いオーラトーン5Cから流れるバロックがわりと大きめの音量で店内を暖かく包み込んでくれている。

 ママがさりげなく曲を切り替えた。高橋の好きなバッハのフーガ(小フーガト短調:BWV578)である。気配りの行き届いた、そしてまったりとした時間の流れがレイチェルにはあった。「このオーラトーン5Cは20センチくらいの立方体のスピーカでスタジオモニタとして世界中のスタジオで使用されているスピーカですの。10センチフルレンジ一発のこのスピーカは大きな出力でドライブすると結構いい音がするから、音楽好きの方にファンが多いんですよ。」とは機械オンチのママが言える唯一のウンチクで、高橋の受け売りであった。


「はぁ、今日も終ったか」


 高橋はふっと溜息をついて、奥に眼をやった。実際の年齢よりかなり若く見える、つまり美しいママと目を合わせるためである。


「高橋さんいらっしゃい、お疲れさま。娘さんの具合どう?」


「ありがとう、578と同じで相変わらずさ。とりあえず、いつものお願い」


 すでに酔っ払っている高橋は、バイトの女の子の美名子が差し出してくれた、ダブルのコニャックを一気に飲み干した。


「あんまり無理しないでって、あらぁ、もうしょうがないわね。美名子ちゃん、高橋さんに毛布かけてあげといて。」


 喫茶店に入ってから5分とたたないうちに、カウンターに額をくっつけて静かな寝息を立て始めた。隣では二人連れの女性客が夏休みに行くオーストリア旅行のスケジュール調整に夢中になっている。二人の高めの声が、フロアの隅の暗がりに染み込んでいくように静かに心地よく響いている。BGMはシュトラウスに変わっていた。




真っ暗な闇の中。


突然赤い矢印が点滅する。

「カンカンカンカン」と踏み切りが鳴り始め遮断機が下りる。

高橋は車を止め、サイドブレーキをゆっくりと引いた。

バックミラーが明るく光った。

何か大きな振動を感じた。


次の瞬間


高橋が気がつくと、そこは清潔な病院の一室だった。

(なんだここは、いったい何が)

戸惑う高橋の耳に、看護師がインターホンでドクターを呼んでいるのが聞こえる。

ここは病院なのか?高橋が思わず叫んだ。


「亜紀奈!」


 高橋は自分の叫び声でガバッと起き上がった。ママが慣れた感じでやさしく言った。


「目が覚めたかしら?また怖い夢ね」


美名子が熱いストレートのマンデリンを持ってきた。


「寝覚めの一杯をどうぞ。ママもコーヒーも最高でしょう」


「ああ、本当だ。」


カウンターの隣の席に座っていた二人は驚いて、まだ高橋の顔を見つめている。


「ああ、ごめんなさい、突然叫んでしまって。妙な夢を見たもので、本当にすいません」


高橋は二人連れの隣の客に丁寧に謝った。そして、悪ふざけのつもりで、


「特に怪しいものではありません、こういう者です」


そういって、高橋は自分の名刺を差し出した。二人が名刺をチラッと見た。


「いえ、いいんです」


 変な人ではないことは通じたようで、二人は安心した面持ちとなったが、ちょっと迷惑そうな顔で会釈をすると、また旅行のスケジュールの会話に戻っていった。名刺は受け取らなかった。

高橋は、差し出した名刺を渡すタイミングを失い、女性のコーヒーカップの横にその名刺を置いた。


 奥にいるママの前にはいつの間にか、べっ甲の眼鏡をかけた、がっしりとした体格の老紳士が座っていた。皮製の古いアタッシュから懐中時計を取り出してしきりに気にしている。どうやら懐中時計は壊れているようで、3時3分を指したまま動いていない。その老紳士も、高橋の叫びに驚いた様子で、ママに話しかけていた。


「彼は、何か悩みでもあるのかね」


「かわいそうな人なのですよ、実はね、、。」ママが静かに話し始めた。


「去年の話なのですけどね、本当は奥さんと娘さんの三人家族でね、那須高原に遊びに行った帰りに交通事故に遭ったのですよ。」


「それって去年の夏にあった那須の踏切事故の事?」


「あら、良くご存知ですわね、そうそう、新聞にも大きく出ましたからねぇ」


「それで、どうだったのですか。」紳士は静かな口調で尋ねた。


「あ、そうそう、なんでも、踏切の前で停車していたら、後ろからトレーラが突っ込んできたらしいんですよ」


「新聞にそう出てましたね、家族と一緒だったから、安全第一と無理をしないで踏み切りに突っ込まないで、ゆっくり待っていたのがあだになったとか」


「あら、お客さん、私より詳しいじゃないですか。不思議な方ですね、そうなのよ、ちょうど踏み切りの前に娘さんがね、ペットボトルのふたを開けられなくて、彼にお願いしたのだそうよ。それで、ちょうど踏みきりが鳴り始めたので、そこで停車してね、ペットボトルのふたを開けようとしていたんだって」


「そこで、後ろからトレーラに突っ込まれたというわけだね。彼はペットボトルのふたを開けるのに意識がいって、後ろに気がつかなかったのだね」


「そうなんですよ、だから彼は全然悪くないのよ、安全運転で交通規則をきちんと守ったばっかりにねぇ」


「じゃあ、その運転手の顔とか分からないんだ」


「それどころじゃないですよ、気がついたら、病院だったらしいから」


紳士から溜息と不思議な笑みが漏れていた。そして紳士は大袈裟にうなずいた。


「へぇ、それは可哀想だ」


「でしょう、そう思いますよね」


 ママの答えをかわしながら、老紳士は、ゆっくりと席を立った。

(あら、変わった人)一瞬ママはそう思って、目を落とした、紳士の手が目にはいった。


「あら、かわった指輪ですねぇ、クローバのデザインなんて」


「あ、これね、外国の古道具屋で見つけましてね。じゃあ、今日はこれで」


「ありがとうございました、その指輪どこかで見たような気が」


紳士は答えず、店を出て行った。いつのまにか、静寂が店内を包み込んだ。




 高橋は毎日この喫茶店に立ち寄ってはメニューにない一杯を飲んで寝てしまう。実は、高橋は不眠症でどんな薬もほとんど効果がなかった。強烈な事故のショックのためと言われている。あの事故で、妻を失い、娘は下半身不随、内臓損傷で今も入院中である。毎日の見舞いと営業活動で高橋の疲労は限界をとうに超えていた。さらに、毎晩見る事故の夢でほとんど眠ることさえできないのであった。


「高橋さん、落ち着いた?」


「ありがとう、ママ。もう帰るよ」


「もっとゆっくりしていっていいのよ。そうそうあの紳士、あなたの事故のこと覚えていらしたわよ」


「新聞にも出たからねぇ」覇気のないため息混じりの声で、ぽつっと高橋が応えた。


「あの指輪どこかで見たのよねぇ、近所の絵葉書のお店のバイトの娘だったかしら、、ハハハ」


「そんなに変わった指輪なのかい」高橋が尋ねた。


「そうでもないんだけど、デザインがね、五葉のクローバなのよ、クローバの葉が五つあるなんて変だなぁ、って前にどっかで思ったのね、あれと同じ指輪だったから。だいたい、おじいさんが指にはめるようなデザインじゃないでしょ。あのおじいさんも変わっているわよね、ちょっと変わった雰囲気の人だったけれど」


 意識がもうろうとしている高橋にはママの高い声は良く聞こえていなかった。もし、聞き取れていたらこれからの高橋の世界は変わったものになっていたであろう。しかし、高橋は興味なさそうに、


「ありがとう、やっぱ、俺帰るわ。明日また出張だから」


 ママは奥から近くまでやってきた。高橋の名刺はカウンターに放置されたままになっていた。コーヒーカップの跡の茶色い円がまるで消印のように、この名刺はもう使えませんと言っている様だった。ママがカウンターに置かれたままの名刺をそっと後ろの壁にピンで貼り付けた。今日のお客様と書いているボードであった。


「お疲れ、体には気をつけてね。布裕美ちゃんのためにもね」


「ああ、ありがとう」


 高橋は喫茶店を出ると、ゆるい下り坂を惰性で進み、工事中の踏み切りを渡って右に折れると、南口へ出た。南口は北口と違って、学生やビジネスマンがまだ多くうろついている。うつらうつらと、坂道をくだっていく途中、街頭のスピーカからはジャズが流れていた。坂道を下ると、派手な看板の餃子店を通りすぎ、その先の駄菓子屋でふと立ち止まった。


「あ、まだ開いていたのか」


 高橋は、ソースせんべいとベーゴマを買うと、茶沢通りに向かって再び歩き出した。鮮やかな赤と赤紫のコントラストが美しい日々草が花屋の玄関先を彩っている。ライブハウスでは入場待ちの客が列を作って騒いでいる。なにか特別な日を期待させる非日常的な人たちの人生の脇をすりぬけて、居酒屋の角を右に折れた。人通りのないその横道には、木造りのチャイのおいしい古本屋があって、やわらかい光と話し声が漏れてきている。その古本屋のビルの4階に高橋の部屋はあった。エレベータもない古びたアパートである。


 古本屋から店主が急いで顔を出してきた。


「あ、高橋さん、これ、こないだのお礼」


カプセというチベットのお菓子を大きな手提げに入れて持ってきた。


「あ、悪いね、気にしなくていいのに」


「いいや、高橋さんのおかげで助かっているよ。このゴキブリ駆除マシンは絶好調!こんなの作れるなんて、高橋さん本当に営業なの?すごいよこれ、売ったほうがいいって絶対」


高橋には、古本屋の店主の絶賛も、頭痛の原因となる騒音としか聞こえなかった。返事もそぞろに、そのままアパートへ入っていった。




 高橋悟は小山内布裕美の父である。小山内が人間だったときとは違う過去であった。高橋悟は徳井電子工業の最高技術責任者でもあった。もともと超音波技術の製品化を担当していたエンジニアで、超音波技術の世界的権威でもあった。2073年では小山内は小学生だった、ノーベル物理学賞に関するスウェーデン王立科学アカデミーの発表をテレビで見ていた。高橋は、波動制御理論を確立し微小波動のエネルギー変換を解明し原子力発電を不要にしたことで、ノーベル物理学賞を受賞していたのであった。布裕美は、小山内を知ったときである2089年では、父である高橋悟と母の亜紀奈と一緒に、金沢に住んでいが。子供のときである2073年では、下北沢に住んでいた。亜紀奈は喫茶をやっていた。


 しかし、今の2202年から過去である2073年を見ると、高橋は東洋軽金属に勤めているし、営業であった。そして事故で、亜紀奈は死んでしまったし、布裕美は病院におり、生きるのは難しい状態である。全く違うものであった。


 これから、MinakoGarciaと小山内には、とんでもない事が起こることになる。次は2202年の物語に戻ることにしましょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ