高野 玲奈は少し背伸びする
「安田先生、ちょっと……」
数学の授業中、教室の扉が不意に開いた。教頭の山内が数学教師の安田を手招きしている。山内は教室に入ろうとはしない。
「はあ……」
なんとも気の抜けた返事をして安田が山内へ向かう様子を、高野 玲奈は教室二列目の席から眺めていた。今年度で定年を迎えるらしい安田。玲奈には「おじさん」というより「おじいさん」に見える。
数学が苦手な玲奈は、授業が中断したことを内心喜んでいる。高校三年生に進級し、ますます難しくなる授業内容に辟易していた。
二人が廊下に消え数分後、安田が戻って来た。
「ああ……、すみません。残りの時間は自習していてください」
それだけ言うと再び安田は廊下へ消えた。
教室は色めきだった。玲奈同様に数学が苦手なクラスメイトや冗談一つ言わない堅苦しい安田が苦手なクラスメイトは少なくない。
とは言え、小学生の様に雑談を始めたりする者はいない。スマートフォンをコソコソ観ている者はいるかも知れないが、玲奈の席からは見えない。
結局、なんとなく教科書を眺めたまま休み時間を迎えた。
――――
「ええ……、安田先生は今日お母さんがお亡くなりになったのでしばらく学校へは来ません。その間の数学の授業は…………」
下校前のホームルームで担任教師の松下が告げた。その続きの言葉は玲奈の頭に入っていかない。
――人のお母さんが死んだのに自習になったことを喜んでしまった。
ひどく自分が汚い人間になってしまった気がした。
「知らなかったから仕方ない」では自分を赦せない汚さ。
玲奈にとっては母の死を意識すること――、「お母さんが死んだら……」などと想像することは禁忌だった。稀に喧嘩をすることもあるが、それでも母親を喪失する悲しみや苦しみは想像さえしたくない恐ろしいものだった。
私はそれを喜んだ……。
謝って赦しを乞うわけにはいかない。本人は何も知らないのだから。
気づけばホームルームは終わっていた。
――――
五日後、玲奈は愕然とする。
安田が出勤してきたから。たった五日で。
教室に入った安田は当然、数学の授業を始める。
何も変わらない。
冗談一つ言わない堅苦しさも。
数学の難しさも。
何も変わらない。
そんな安田を玲奈は観ていた。
畏怖に近い何かを感じていた。
その日のホームルーム後、日直だった玲奈は学級日誌を担任教師の松下へ提出し学校を走り去った。
日誌を書き直したくなる前に帰宅したかったから全力で走った。
――――
「ほう……」
夕刻、職員室で学級日誌を確認していた松下は日誌を三つ隣の安田のデスクへ持っていった。
「安田先生、うちの高野 玲奈がこんなこと書いてますよ」
「はあ……」
なんとも気の抜けた返事をして安田は松下から日誌を受け取る。松下が指差す位置へ老眼鏡越しに目を落とす。一文字一文字丁寧に書かれた玲奈の文章を追う。
「くっ…………」
数秒後、一度だけ声を詰まらせた安田が日誌を押し付けるように松下へ返した。
下を向き、職員室を出て行った。
(泣いてたな――――)
松下はため息を吐く。もう一度、安田へ読ませたページを開く。
高野 玲奈を含めたほとんどの生徒が「特になし」としか記入しない「一日を振り返って」の欄に高野 玲奈はその文章を書いていた。
「安田先生はお母さんが亡くなってすごくつらいはずなのに、いつもと同じ様に授業をしていた。私には出来ない大人の強さだと思う。私はそんな強さを尊敬する。」
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