浮気されて人間不信に陥った伯爵令息に嫁がされるようです
数多くの作品から目に留めていただき、ありがとうございます。
「浮気されて人間不信に陥った伯爵令息に嫁がされるようです」
私は先輩のメリッサさんに嘆いた。ちょうど忙しいお昼時が終わって一息つける時間に、私は今日限りで急に辞めなければならなくなった事情を説明した。
「十年も婚約していた相手に裏切られたショックで心を閉ざして引きこもっているから、新たな婚約相手が見つからなくて、ご両親が困り果てているような人だそうです」
私はジュリアンヌ、ドーソン男爵家の長女、赤茶の髪に翡翠の瞳の特に美人ではないがそこそこ可愛いと自負している十七歳。
父が投資に失敗して借金を抱えた。そのせいで私はせっかく入学した王立学園を一年で中退する羽目になってしまった。このままだと爵位を返上して平民になる未来しか見えない。
そこで平民になっても生きていけるように街の定食屋で働きだした。もうお皿を落としたりしないし、ちょっかいをかけて来る男性客も軽くあしらえるようになった。半年になる今では持ち前の明るさで定食屋の看板娘になったのだが……。
父親が勝手に婚約を調えてしまったために辞めなければならなくなった。
「心を閉ざしたお坊ちゃまか、なんか大変そうね」
メリッサさんは二十五歳で二人の子持ち、ご主人は大工をしているが、家計を助けるために、幼い子供を両親に預けてこの定食屋で働いている。
「そうでしょ、でも父は支度金に目が眩んで私に断りもなく承諾しちゃったんですよ」
今さら訳あり物件の伯爵令息の元へ嫁げだなんて酷過ぎる!
「伯爵家なら玉の輿じゃないか」
私の嘆きを小耳にはさんだ常連のリアンダーさんが冷ややかに言った。リアンダーさんは一見身なりの良いインテリ風だけど、お昼休みの時間が終わっても居座っているところを見ると、暇を持て余している貴族様(穀潰し)なのかな? 年の頃は二十歳前後、黒髪黒目で黒ぶち眼鏡の下は整った顔立ちだが、いつも眉間にしわを寄せた険しい表情をしている。
「でも、愛のない結婚なんて嫌だわ」
「貴族の政略結婚なんてそんなもんじゃないのか? それに、もう働かなくても贅沢な暮らしが保証されるんだぞ」
「でも、お金で幸せは買えないわ」
「そう言えばあなた、付き合ってる彼がいたわよね」
メリッサさんが思い出したように手を打ち合わせた。
「そうなのよ、彼と別れるなんて耐えられないわ」
私には恋人がいる。
三カ月前に運命的な出会いをして、初めての恋に落ちた。
ガラの悪い人に絡まれているところを助けてもらったというベタな出会い。
彼は細身だが、武術の心得があるようで、大男を組み伏した。
その姿を見たとたん、もう落ちていた。恋愛小説の中に入り込んだヒロインの気分だった。
「いっそ、駆け落ちでもすれば?」
「それ、いいかも」
「おいっ、唆すなよ、彼にはそんな甲斐性があるのか?」
「それは……」
彼はリーアム、ミュージシャンで普段は広場を拠点にギターで弾き語りをして生活費を稼いでいる。サラサラの長い金髪、前髪が少し伸びすぎていて綺麗な青い目が隠れてしまっているのが残念な十八歳。底抜けに明るく陽気で、いつも私を笑わせてくれる人、彼といると幸せな気分になれる。
彼を愛している。
彼と別れて他の人と結婚するなんて考えられない。
「恋なんて冷めるもんだ、ちゃんと自分の将来を考えて、賢明な選択をするべきだと思うけどな。君は貴族なのだから、お父上が決めたことに逆らえないだろ?」
「それはそうなんですけど……、三日後には顔合わせがあるんですけど、もう決まっているようなもので断れないんです」
大きなため息しか出ない。
私はどうすればいいの?
* * *
「ジュリアンヌ、喜べ! お前に縁談だ」
それは昨日のことだった。仕事が終わってからリーアムと短い時間の逢瀬を楽しんで帰宅すると、父は満面の笑みを浮かべて待ち構えていた。
「えっ?」
縁談という言葉に私は青ざめた。
そんな様子に気付きもせず父はテンション高く、
「伯爵家からだぞ、玉の輿だぞ」
「なにを言っているの? 夢でも見てるんじゃない? 私なんかに縁談が来るはずないじゃない。爵位を返上して平民になるって言っていたでしょ、だから私は働いているのに」
そんな旨い話がこの貧乏男爵家に転がり込んでくるはずない。
「お前ももう苦労しなくていい、伯爵家が支度金を出してくれたから、借金を返す目途もついたし。そうだ、明日は早速ドレスを仕立てに行こう、伯爵家に挨拶に行かなければならないし」
「良かったわね、伯爵夫人になれるのよ」
母は感極まって涙を流している。
「ちょ、ちょっと待ってよ、支度金って、もう受け取ったの?」
「断る理由はないだろ、あちらはすぐにでも行儀見習いとして伯爵家に来てほしいとおっしゃっているんだ、男爵家では礼儀作法や教養が足りないだろうし、伯爵夫人になるための勉強が必要だろう」
「そんなに急ではドレスの誂えは間に合わないわね、既製品で我慢しましょう、あなたはスタイルがいいから合うものがあるでしょう。よかったわ、これでデレックを王立学園に入学させてあげることが出来るわ、伯爵家は今後も援助してくださるらしいし」
たった一日で、そこまで話が進んでいるの?
そんなはずはない、そうか……以前から私に内緒で進めていたのね。
私に恋人がいることは薄々勘付いているのだろう、だから断れないところまで詰めてからの事後報告なのね。
怒りが込み上げる。
この親たちは私の気持ちなど無視して、自分たちの都合で娘を嫁に出すのね。
金に目が眩んで私を売ったんだ。
「それで、相手は? うーんと年の離れた方の後妻? いや、老人介護かしら?」
「なにを言ってるんだ、二十歳の青年だ、一年半前に王立学園を優秀な成績で卒業されたカールザス伯爵令息のリオネル殿だ」
「えっ?」
その名前には聞き覚えがあった。
「その方って、確か卒業パーティーで婚約者の裏切りが発覚して破談になった」
「おお、知ってるのか?」
「学園に通っている時に聞いたことがあるわ、ちょっとした有名人になっちゃってたから」
リオネル様は私より三つ年上の二十歳になる青年だ。私が王立学園する前の年度に卒業したので、実際に会ったことはない。
「私が入学する前の年度の卒業パーティーで婚約破棄を宣言するという事件があったのよ。ジャロルド公爵令息のダニエル様が、淑女の鑑と誉れ高かったウルリック侯爵令嬢のアイリーン様との婚約を破棄するとパーティーの最中、公衆の面前で言い渡したの。そのダニエル様の腕にしがみ付いていた浮気相手がヘイデン伯爵令嬢のレノア様、リオネル・カールザス伯爵令息の婚約者だったのよ」
私が入学した時もまだ醜聞は収まっていなかった。ジャロルド公爵家、ウルリック侯爵家、そしてカールザス伯爵家も名門だから大事件として後世に語り継がれているという訳だ。
「あら、そんな事件があったの、酷い目に遭われたのね」
貧乏で社交界にほとんど顔を出せない両親は貴族の噂にも疎いから知らなかったのだろう。ああ、だからうちに話を持ってきたのね。
「カールザス伯爵令息は文武両道の優等生で、眉目秀麗な美男子だったから人気も高かったらしいの。卒業式で立派に答辞を務めたのに、その後のパーティーで、浮気されていることに気付かなかった、勉強は出来ても知らぬ間に女に捨てられていた間抜けな男として嘲笑の的になってしまったという訳で、それで人間不信に陥ったようだわ。今もほとんど邸から出ないで引きこもっているらしいと聞いているけど」
「そんな事情は聞いていなかったけど、邸からあまり出ない方だとは聞いていた。だから縁談もなかなか纏まらなくて伯爵夫妻はとんと困り果てていらっしゃったんだ。彼が唯一の跡取りだからな」
「それで私みたいな者まで降りてきたのね」
「私みたいなって、自分を卑下するものじゃないわよ、ジュリーは美人だし、学園に通っていたころは成績も良かったでしょ」
と母は言うが、
「中退したんじゃ、通っていた履歴はないわよ」
「事情を知ってるんだったら、お前の明るさで立ち直らせてあげればいいじゃないか、お前なら適任だ」
そうじゃないでしょ、嫁に来てくれる人がいないから、この際貴族なら誰でも良かったんじゃないの。
「とにかく、この話はもう決まったことだ、三日後には挨拶に行くからな」
* * *
そんなことがあった翌日、ドレスを買いに行くという母を振り切って、私は定食屋に来た。最後の出勤、私みたいな者でも急に辞めれば困るだろうし、せめて謝罪はしたかった。
未成年の貴族令嬢である以上、家長には逆らえない。
でも、メリッサさんが言うように駆け落ちしてしまえば……国を出れば逃げ切れるかも知れない。
「リーアム!」
最後の勤務を終えて、私は広場の噴水で待っているリーアムを見つけて駆け寄った。その勢いのまま彼に抱き着く。誰が見ていようが関係ないわ、ここは下町、淑女の作法なんてクソくらえだもの。
「どうしたんだい、アン」
リーアムは私をアンと呼ぶ、家族や友人は愛称のジュリーと呼ぶけど、僕だけの愛称で呼びたいと言った。
「私を連れて逃げて」
「どうしたんだよ、いきなり」
「リーアム」
私たちは人通りの少ないベンチを選んで座り、昨日の出来事、父がいきなり婚約を決めた話をした。
リーアムは私の肩を優しく抱きながら聞いてくれた。
「そうか、貴族ならそう言うこともあるよな」
リアンダーさんと同じことを言う、やはり彼も伯爵家に嫁ぐのが最良の選択だと思っているのね。
「ゴメンなさい、困らせるようなことを言って、そうね、しょうがないわよね、あなたにこんなことを言っても……」
涙が溢れる。
「泣かないで、アン」
「愛しているわ、たとえ他の人に嫁いでも、心はあなただけ、ずっとあなたを愛し続けるわ」
「別れるみたいな言い方だね、連れて逃げてと言ったくせに」
「冷静に考えたら無理よね、あなたに負担はかけられないもの」
「僕はこんな風来坊のような生活しか出来ない。でも逆に自由なんだよ、音楽はどこでもやっていけるし、どこででも生きていける。それでもついて来てくれるかい?」
「えっ?」
「隣国まで逃げれば追って来ないだろう、一緒に逃げよう」
「リーアム!」
私はまた彼の首に両手を回した。勢いに押されてリーアムは後ろに倒れそうになる。
「僕も愛しているよ」
ベンチで殿方を押し倒しそうになっている、こんな姿をカールザス伯爵家の人に見られたら、即破談なんだけどな。
私が駆け落ちしたら両親は困るだろう、支度金はもう返せないだろうから、また借金が増えることになる。弟のことは気の毒だと思う、デレックは学園にも入学できずに働くことになるだろう。でも、私を恨まないでね、悪いのは借金を抱えた父親なんだから。
「今夜、パブでパーティーがあるんだ、僕はそこで客のリクエストに応えて演奏する仕事を貰っているから、少しまとまった金が入る予定だ。それを受け取ったら一緒に逃げよう。明日の朝、ここで待っていて」
「ええ、待ってる。愛しているわ、リーアム」
「僕もだよ、アン」
リーアムはそっと私の唇にキスを落としてくれた。
* * *
しかし、翌朝、約束の場所に彼の姿はなかった。
お昼も過ぎ、陽が傾き、薄暗くなってきた。
何時間待っただろう、彼はまだ来ない。
彼の家へ迎えに行こう、と思ったが、その時に初めて気付いた。彼と知り合って三カ月、頻繁に会っていた割にはリーアムのことをなにも知らない。リーアム・ベイカー、ただそれだけで平民なのか貴族なのか家のことはなに一つ聞いていないのだ。もちろん住んでいる場所も。
私は楽しそうに音楽の話しをする彼が好きだ、音楽で人々の心に愛を語りかけたい、なんてロマンチックなことを話しながら瞳を輝かせるリーアムは素敵だった。彼を愛していたから、ただそれだけでよかった。彼が何者かなんて少しも気にならなかった。
なんてお気楽な性格なのだろうと自分が情けなくなる。駆け落ちしようとしている相手のことをなにも知らないなんて!
「もう、あきらめたら?」
リアンダーさんがいつの間にか私の前に立っていた。
「捨てられたんだよ」
「……捨てられた?」
考えたくなかったことを言い当てられて、冷水を背中に浴びせられたように体が震えた。
「そっかぁ……捨てられたのか、それじゃあ、しょうがないわね」
「えっ? 怒らないのか?」
「リーアムが事故とか事件に巻き込まれていないなら、それでいいわ」
心のどこかで覚悟はしていた。
「だって彼、貴族でしょ、あんなナリをしていても育ちの良さは滲み出ていたし、所作は高位貴族のモノだった、平民同然の私と駆け落ちなんかしないわよ」
リアンダーさんはいつものように眉間にしわを寄せて険しい表情をしたが、
「こうは考えられないか? 君の幸せを思って身を引いた、自分と駆け落ちするより伯爵家へ嫁いだ方が君は幸せになれる、冷静になってそう考え直したんじゃないかな」
口調は心なしか優しかった。
「彼は君を愛した、本当に愛していたんだよ、……だから」
「リアンダーさんって、見かけによらず優しいところもあるんですね」
「見かけによらずは余計だ」
リアンダーさんは大きな手を私の頭に置いた。
こうして私の初恋は呆気なく終わりを迎えた。やっぱり〝初恋は実らないもの〟なのね。
* * *
一カ月後、私はカールザス伯爵家のタウンハウスにいた。
正式な婚約者となり、行儀見習いのため邸で生活することになったのだ。
リーアムが待ち合わせ場所に来なかった翌日、事故や事件がなかったか調べたが、幸い彼が巻き込まれた形跡はなかった。あの日以降、リーアムの姿を見た人はいなかった。
彼はきっと本来自分がいるべき場所に戻ったのね、これで良かったのかも知れない。
……って! よくない!
カールザス伯爵邸に行って一カ月、なのに私はまだリオネル様とまともに会ったことがない。信じられる? 同じ邸にいる婚約者なのに顔を合わせないなんて、いくら不本意な婚約だったとしても、扱いが酷過ぎる!
……もうどうでもいいけど。
私は半分抜け殻になっていた。
私の人生は詰んだ。
リーアムのいない人生なんて、もう生きていてもしょうがない。でも、自ら命を絶つ度胸もなかった。
顔合わせにもリオネル様は執務室から出て来なかった。カールザス伯爵夫妻は申し訳ないと言ったけど、既に支度金を受け取っている私が(父親が受け取ったのだけど)逃げられないことを知っているから形だけの謝罪だった。
金で買われた貧乏男爵家の娘は使用人たちからも低く見られて冷遇される。それは覚悟していたけどね。
社交シーズンが終わり、伯爵夫妻が領地へ帰ってからはより酷くなった。食事は冷めた残り物、定食屋の賄の方がよほどマシだ。教育係の教師は付けてくれたけど、見下しているし本気で教える気はない給料泥棒だった。
「なんであんな子なのよ、男爵令嬢でいいのなら、子爵家の私でも良かったんじゃないの、一年以上邸に仕えているんだから事情もわかっているし」
「よくは知らないけど、リオネル様が選んだと小耳に挟んだわ」
「あの子のことを知っていたの? 学園も入れ違いだったじゃない」
「適当じゃない?」
「適当でいいなら、私でも良かったじゃないの」
なんて、大きな声での雑談が聞こえているわよ。
私付きになった侍女のネリーが、最初からやる気がなかったのは自分が婚約者の座を狙っていたからなのか、それであの嫌がらせ。
部屋の掃除はなおざりだし、湯あみのお湯は冷水だったり熱湯だったり、ドレスはヨレヨレで臭うし、自分で洗濯する羽目になる。まあ、邸から出ない限り関係ないんだけどね。
婚約期間は一年、そして婚姻の運びとなるけど、白い結婚なら二年で離婚できる。それまで三年、私はただ我慢しなければならないのかしら? それまでに我がドーソン家は借金を返済して立ち直れているかしら? どちらにしても私に帰る家はないだろうけど。
* * *
「美味しい~、久しぶりに人間らしい食事が出来たわ」
私はカールザス邸を抜け出して、懐かしの定食屋に来ていた。懐かしって言うほど日が経っている訳じゃない、一カ月強なんだけど、邸に居たら窒息死しそうなので脱出してきた。基本私は放置されているので、誰にも見咎められない。
「なんで? お貴族様の良いもの食べてるんじゃないの?」
幸せそうに食べる私を見てメリッサさんは小首を傾げる。
「リオネル様がどんな食事をしているかは知らないけど、私は使用人以下の扱いだから」
「はあ? 婚約者なのに?」
「金で買われた貧乏男爵令嬢だと邸のみんなが知っているからよ。伯爵家の侍女は私より身分が高い子爵家の次女や三女だし、執事は学歴のある人だし、完全に見下されているのよ」
「でも未来の伯爵夫人でしょ」
「そうね、伯爵夫人になったら全員クビにして入れ替えるけど、それまであの邸に居られるかどうかわからないわ。だって、未だにリオネル様とまともに話しをしたこともないし、結婚する前に婚約破棄されるかも知れないわ。その時はまた雇ってもらえるかしら」
「うん、店長に頼んでおくわ」
「冷遇されていることを婚約者殿は知っているのか?」
いつものようにいるリアンダーさんが眉間に深い皺を寄せた。
「さあ、私に興味ないから」
「自分から歩み寄ってみたか?」
「私から? なぜ私がそんなことをしなければならないんです」
「婚約者になったんだから」
「売られたんです」
不貞腐れる私をリアンダーさんは呆れ顔で見ながら、
「その婚約者殿は、前の婚約者に裏切られて人間不信になってるんだろ、君なら傷付いた心を癒してあげることが出来るんじゃないかな」
「買いかぶりすぎです。……あ、でもそれイイかも!」
私は閃いた。
「歩み寄る口実で付き纏って嫌われたら、婚約破棄が早まってあんな邸からとっとと出られるかも! ありがとうございます、リアンダーさん」
「そういうつもりで言ったんじゃないけど」
* * *
「リオネル様! お茶をお持ちしました」
私は早速実践と、彼の執務室にお茶を持って行った。
止める侍女を振り切って、ノックとほぼ同時にドアを開ける。
「にゅ、入室を許した覚えはないぞ」
「でももう入っちゃったし」
構わずズンズンと奥へ、彼の事務机にトレーを置いた。
いいのよ、嫌われ作戦だから。それにしてもカーテンを閉め切った薄暗い部屋、こんなところに居たら余計に気が滅入ると思うのだけど。
「おい、茶などいらん!」
「まあ、遠慮なさらずに」
私はポットからカップに注いだ。
初めて彼の顔を見た瞬間、私は凍り付いた。
「えっ? リーアム?」
思わず声が漏れる。
サラサラのプラチナブロンドに真夏の空のように青い瞳……ん? あまりにリーアムに似ていた。
「んっ?」
リオネル様が顔を歪めた、ハッキリ聞き取ったわけではなさそうだ。
「あ……」
私ったらどうかしている、彼であるはずはない。金髪と空色の瞳の貴族なんていくらでもいる。でもリーアムはいつも笑顔だった、こんな苦虫を噛み潰したような顔はしない、って、それは私のせいか。
「なんでもありません」
「なんでもないなら、出て行ってくれ」
不機嫌そうなリオネル様、よし!〝追い出され作戦〟決行だわ。
「そうはいきません、私はいったいなんの為にこの邸へ来たんですか? 婚約者としてあなたとの交流を深めるようにとカールザス伯爵夫妻に言われています。女性の方から積極的になるのは憚られるので、この一カ月様子を見ていましたが、あなたは執務室と私室の往復だけ、こうやって正面からお顔を拝するのも初めてです」
真っ向から見つめるとリオネル様はプイッと目を逸らした。これはウザがられたかな。
「私は婚約したからと言って君を愛することはない」
「そんな巷で流行りの小説のようなセリフ、本当に言う人がいるのですね。相手に好意を持っていればショックを受けるでしょうが、私はなんとも思いません。でも支度金を頂いている以上、婚約者らしいことをしなければ追い出されるにしてもぼったくりと言われるのは心外ですからね。せめて、努力したという痕跡は残させていただきます」
「巷ではそんな小説が流行っているのか?」
意外にも反応したが、
「そこですか、気にするところは」
「……一年半ほど巷に出ていないからな」
なんとまあ、男らしくない覇気のない小声だこと、王立学園時代の噂では文武両道の人気者だったと聞いているけど、見る影もないわ。よほど自信を無くしてしまったのね。
「そうでしたね、じゃあ、出ましょうよ。食事に連れて行ってください、この家の食事はあまりに酷過ぎますから、たまにはまともな食事がしたいです」
高級料理を所望しますわよ。
「食事が酷い?」
この反応を見ると、あの仕打ちはリオネル様の指示じゃないのね。リオネル様にはまともな食事を出しているんだろうけど、ここは知らないふりをしておこう。
「リオネル様は満足されているのですか? 私と同じものを食べていてなんとも思わないのなら、味覚が変になっていますよ。平民が行く定食屋の方がよほど美味しいです、料理人の交代をお勧めしますわ」
「味覚が変に……?」
よっしゃ! 食事に難癖付けた上、リオネル様をバカにした。この調子でどんどん文句を言い続ければ、追い出されるだろう。
* * *
翌朝、リオネル様は初めて食堂に顔を出した。
昨日の話に引っかかったのかも知れない、もしかしたら、自分と違うメニューなのかと気付いた?
慌てたのは侍女たち、だって、私の前に置かれているのは、カチカチのパンと、具のないスープだけだったんだもの。口をつける前で良かったわ。
「なんだ、これは?」
リオネル様はテーブルの上を見て顔を歪めた。
「いつもの朝食です」
私は平然と答えた。
ガチャン!!
リオネル様が力任せにテーブルを叩きつけたので、食器が音を立てた。
私は驚いて彼を見上げた。
あれ? なんだか昨日とは全然雰囲気が違うような……。
リオネル様は控えていた侍女たちに鋭い視線を突き刺した。
「これはどういうことだ?」
昨日の覇気がない小声ではなくハッキリ通る声だ。
件のネリーをはじめとする侍女たちが縮み上がる。
「これがカールザス伯爵家次期当主の婚約者に出す朝食なのか?」
怒気を含んだ堂々とした口調になっている。ずいぶん印象が違うけど、これが本来の彼なのかしら?
「ニクソン、料理長を呼べ」
執事のニクソンが慌てて退室した。
「すまない、君がこんな扱いをされているなんて知らなかったんだ」
リオネル様が侍女たちの前で私に謝罪したのは意外だったし驚いた。
「そんな、なにも言わなかった私も悪かったんです」
「私が君をずっと避けていたから言う機会もなかっただろう。私はつまらないことで心を閉ざして人との接触を避けていたから使用人にまで舐められていたのだな。これに関わった者たちは解雇する」
「そんな! あんまりです!」
ネリーがすぐに反応した。
「リオネル様のためを思ってやったことなのです。阿婆擦れは早く追い出さなければならないと考えたのです。その女は外に男がいるんですよ! 邸を抜け出して、下町の食堂で黒髪の男と逢引きしているんです。不貞を働くような女なのですよ!」
モロに不快な顔をしているリオネル様に涙目で訴える。
それはリアンダーさんのことかしら? 私、見張られていたの?
「下町の食堂とはまた情緒がないところで会うのだな」
「違います、その人はただの知り合いです」
私は慌てて否定した。
「わかっている、私は侍女ごときの話を鵜呑みにはしない」
「侍女ごとき……」
ネリーは信じられないと言った表情、一年以上勤めている子爵令嬢の自分を信じてくれると思っていたのだろう。
そこへニクソンが料理長を伴って戻ってきた。
リオネル様は冷ややかな視線を流しながら。
「こんな食事しか出せない料理人は我が邸に必要ない、すぐに出て行け」
「そんな! ネリーさんに頼まれたんです。ネリーさんはリオネル様のご指示だと言っていました」
リオネル様は聞く耳を持たずに、
「この件に関係した者は全員解雇だ。紹介状は書かない、嫌がらせをするような者は他の家に薦められないからな。そして、見て見ぬふりをしていた者は減俸だ。文句があるのなら辞めてもらって結構だ」
「そんな! あんまりです!」
「お許しください!」
「これからはちゃんとします!」
身の覚えのある者たちが跪いてリオネル様に縋ったが、護衛騎士に視線を流して、
「追い出してくれ」
冷たく切り捨てた。
ネリーたちは護衛騎士に引きずられて退場した。
それを見送りながら執事のニクソンが目を潤また。
「ご立派でしたよ、リオネル様。……私も減俸でしょうが」
「三カ月だ」
「いい訳でしかありませんが、彼女の素行は以前から問題になっていたのです。彼女のせいで他の者が辞めたり、雰囲気も悪かったですからね。しかし奥様のご友人の子爵家のお嬢様ですから、下手に注意も出来ずに困っていたのです。ですから助かりました」
「あ、ああ、そうか」
リオネル様は一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。
目をパチクリさせてから、目頭を押さえた。
「どうかなさいました?」
「い、いや」
あれ? 急に声が小さくなったわ。
「少し疲れたから、部屋に戻る」
リオネル様はそのまま部屋に戻って行った。
「時々、昔のリオネル様に戻られたかと思えば、また急に覇気が無くなるのです。まだ精神的に不安定なようで……」
ニクソンは残念そうにリオネル様を見送った。
「そうなのですか」
「卒業パーティーでの出来事はリオネル様にとって相当なご負担だったのです。酷い話です、浮気を隠して、パーティー用のドレスと宝石もちゃっかりリオネル様から受け取っておいて、他の男性に寄り添っていたのですから」
「私も噂には聞いていましたが」
「早く立ち直って頂きたいものです。旦那様も奥様も心配しておられますし」
「その割には、さっさと領地へ帰られたじゃないですか」
「あなたに期待されているんですよ」
「私?」
「この婚約はリオネル様のご希望ですから」
「そうなの? でも、私、面識はなかったんですけど……」
「詳しいことは存じませんが、どこかでお会いしているのではありませんか?」
うーん、覚えは全くない。
* * *
翌日から、リオネル様は食堂に姿を現すようになった。
三食とも私と向かい合って食事を摂る。
そうそう、料理長はあの後、ネリーに騙されていたと床に額を擦り付けて許しを乞うた末、半年の減俸で解雇を免れた。
料理の腕は悪くなかったようだ。翌日からの料理はそこそこ美味しかった。でも私にはあの定食屋の賄が一番口に合っている。
しかし、リオネル様と食事を共にするようになり、邸を抜け出して定食屋に行けなくなった、もう一週間になる。
ぎこちないがリオネル様との距離が縮まる。〝嫌われて追い出される作戦〟は何処へやら、逆に好意を持たれているような雰囲気さえある。
「私の事情は知っているのだろ?」
リオネル様は伏し目がちで視線を合わせてくれないが、話しはしてくれるようになった。
「ええ、私も王立学園に通っていましたから、噂は聞いています」
「もう一年半になる、そろそろ忘れなければいけないと思ってはいるんだが、彼女とは八歳の時に婚約して十年一緒にいたんだ。いいや、一緒にいたと思っていたのは私だけだったようだ。入学二年目からジャロルド公爵令息と逢瀬を重ねていたらしい。気付かなかった私はいい笑いものになった」
「信じてらしたんですね」
「疑う理由がなかった。定期的なお茶会をしていたし、贈り物もお互いに欠かさなかった、ごく普通の婚約者同士の交際を重ねていると思っていたのにすっかり騙されていたよ。ただ、今から思うと恋愛感情はなかったんだな、あの時、ジャロルド公爵令息を見つめる彼女の目は、私には向けたことのない熱がこもっていた」
「元婚約者さんを愛していたのではなかったのですか?」
「愛とはなにか、わからないんだ、婚約は親同士が調えたもので、結婚は家同士の結びつきだから、そこに愛が必要だとも思っていなかった」
「それは元婚約者さんに少し同情しますね、たとえ政略結婚でも、全く愛がないのは空しいですから」
「そうなのか?」
「リオネル様は人を好きになったことがないのですね」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、リオネル様も素敵な恋人を見つけて、元婚約者さんよりも幸せになって見返してやればいいんです」
リオネル様は意外そうな目をチラッと向ける。そう言う発想はなかったのだろうか?
「……私が恋人を?」
「だからですね、ちゃんと愛し合えるような婚約者を捜して」
「私の婚約者は君だ」
「ですから、使用人に舐められる貧乏男爵家の娘じゃなくて、ちゃんとした家のご令嬢を」
「私は君を選んだ」
「それ、前から聞きたいと思っていたんです、なぜ私を? どこかでお会いしたことがありましたか?」
「え……」
リオネル様の表情が険しくなった。
「なぜ、君を……選んだのだろう」
視線が宙にさ迷う。
「思い出せないくらい適当に選んだんですか? 借金を抱えていることも知らなかったとか」
「いや、それは父が調べたよ、本当に君でいいのかと念を押されたし。でも、君で良かったんだよ、私を部屋から出してくれた」
はにかんだ笑みを浮かべるリオネル様は少し可愛い。
やっぱり似ている。
柔らかな表情になると益々リーアムに似ているような気がするのは、私がまだ彼のことを考えているからなのかしら?
でも、リオネル様と一緒にいる空間も心地よいと思い始めている。リーアムを忘れたわけじゃないけど、私って立ち直り早いのかも。
その時、にわかに廊下の方が騒がしくなった。
「困ります! お約束も無しに来られても」
「いいじゃない、私とリオネルの仲よ、この邸もよく来てたのよ、あなた、新人? 私を知らないの?」
玄関の方から聞こえる大きな声に私が小首を傾げながらリオネル様を見ると、彼の表情は凍り付いていた。
ニクソンが申し訳なさそうに入室して、
「ヘイデン伯爵令嬢がお見えになっているのですが」
「リオネルぅ~!」
続いてレノア様が許可もなく入って来た。ピンクブロンドに榛色の瞳の庇護欲をそそる可愛い女性、私より三歳年上のはずだが、とても幼く見えるのはそう演出しているからだろう。
「会いたかったわ」
ニクソンが止める間もなく入室したレノア様は、一目散にリオネル様の隣に座って顔を近づけた。
「私、目が覚めたのよ、やはり本当に愛していたのはあなただとわかったの」
大きな瞳を涙で潤ませながら見つめる。
「私は真面目過ぎて男性としての魅力がないのだろ? 私みたいに堅苦しい人間と共に過ごすのは窮屈だと言ったじゃないか」
リオネル様は抑揚のない声で返す。
「間違っていたのよ、ようやくそれに気付いたの、だからやり直しましょう、あなたも私を愛しているでしょ」
リオネル様の手を握ってしな垂れかかるレノア様を見て、私は唖然とした。あんな酷いことをしておいて、どの面下げてそんなことが出来るのか神経を疑う。
「なにを今更!」
リオネル様は立ち上がり、レノア様を押し退けた。それまでの柔らかな表情が一変、眉間に深い皺を寄せて鬼の形相でレノア様を見下ろした。
えっ? この顔って……。
「私が知らないとでも思っているのか! ダニエル殿が廃嫡されて公爵夫人になれなくなったから彼を見捨てたんだろ!」
激昂した声は大きくなる。
「それは……」
レノア様は怒鳴られると思っていなかったのだろう、驚いた様子で先ほどまでの余裕が消えた。
あんな事件を起こす程の大恋愛の末、お二人はとっくに結ばれているのだと思っていたが、まだ結婚していなかったのかしら?
「そもそもダニエル殿には公爵家を背負っていくだけの才覚はなかった。だから優秀なウルリック侯爵令嬢が婚約者に選ばれたんだ。それなのに君みたいな女の誘惑に負け、ダニエル殿は公爵の意向を無視して勝手に婚約破棄してしまった。君にウルリック侯爵令嬢の代わりは無理だったんだろ? 婚約期間中に使いものにならない、二人では公爵家を背負っていけないと見限られて、ダニエル殿は廃嫡されたんだろ」
「知っているの」
レノア様の顔がみるみる青ざめた。公爵家も家の恥を隠しているはずだ、そこまで知られているとは思わなかったのだろう。
「引きこもっていても、情報は入って来るさ」
気になって調べさせたのね。
「まさか、ここへ来るとは思わなかったよ、ダニエル殿はどうされたんだ?」
「彼は公爵領の片隅に家と狭い土地を与えられてそこで暮らしているわ」
「なぜ彼のところへ行かないんだ? 真実の愛なのだろ?」
「いくら愛があっても私に田舎暮らしは出来ないわ、リオネルならわかるでしょ」
猫なで声で体をくねらせる。
いやいや、愛があればどこででも暮らしていけるものじゃないの? 一文無しで放り出されたんじゃないんだから、ジャロルド公爵はお優しいわよ。
「実家にも戻れないのよ、助けてくれるわよね」
「なぜ?」
「だって、十年も婚約していたのよ、見捨てないわよね」
「先に見捨てたのは君だ」
「あの時はどうかしていたのよ、騙されたのよ、彼は自分が次期公爵だと言っていたわ、まさかアイリーン様に助けてもらわなければなにも出来ない無能だなんて知らなかったのよ」
「私は知っていたよ。婚約者として学生時代から既に公約家の執務に携わっていたことも同期生ならそれとなくわかっていたはずだ。私は彼女とは常に首席の座を争っていたし、図書館でもよく顔を合わせていたから話しは聞いていた。だからあの時、ダニエル様が婚約破棄を宣言された時、正気かと驚いたよ、もっと驚いたのは、君が浮気相手だったことだけどね」
リオネル様は眉間に深い皺を刻んだまま、冷ややかに話をつづけた。この話し方、声まで似ているような気がする。
「ウルリック侯爵令嬢は知っていたんだろうね、思い起こせば私になにか言いたげにしていたから、きっと君の浮気のことを教えようとしていたのだろう。結局最後まで知らなかった私はいい笑いものになったよ」
「二年近くも前のことじゃない、許してちょうだいよ」
「私には婚約者がいるんだ、君の居場所はここにはない」
「聞いているわよ、貧乏男爵家の令嬢なんでしょ、お金目当てで婚約したらしいじゃないない、そんな子より私の方が伯爵夫人に相応しいわ」
新たな婚約者がいると承知の上で乗りこんで来たのか、相当な自信家ね。あんな酷いことをしたのに、リオネル様がまだ自分に未練があると思っているのね。
「不貞を働くような人間は何度でも繰り返す、信用できない」
「信じてちょうだい、心を入れ替えてあなたに尽くすわ」
「人のお古なんていらない!」
その言葉にさすがのレノア様も固まった。
「酷い……」
「事実だろ」
確かに事実だけど、そこまで言う?
まるで別人のようだわ、リオネル様じゃないみたいで少し怖い。
レノア様は滝のように涙を流している、鼻水も出ているから嘘泣きではないだろう。自業自得とは言え少し可哀そうな気がしてきた。
「帰ってくれ、二度と来るな」
「リオネルぅぅ」
涙ながらに縋りつくレノア様をリオネル様は無視して、
「摘み出してくれ」
護衛騎士に命令した。
「お願いよぉ、私を見捨てないでぇ!!」
それでもなお縋ろうとするレノア様を騎士が二人掛かりで拘束して引きずり出した。リオネル様は冷ややかにそれを見送った。
* * *
「驚かせたかな」
あの後、リオネル様は私を私室に呼んだ。
彼の部屋に入るのは初めてだった。婚約者だから二人きりになってもおかしくなないのだが緊張して、フカフカのソファーも座り心地が悪い。
「ええ、少し。リオネル様があそこまでキッパリ拒絶されるとは思いませんでしたから」
「既に婚約者がいると知っていて、君の存在を無視して押しかけたんだぞ。自分のことしか考えていないんだ、毅然とした態度を示さなければあの手の女は引き下がらない、彼女の実家の方には抗議文を送るつもりだ」
そうか、そうよね、彼女は私を追い出すつもりだったのよね。他人のことはどうでもいいのね。
「一年半前は黙って婚約破棄の書類にサインしてレノアになにも言わなかった。今更なにを言っても変わらいなと思ったからだ。でも、本当は責めたかった。なぜ裏切ったのか、誠実に接してきたのに、婚約を解消したいのなら話し合いに応じたのに、なぜあんなやり方で辱めたのかと罵りかかったのに、その怒りを溜め込んだままにしてしまった」
リオネル様は自虐するように笑った。きっとその時に怒りをぶつけられなかったから自分の殻に閉じこもってしまったのね。
「リオネルは外面が良すぎたんだ。自分の感情を露にすることは貴族として恥じたと思っていたんだ。子供の頃から由緒正しき伯爵令息として厳しく躾けられてきたし、王立学園時代は皆が期待する優等生のイメージを壊さないように装っていた。本当はもっと自由に感情を出したかったのに出来なかった。繊細で弱いリオネルの精神はギリギリだったんだよ、だからあの婚約破棄騒動によって心が壊れてしまったんだ。その結果、違う人格が現れた」
えっ? 違う人格って? どう言う意味?
〝リオネルは〟って、まるで他人事のように……。
リオネル様はクローゼットから黒髪の鬘を取り出した。なぜ、鬘なんか? と思っていると、彼はそれを被り、黒縁の眼鏡をかけた。そして眉間に深い皺を刻みながらこちらを見た。
「リアンダーさん?!」
その姿はリアンダーさんに違いない。私は激しく混乱し、動揺した。でも、リアンダーさんは黒目だったはず。
「瞳の色を変える目薬もあるんだ」
「どういうことなんです、リアンダーさんがリオネル様だったなんて……」
目の前の光景が信じられずに私は思わず立ち上がった。リアンダーさんとリオネル様が同一人物って、どういうこと?
「リオネルの人格は三つに分かれてしまった。リオネル、リアンダー、そしてリーアム」
「え……」
益々わからない、そんなことが……。確かに初めて会った時、リーアムに少し似ているとは思ったけど、声のトーンや表情は全然違ったし、年齢も……。黒髪黒目のリアンダーさんに似ているなんて思いもしなかったけど、鬘と眼鏡だけでリアンダーさんになってしまうなんて!
ちょっと待って、人格が分かれたって。
唐突な告白に私はこんがらがって脳が爆発しそうになっている。
「リーアムは楽しいこと、今まで我慢していた本当にやりたいことをするために生まれた。リオネルは幼い頃、音楽家になりたかったんだ。でも伯爵家の一人息子には許されることじゃないだろ、それに跡取りとして厳しい教育を受けてきたリオネルは優しさや愛情に飢えていたんだ。街に出て好きな音楽をして、君と出会い恋をした。愛される喜びを知ったから満足して消えてしまったんだよ」
「そんな……もしあなたの話が本当だとしたら、あの時、私に声をかけたのは、待っても無駄だとわかっていたからなのね」
「そうだ、リーアムがリオネルに吸収されたことはすぐにわかったからね」
「吸収された?」
「いや、言い方が悪かった、元の場所、リオネルの中に戻ったんだ。その証拠に、君が〝嫌われて追い出される作戦〟を決行した時、リオネルは君を部屋から追い出さず、君の言葉に耳を傾けただろ? そして君の待遇に疑問を持って翌日、食堂へ現れた。あれは自覚がなくても心の奥にリーアムが居たからこその行動だった。あの後、ネリーたちに解雇を言い渡したのは俺だけどね」
確かにあの時、急に雰囲気が変わった気がした。
「気弱なリオネルにはそこまでは出来なかっただろうから、俺が代わりに登場したんだ」
「あなたは自由自在なの?」
「そう、この状況を把握しているのは俺だけ、三人分の記憶を持っているのは俺だけなんだ。消えたリーアムやリオネルに他の人格が出ている時の記憶はない」
「なぜあなただけなの?」
「ハッキリした理由はわからないが、恐らく三つの人格の中で一番強いのが俺なんだろう。俺は怒りから生まれた、さっきも言ったようにリオネルは自分を裏切ったレノアに怒りをぶつけたかったのに言えなかった。だから自分の気持ちをハッキリ言える人格が必要だったんだ。だからさっきはキッパリ拒絶して追い出すことが出来たんだ。スカッとしたから俺も消えるだろう。だからその前に、君には説明しておこうと思って」
説明されても理解できないし、どう受け止めていいのかわからないんだけど……。
「俺は元のリオネルの中に戻る、いいや違うな、今まで我慢してきた感情を素直に出せるリオネルになるんだ。でもリオネルはまだ孤独だ、あの両親は当てにならないからな、だから俺が君を婚約者に選んだんだ」
「リアンダーさんが? じゃあリオネル様の意思じゃないのね」
「いいや、俺はリオネルでもあるからな」
「違うわ、別の人よ、だってリオネル様は覚えていないのだから」
「でも、深層意識の中にはある、その中にはリーアムもいるんだよ」
リアンダーさんはクローゼットからギターを取り出した。それは紛れもないリーアムの物。でも、変じゃない、自分の部屋に異物、鬘や眼鏡、ギターまであることに、リオネル様は気付かなかったの? 気付いていたら変だと思わなかったの?
「リオネルは自分の部屋にこんなものがあることを知らないの? 凄く不自然だと思うんだけど」
「他の人格が出ている時は記憶が飛んでいるから、空白の時間があることに戸惑っている、自分はどこか変だと不安に思っているからこそ、誰にも言えないんだよ」
「彼が部屋に籠りがちなのはそういう理由からなの?」
「そうだな、でもそれも今日で終わる。俺がリオネルの中に戻れば、もう二度と出てくることはないだろうし空白の時間は無くなる」
「二度と出て来ないって、あなたもリーアムみたいに消えてしまうの?」
「ああ、役目は終えた、この人格もリオネルに返さなければならないんだ」
「そんな……私けっこうリアンダーさんのこと好きだったのよ、もちろん友達としてね」
「ありがとう、じゃあ、そのぶんリオネルを好きになってよ」
「それは無理よ、リオネル様は別人で……第一、お金見当てで婚約した私なんか、彼の方が受け入れないでしょ」
「いいや、俺の記憶はリオネルに返すから大丈夫だ」
「えっ?」
「お別れだよ、さよなら」
「えっ? リアンダーさん?」
「誰? それ」
目をパチクリして私を見下ろしているのはリオネル様だった。リアンダーさんは呆気なく消えてしまったの?
「あ、あの……黒髪の鬘を被った姿が、知り合いに似ていたのもで」
リオネル様はハッとして鬘をもぎ取った。
「私はなんでこんなものを」
「さあ」
多重人格だったことを教えてあげるべきなのかわからない。リアンダーさん! その辺をちゃんと説明してから消えてほしかったわ。今後、どうやってリオネル様に向き合っていけばいいのかわからないじゃない。
「君に変なこと言ったりしたか?」
「い、いえ」
リオネル様はこめかみを押さえながら崩れ落ちるようにソファーに腰を落とした。
「俺は……レノアが来て、よりを戻したいなんてバカなことを言うから追い返して……それから」
リアンダーさんだった時の記憶が戻っているんだ。でも、別の人格だったとは思っていないのでしょうね。
「かなり動揺していたからよく覚えていないのだけど」
私は彼の横に座った。
「大丈夫です、毅然とした態度で立派でしたよ」
「そ、そうか?」
「あの卒業パーティーの日から私は変なのだ、時々、記憶が飛んでいたりして……。それで君はなぜここに居るんだ?」
「呼ばれたんですけど」
「あ、ああ、そうか」
そこはちゃんと覚えておいてよ、私が無理やり押し入ったと思われたら嫌じゃない。
「じゃあ、戻りますね」
リオネル様は今混乱しているのだろう、一人にしてあげたほうがいいと思い、私が部屋を出ようとすると、
「今日はこの後、なにか予定はあるのか?」
「別にありませんけど」
「では、買い物に行こう、婚約者にまだドレスの一つも贈っていないからな」
そう言って私に向けたリオネル様の笑顔は引きこもりのリオネル様とは違う、リーアムでもリアンダーさんでもない新しい笑顔だった。
もうリアンダーさんの記憶が馴染んだの?
「どうしたんだ? 私と出かけるのが嫌なのか?」
「いえ、リオネル様、具合が悪そうでしたから無理されない方がいいんじゃないかと思いまして」
「いや、今、外に出たい気分なんだ、なんだかさっきまでの頭の中のモヤモヤが晴れたようで気分が良くなった」
確かに晴れ晴れとした顔だった。
分かれていた人格が一つになり、引き籠りのリオネル様じゃなくなったのなら、私はもう必要ないんじゃないかしら。元のリオネル様に戻ったのなら優良物件に違いない、嫁入りしたいと言う令嬢は列を成すはずだ。きっとカールザス伯爵夫妻もそれを知れば、私なんかより相応しい令嬢と縁を結び直すことを望むはずだわ。
ドレスを買ってもらっても彼の婚約者として横に立つことはないんじゃないから? 私は潔く去ったほうが……。
「支度をしておいで、アン」
「えっ?」
今、アンと言った?
目を丸くした私を見てリオネル様は少し恥ずかしそうに、
「あ、すまない、いきなり愛称で呼ぶのは馴れ馴れしかったな」
「なぜアンと? 家族や友人はジュリーと呼びます」
「なぜだろう、その方がしっくりきたから、アン、私だけの特別な呼び方にしよう」
目頭が熱くなった。
私、もうしばらくここに居てもいいかしら。
おしまい
最後まで読んでいただきありがとうございました。多重人格の設定に関しては突っ込みどころもございましょうが、温かい目で御容赦ください。
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