第十五話:漂流の果て、扶桑の砂を踏む
アレスガイアの東の果てから、手漕ぎボート一隻で太平洋級の大海原へ乗り出したボルト伯爵家の精鋭たち。その一ヶ月以上にわたる航海は、まさに正気を疑うほどの地獄であった。
強烈な日光は彼らの肌を焼き、幾度となく襲い来る嵐は、小さな舟を木の葉のように弄んだ。食料は尽きかけ、真水は黄金よりも貴重なものとなった。
・・海の悪魔と、眼鏡の守護神・・
航海が始まって三週間が過ぎた頃、最大の危機が訪れた。 連日の漕ぎ仕事で、騎士団長ゴルドフを筆頭とする八名の騎士たちの自慢の筋肉は、もはや悲鳴を上げることすら忘れた「ただの肉の塊」と化していた。
そこへ現れたのが、巨大な背びれを持つ海の悪魔――**「ギガ・ジョーズ」**の群れである。
「……もはや、これまでか。お嬢様、不甲斐ない団長をお許しくだされ……」
ゴルドフが重い腕で剣を抜こうとしたその時、背後から冷徹な声が響いた。
「見苦しいですわよ、騎士団長。お嬢様の捜索を、このような魚の餌で終わらせるつもりですか?」
メイド長・マルタであった。彼女は眼鏡を指先で押し上げると、魔導書も持たずに両手を海面へかざす。
「上級魔導:『雷帝の裁き(ジャッジメント・ボルト)』!!」
虚空から降り注いだ極大の雷撃が、ボートを囲んでいたサメの群れを一瞬で感電死させ、海面を真っ白な泡に変えた。 「さあ、焼き魚ならいくらでもありますわ。食べて漕ぎなさい」 マルタの言葉に、騎士たちは恐怖と敬意を抱きながら、命を繋いだのである。
・・扶桑上陸:沈みゆく勇者たち・・
そしてついに、一行を乗せたボートは扶桑の西、活気に溢れる港町へと流れ着いた。
「……見ろ。陸だ……」
ゴルドフの掠れた声に、一同が涙を流す。しかし、異形の鉄鎧を着た大男たちと、ボロボロのメイド服を着た女たちが、手漕ぎボートで現れるという異常事態を、扶桑の防衛陣が見逃すはずもなかった。
「曲者だ! 囲めーーーッ!!」
抜刀した扶桑の侍たち、そして十手を構えた奉行所の岡っ引きたちが、瞬く間に桟橋を取り囲む。
「おぬしら、どこの国の者だ! 目的を吐けッ!!」
岡っ引きの鋭い声が飛ぶ。しかし、一行にそれに応える余力など、一欠片も残っていなかった。 上陸した瞬間に張り詰めていた「お嬢様を追う」という極限の緊張の糸が、プツリと切れたのだ。
「……お……じょう……さま……」
ゴルドフが崩れ落ち、続いてメイドのルラン、他の騎士たちも、糸の切れた人形のように石畳の上に倒れ伏した。最後の一人、マルタもまた、眼鏡がズレるのも構わず、静かに意識を手放した。
・・奉行所の当惑・・
「お、おい! 死んでいるのか!?」 「いや、息はある。……ただ、凄まじい疲労だ。これほどの手練れたちが、一体どこから、何を思ってこの小舟で……?」
岡っ引きたちは、倒れたゴルドフの懐から、ボルト伯爵家の紋章が入った重厚な「金子の袋」を見つけた。 「……ただの不審者ではないようだな。とにかく、西奉行所へ運べ! 医者も呼べッ!」
ボルト伯爵家の騎士団が、ついに扶桑の地へ上陸した。 彼らが目覚めた時、そこにバルトの姿はあるのか…
・・「嫉妬の妻と、鋼の忠義」・・
西奉行所の医務室。畳の匂いと薬草の香りが漂う中、騎士団長ゴルドフが重い瞼を開いた。
「……ここ、は……。極楽、ではなさそうですな……」
隣の布団ではメイド長のマルタが既に上体を起こし、ズレた眼鏡を厳かに直していた。そこへ、衣擦れの音と共に一人の女性が入ってくる。玄の妻、お菊である。
彼女は、夫である玄から「異国の遭難者が捕まった。お主、様子を見てきてくれぬか」と頼まれ、二つ返事で引き受けた。もちろん、その真意は別にある。
(……この者たちが、あの忌々しい異国娘の連れであれば好都合。一刻も早く、あの娘を連れてこの国から立ち去ってもらわねば……!)
・・お菊の尋問と、騎士の直感・・
お菊は、騎士たちの巨躯を目の当たりにして一瞬怯んだが、嫉妬の炎が恐怖を打ち消した。彼女はしとやかに、しかし鋭い眼光でゴルドフを見据える。
「……目覚められましたか、異国の武士様。私はこの地の法術師、玄の妻、お菊と申します。……お尋ねしますが、貴方様方は、もしや『バルト』という名の娘を探しておられるのでは?」
「バルト」の名を聞いた瞬間、ゴルドフの瞳に光が戻った。
「おお! ご存知なのですか! 我らが主、バルト・フォン・ボルトお嬢様の所在をッ!」
「……やはり。あの方なら、今、私の屋敷に居候しておりますわ」
お菊は、できるだけ「迷惑しています」というニュアンスを込めて告げた。しかし、忠義の塊であるゴルドフには、その言葉は「慈悲深い方々がお嬢様を保護してくださっている」という福音にしか聞こえなかった。
・・噛み合わない対話:皿屋敷vs鉄塊・・
「なんという慈悲! 感謝いたします、お菊殿! 我らボルト家騎士団、この御恩は一生……いや、三生忘れませんぞ!」
「……いえ、感謝などは。それよりも、あの方、毎夜のように私の夫に『ドスコイ様への間接的愛』などと申して迫っておりますの。正直、不気味で仕方ありませんわ。一刻も早く連れ帰っていただけるのが、私への一番の恩返しですわよ」
お菊は、さりげなく「皿数え」の怪談じみたオーラを放ち、早くこの不法入国者たちを回収するよう促す。だが、メイド長のマルタは冷静だった。
「お言葉ですが、お菊様。お嬢様は一度決めたら、目的(ドスコイ様への間接的愛)を達成するまで動きません。……おそらく、ただ連れ戻そうとしても、全力で抵抗されるでしょう」
「……なんですって? では、あの娘はまだ我が家に居座り続けるというのですか!?」
お菊の背後に、嫉妬の怨念が渦巻く。その寒気に、屈強な騎士団の面々も思わずガタガタと震え出した。
「お……お菊殿、お気を静めてくだされ! 我らが、我らが責任を持ってお嬢様を説得いたします!」
・・運命の合流へ・・
こうして、お菊の手引き(という名の追い出し作戦)により、騎士団一行は体力が回復し次第、玄の屋敷へと向かうことになった。
一方、その頃のバルトは、玄の屋敷の庭で「ドスコイ様が踏んだかもしれない四股の跡」を血眼になって探しており、再会が間近に迫っていることなど露ほども知らなかった。
「……あら? なんだか、ゴルドフたちの暑苦しい『鉄錆と汗の匂い』が近づいてきている気がしますわ。……まあいいわ。今はドスコイ様の残り香の方が優先ですもの!」
扶桑の地に、アレスガイアの暴走令嬢と、ボロボロの忠臣たち、そして嫉妬の妻が揃い踏みする。 カオス極まる「バルト奪還作戦」の火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。




