表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

きみが宝石を捨てた場所

作者: 佐藤水際
掲載日:2026/05/19

 美咲が死んだのは、雪の日のことだった。完成しないまま放置されたうつろなビルから、身を投げて死んだ。

 発見は一時間後で、通りがかった人が、新雪の下に血だまりと灰色のコートが埋もれているのを見つけた。五階建てのビルの屋上からだったから、即死だったという。


 わたしが美咲の死を知ったのは、友人の花が教えてくれたからだった。夜の九時、わたしは無性におでんが食べたくなって、出かけようとしていた。ジャンパーを引っ張り出して着替えている最中だった。電話が鳴って、わたしは半年ぶりに花と話すことになった。


「美咲が、自殺したって」


 久しぶりの会話で積もる話もたくさんあったが、挨拶もそこそこに、花は切り出してきた。わたしはとっさに何の反応もできなかった。それでも、なんとか「本当?」と声を絞り出した。


「うん、ビルから飛び降りたって」


 まるで現実味を感じなかった。わたしはジャンパーを脱ぎ、ベッドに腰掛けた。


「なんで。なんで死んだの」

「わかんない。まだ詳しくは聞けてないの」

「いつ死んだの」

「朝方に見つかったらしいけど、いつ死んだかはわかんない」


 わたしは耳にくっつけた携帯が発する声を聞きながら、散らかった自分の部屋を眺めていた。どこかに現実らしさが転がっていないだろうかと思った。

 最後に美咲に会ったのは、確か上京前に遊んだときだ。わたしと美咲と花の三人だった。そのときの光景を、欠片でもいいから思い出そうとした。ファミレスに行って、カラオケに行って、デパートで買い物をした。


 とても楽しかった。それが三年近く前のことだ。


「透子、どうする?」

「どうするって?」

「お葬式、行くの? ていうか、そっちは今東京だよね」

「うん。花は地元でしょ」

「そう。だからうちは間に合うけど、そっちは……」


 わたしは壁に吊ってあるカレンダーを眺めた。もうすぐ年末だ。一年以上実家には帰っていないし、ちょうどいいのかも、と思ったのは不謹慎だっただろうか。


「そっち行くよ。間に合うといいけど」


 それからわたしたちは、一時間近く話をした。近況の報告はすぐに終わった。彼氏ができただのバイトがどうだの就職がどうだのという話だが、どこか空々しい感じがあった。

 わたしたちは心からお互いを知ろうとしているのではなかった。わたしたちはただ電話を切りたくなかっただけなのだ。こみ上げてくる漠然とした孤独を、まだ遠くに見えているだけの悲しさを懸命に遠ざけようとしていたのだ。


 だが、それにも限度があり、電話は終わった。


 わたしは引っ張り出したジャンパーをクローゼットに片付け、部屋を見渡した。列車の予約を取らなければならなかったが、どうしてもその気になれなかった。美咲について考えようとしても、心の中は何の像も結んではくれなかった。


 わたしは思い立って携帯のメッセージアプリを見る。最後に美咲と話した時間が、上京前に遊んだときよりも後にある気がした。ただそう思いたかっただけなのかもしれない。


 結果、あたりだった。美咲からのメッセージがあった。「透子、今度はいつ帰ってくる?」ちょうど一年前のこと。

 わたしはそれに「しばらくは帰れないかも。年末はこっちで過ごすから」と返していた。


 結局、それ以来一年間なんの連絡も取っていなかった。そして次に美咲に会いにいくのは年末になってしまった。今度は、もう一言も会話を交わすことができない状況で。


 そのことに何か意味があるんじゃないかとしばらく考えてみたが、なにも思いつかなかった。


 結局のところ、わたしは自分の後悔を紛らわそうとしているだけなのだ。美咲が死を選んだことについて、正面から直視することができないから、その周辺に転がっている考えるべきことを闇雲に探していた。

 そうすればするほど、自分の薄情さが浮き彫りになってくるのを感じた。


 わたしはベッドに横になった。



 結局、わたしは美咲のお葬式に行くことができなかった。直近の列車は年末ということもあってほぼ満席状態だったが、どうにか乗ることはできた。では原因はなにかというと、お葬式の日程だった。


 どうやら、美咲の両親は身内だけで、ひっそりと葬儀を済ませてしまいたかったらしい。それで、わたしが列車に揺られうつらうつらしている間に、行事は粛々と進行していった。


 なんとなくだが、理由は理解できた。自殺した人の葬式だ、なかなか人を呼ぶ気にはなれないだろう。


 列車の中で、わたしは白く染まった山間の景色を眺めながら、美咲との思い出を掘り出す作業をした。他にできることがなかった。携帯をスワイプし、美咲とのメッセージのやりとり、美咲の映っている写真や動画を一つ一つ過去から辿っていった。半ば機械的に、何周も繰り返した。


 あと一時間で地元というところで、わたしは花にメッセージを送った。会って話がしたいと。何を話すのか、自分でもわからなかったけれど。


「花は、お葬式行ったの?」

「うん、うちはずっとここにいたからね。親が美咲の両親と仲良いし」


 わたしは、地元に帰って早々にファミレスに来ていた。向かいには花が座っている。高校時代、二人で何度も来た店だ。美咲は平日は塾で忙しかったからなかなか三人で来ることはなかったが、時々は一緒だった。


「その、美咲のお父さんお母さんは……?」

「疲れてる感じはあったね。でも意外と……」

「意外と?」

「いや、何でもないかな」


 何でもないってなによ。わたしは突っ込んで聞くことができない。久しぶりの再会のせいか、話題のせいか、会話は探り探りだった。


 パスタをすする。わたしは心細さを感じていた。変わらずにあると信じていた友情が、微妙に変化していた。亀裂が入っているというほどではなくとも、なにかしっくりこない感じがあった。


「美咲が死んだ理由、まだわからない?」

「両親に聞くわけにもいかなくてね。でも、なんとなくわかる気がするよ」

「教えてよ」


 うーん、と花はホットコーヒーをスプーンでかき混ぜる。


 わたしは苛立っている。お葬式にも行けず、自分だけ蚊帳の外にいるみたいだ。


 わたしたちは同じ高校の同じクラスで過ごした。花と美咲は、幼稚園、小学校、中学校でも一緒だったらしく、親同士も交流があった。一方のわたしは高校で初めて二人と話して、遊ぶようになった。友達歴の長さでいうと二人に遠く及ばないのはわかるけれど、わたしは確かに二人と対等だと思っていた。


「美咲が大学で研究してたこと、知ってる?」

「知らない」


 やめてよその聞き方、とわたしは思う。わたしから誘ったのに、すでに後悔し始めていた。お葬式にも出られず、会話は弾まず、わたしは未だ二人の関係に及ばない。


 わたしはここに帰ってくるべきじゃなかったのかもしれない。


「美咲が研究してたのは、素粒子物理学。特に〈ダイヤ〉に関連する技術だったんだよ」





 その機械には、もちろん偉い人がつけた正式な名称があるのだけれど、それを思い出すことはできなかった。ただ、その形状がダイヤに似ているから、多くの人がそのまま〈ダイヤ〉と呼んでいる。


 四半世紀前に開発された〈ダイヤ〉は、別の世界での人生を可能とする、魔法の機械としてもてはやされた。それを使えば、誰もが理想の人生を送ることができる。それが〈ダイヤ〉の売り文句だった。


〈ダイヤ〉は、使用者の脳に埋め込む形で使われる。それは二つの機械部分から成る。


 一つは、脳の活動の全てを完璧にモニターし、記録するコンピュータだ。外科手術によって頭蓋の内側の隅々まで張り巡らされた網の目を通じて、血管内を行き来する種々の化学物質、神経に現れる電気信号の諸相、ニューロンの発火、シナプスの結合パターンを記録し、蓄え続ける。


 つまり、人の精神をパッケージングするということだ。人を人たらしめる人格の全部を、ダイヤの内部に保存するのだ。


〈ダイヤ〉のもう一つの部分は、別の世界との通信機器だ。こちらは精神の記録媒体と違い、普段、沈黙を保っている。しかし、ひとたび起動させると、内部で量子測定が行われ、別の世界との接続が始まる。並行世界――それは無数の選択によって分岐した、無数の可能性の世界だ。


 繋がった並行世界とどんな交流が行われるか。それは、パッケージングされた精神の交換だ。こちらにいる自分と、向こうにいる自分の間で、精神を交差させる。言うなれば、別世界との無期限の交換留学だ。精神の移動は自分自身の移動でもあり、わたしたちは向こうの世界へ旅立ち、逆に向こうからもう一人のわたしがやってくる。


〈ダイヤ〉が可能とするのは、並行世界への移動、理想の世界への移住だ。


〈ダイヤ〉を埋め込む手術は少しずつ庶民でも手が届く料金になってきていた。開発当初はニュースで名前を聞くような富裕層しか買うことができなかったが、今では敷居も下がってきている。そして否応なく、社会を変化させようとしている。


「美咲はその〈ダイヤ〉の技術に興味を持って研究してたわけ」


 花はコーヒーををかき混ぜ続ける。ぐるぐるぐるぐると。とっくに湯気は立っていないのに。


「それが、自殺とどう繋がるの?」

「透子はさ、家族が〈ダイヤ〉を使ってたりしないの?」

「今のところは。弟が、使いたいとか言ってたけど」

「じゃあさ、その弟が実際に手術して〈ダイヤ〉を使うようになったら、どう思う?」


 わたしは考える。中学生の生意気な弟のことを。地元を離れても、お母さんと電話するたびに愚痴を聞かされていた。朝起きるのが遅いとか、学校で配られたプリントを出さないとか、返事をしないとか、反抗期のあれこれを。


 そして、ことあるごとに〈ダイヤ〉を使いたいということを。


 弟が〈ダイヤ〉を使ったら? 実はこのことについて考えるのは初めてではなかった。大学三年にもなって世間に疎いわたしでも、〈ダイヤ〉がいろいろな問題を抱えていることは知っていた。


〈ダイヤ〉のせいで現実を生きる意味を失うとか、人間関係を希薄になったり、仕事に支障が出るとか、とにかくその技術はあまりにも多くのことを強制的に変化させてしまう。一昔前に登場したAIのように。


 失敗しても、気に食わなくても、退屈でも別の世界に逃げ込むことができるという考えは、周囲の人間からすればやっかい極まりない。それだけでなく、根本的な人生の価値を暴落させうる。最悪の場合、人を死なせても別の世界に逃げ込むことができるのだ。なかったことにして、やり直すことができてしまうのだ。


 人生はただ一つだけ、一度きりである。そうであった方が、社会にとって都合がいい。そう考える人がたくさんいるし、わたしもそう思っている。今のところは。


 今後、世界がどう変わるかは知らないけれど、わたしにとっての一番の関心は、やはり身近な弟のことだ。


 たとえば、わたしの弟が〈ダイヤ〉を使って移動し、向こう側の世界からもう一人の弟がやって来たとき、それは本当に「わたしの弟」なのだろうか。


 別の世界に住む弟は、今の世界に住む弟とは少なからず別の人生を送ってきたはずだ。その別の世界には、当然のように別のわたしがいて、別のお母さんがいて、別のお父さんがいて、彼らの知り合いと、全く関係のない芸能人や政治家や研究者もいる。

 わたしのいる世界と同じように。それでも、粒子一つの動きの違いにより、別の世界は決定的にわたしのいる世界とは違っているはずだ。程度の差はあれど、分岐しているからにはそれは確実なことなのだ。


 わたしの世界で死んでいる誰かが、向こう側では生きているかもしれないし、その逆が起こっているかもしれない。


 何がどのくらい違うのか計りようがない状態で、それでも向こうにいる弟を自分の弟と認めることはできるだろうか。弟は弟だ、と認めることに、何のためらいも必要ないのだろうか。


 この世界で交通事故に遭い、顔にけがを負った人がいるとする。一方、別の世界では、たまたま同時刻に別の道を通ったことで何事もなくけがをしない人がいたとする。

〈ダイヤ〉を使えば、その二人の精神を交換することはできるだろう。しかし、そのことが二人の同一性を担保してくれるわけではないことは明らかだ。


〈ダイヤ〉は必然的に〈ダイヤ〉を埋め込んだ別パターンの自分と接続してくれるが、そもそも〈ダイヤ〉を埋め込んでいない自分がいる世界もまた無限に存在するのだ。そこに接続できないから確かめようがないけれど、〈ダイヤ〉が発明されなかった世界もまた無限個存在している。


 そして、向こう側からこの世界にやってくる自分がどうして都合良く存在するのか、という問いは、無限の個数をもつ世界の前では無意味な問いだ。今自分が移動しようとしているのと同じように、同時刻にこちらに移動してこようとしている自分もまた無限に存在する。


 どんな理由であれ、もしも向こうの世界に行こうとする自分がいるなら、こちらに来ようとする自分も存在する。どれぐらい異なった人生を歩んでいるかわからないが、それは確かに自分との公約数を持っている。


 わたしはそういうことをあれこれ考えた結果、まだ答えを出せずにいる。ただ、予想できるのは、弟が〈ダイヤ〉を使えば、わたしは少なからず怒るだろうってこと。理由なんてそのときにならないと言葉にできないだろう。


 そして、その怒りを向こうからやって来たばかりの弟にぶつけるだろうってこともわかっている。その怒りの矛先は、確実に、ここにいるわたしと何の関係もない弟なのに。怒りをぶつけるべきは、こちらに来た弟ではなく移動していった弟の方なのに。


「つまり、美咲の家族が、ダイヤを使ったってこと?」


 さすがのわたしも見当がついた。花はいつになく暗い表情でため息をつく。


「ずっと前にね。中学生の頃だったかな。美咲のお母さんが突然、〈ダイヤ〉で移動した。そこから美咲は少し変わった。〈ダイヤ〉を嫌いになったのはもちろん、人間不信みたいな感じになってね。周りにいる人間が全員〈ダイヤ〉で自分から逃げていく、みたいなことを考えてたみたい」


「それで〈ダイヤ〉の研究を?」


 わたしにはあまり理解できなかった。嫌いなもの、憎んだものに自分から近づくなんて。


「克服しようとしたんだよ。〈ダイヤ〉なんて怖くない、たいしたものじゃないって思いたかったんだ」


「花は気づいたの? 美咲のお母さんが〈ダイヤ〉を使ったこと」


 しばらく、花は黙っていた。結露した窓の外に目をやり、雪の積もった駐車場を眺めていた。


 思えば思うほど、本当の美咲が、わたしの知る美咲から離れていった。わたしは何も知らなかった。そして今も知らない。家族が〈ダイヤ〉で去っていくとき、どんな気持ちになるのかを。美咲がどんな風に感じて生きてきたのかを。どんな風に悩んで飛び降りることにしたのかを。


「うちは、気づかなかった。でも、昔より美咲と美咲のお母さんの仲が良くないことには気づいた。そのことをうちのお母さんに話したら、教えてくれたよ」


 花の視線が、ようやくわたしに向けられた。


「透子、明日、美咲の家に行かない? 美咲の持ち物を受け取りに行こうよ」


 不思議なことに、そこでようやく、花の目が充血していたことに、わたしは気づいた。





 翌日も、ぱっとしない天気が続いていた。雪は降ったり止んだりを繰り返していた。


 わたしは花とゲームセンターの前で待ち合わせをした。そこも、高校時代によく行った場所だった。


 わたしは震えていた。

 わたしは緊張していた。わたしは別に、美咲の両親と会ったことがない。美咲の家にも、実は行ったことがない。でも、それが理由というわけではない。


 きっと、美咲の死に真正面から向き合うのが今からだからだ。そんな予感があったのだ。


「来てくれてありがとう」


 インターホンを鳴らすと、出迎えてくれたのはお母さんだった。美咲が中学生の頃に移動してきたお母さんだ。初めて会ったが、それでも少しやつれているのがわかった。気丈に笑顔を向けてくれたが、やはり堪えるものはあるのだろう。


 わたしたちは美咲の部屋に通された。


「仏壇がまだなくてね。そこの写真に手を合わせてくれれば……」


 勉強机、椅子、テレビ、ベッド。わたしは初めて美咲の内側をのぞき込んだような気分だった。そこにあるのは抜け殻に過ぎないというのに、それでも、そこから何かを必死に読み取ろうとした。


 わたしたちは美咲の写真に向かって手を合わせた。美咲はそこから微笑んでいるだけだった。ビルから落ちるときに何を考えていたのかを教えてくれるわけもない。


「あなたたちが来てくれたこと、美咲も喜んでるわ」


 お母さんは、さみしげに微笑んだ。わたしはその横顔に、聞きたいことがたくさんあった。けれど、聞くべきじゃないと思った。娘を亡くしたばかりの人にすべき質問ではなかった。


 わたしは美咲の写真に目を戻す。ショートカットがよく似合う美咲の笑顔を。恥ずかしそうに笑っている美咲の目元を。口元を。


 しばらく沈黙が続いた。わたしも何か慰めの言葉をかけるべきだった。頭ではそうわかっていた。だが、その言葉はついに出てこなかった。


 そして、代わりに、別の言葉が出てきた。


「わたし、花よりも美咲と友達だった期間が短いんです」言葉は不思議なほどすらすら出てきた。「花よりも美咲のこと知らないし、昨日初めて知ったこともあったんです。でも、美咲の力になれる可能性がありました。一秒でも長く美咲と話して、美咲の話を聞くことができたはずなんです。何か一言でも電話できたはずなのに、なにもしなかった」

「いいのよ、美咲と仲良くしてくれて本当にありがとう。美咲の話を聞かなきゃいけなかったのは、わたしの方よ。もっと美咲に大事なことを伝えられたはずなのに。あの子に、苦しかったら泣いてもいいって、逃げてもいいって教えてあげられれば……」


 お母さんは長いため息をついた。


「なにも死ぬことはなかったのに」


 その言葉を聞いたとき、わたしの中で何かが振り切れた。わたしは自分がいやになる。わたしはきっと、その言葉を待っていたのだ。美咲のお母さんを試していたのだ。そんなことをする自分が許せなくて、でもそれ以上に美咲のお母さんが許せなかった。


「わたしは、美咲が悩んでいたこと、昨日知りました。それまで、何も知りませんでしたよ、あなたが――お母さんが〈ダイヤ〉で移動してきたことも」

「透子っ……」


 花が思わずといった感じで言った。喉がきゅっと締まる感じがした。まるで体が喋ることを拒否するみたいに。でも気持ちを抑えられない。


 そのとき、わたしは自分が何を言いたいのか知った。からだに逆らうように、わたしは声を出す。


「お母さんは、美咲に、〈ダイヤ〉を使って逃げてもいいって教えたかったんですか?」

「え……?」

「お母さんは、美咲が〈ダイヤ〉を使って自分から逃げてもいいって思ってたんですか? 美咲の人生は、あなたにとって、そんなにどうでもいいことだったんですか?」


 視界がぼやけた。逆に、頭は鮮明になっていった。


「お母さんは、美咲が死んだあと、また〈ダイヤ〉を使ったんじゃないですか……?」

「……なんてことを言うの」


 わたしはどうしても、目の前にいる人を傷つけずにはいられなかった。美咲のためとか、そんな理由ではなかった。わたしのために、どうしても必要だったのだ。


「逃げることで美咲を悲しませたのに、美咲には逃げろっていうんですか」


「でも、死ぬことはなかったのよ。〈ダイヤ〉を使う方が、死ぬよりはずっとよかったでしょう……」


 お母さんは途方に暮れたようにつぶやく。


「それに、わたしは逃げてないわ……」


 そうなのだろう。それはきっと正しいのだろう。


 わたしの頬を、大粒の涙が伝った。わたしはただ怒っていた。


「美咲は、あんたのいない世界に行きたかったんだよ! だから〈ダイヤ〉を使わなかった! だから死ぬことにしたんだ! 適当に逃げながら生きてる奴らに、美咲の気持ちがわかるもんか!」


 わたしの言葉があまりにも理不尽で筋違いなことはわかっていた。なぜなら、ここにいる美咲の母親は、かつて移動してきた美咲の母親であって、逃げていった美咲の母親とは違うのだから。それでも、抑えることができなかった。決して形をとろうとしない意地悪な現実に心の限りの罵声を浴びせたくて、目の前にいる人間に八つ当たりすることしかできなかったのだ。


 涙を止めることはできなかった。もっと早く泣くべきだったのに、と思った。





「美咲が死んだ理由だけど」


 花が切り出した。

 あれから、わたしは美咲の持ち物も受け取らずに飛び出してきた。見知らぬ公園のベンチに座って、すすり泣いていた。


 花はわたしの後を追ってきてくれた。わたしを責めることもせず、ただ背中をさすってくれていた。


 わたしはようやく、美咲の死を実感し始めていた。


「美咲のお父さんがね、美咲が高校生の頃に〈ダイヤ〉を使ってたんだ。でも、美咲はそのことに気づかなかった。ずっとね。そのことを知ったのは、大学生になってから。それで、美咲は落ち込んじゃって……」


 怒りは湧いてこない。ただやるせなさだけが心の内に広がっていった。


「本当に、わたしにはわからないよ。別の世界に逃げることは気楽にできるのに、死ぬことが許されない理由ってなに? 死ぬくらいなら別の世界に逃げろっていうの?」


 わたしは誰にともなく問いかける。


 生きることはそれほど気楽で、死ぬことはそれほど深刻なのだろうか。

 真剣に生きることのできない世界では、真剣に死ぬことは許されないことなのか。


 そこでわたしは気づいた。たとえこの世界の美咲が死んだとしても、別の世界で生きている美咲がいるということに。


 わたしは美咲に会いたいのだろうか。会いたい。会って声を聞きたい。話がしたい。でも、会わないだろう。会いに行くことはないだろう。後悔はあれど、その後悔がよすがになってくれる。美咲との絆になってくれる。


 無限の可能性という濁流の前で、一つの人生を生き通すことの大切さなど簡単に飲み込まれてしまいそうだった。でも、その事実はなんの楽観もなんの悲観もわたしにもたらしはしない。そう感じられる自分がいることに気づけた。それはなによりの収穫だ。


 弟がどうなるか、わたしにはわからない。でも、わたしはこれからも〈ダイヤ〉を使わないだろうという確信が、いつの間にか生まれていた。

 苦しいときはいくらでも逃げるけれど、わたしはこの世界に無様にしがみつく。美咲のいない世界。別の美咲すら来ることのできない世界。


 たとえみんなが移動して、わたしのそばに誰も残らないとしても、そこはわたしのいる場所なのだ。


 花が、一冊の赤いノートを取り出した。


「これ、美咲が大学で使ってたノート。このページの最後に、わたしたちに宛てた手紙が書いてあるんだって、美咲のお母さんが教えてくれたよ」


 わたしは花の横で、ノートの片側をもつ。花が反対側をもつ。


「美咲はわたしたちに何を伝えようとしたんだろう」


 花が問いかける。わたしは思い切り鼻をすすった。


「別の世界の可能性。あの子が研究していたこと……」


 死後の世界なんて知らない。でも、きっと美咲は天国でも地獄でもない場所に行った。


 わたしには確信があった。美咲には次の挑戦があるということ。あると信じれば、それは存在し始めるということ。


「美咲が立ち向かおうと思える世界があるってこと。だから美咲は飛び降りたんだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ