第十話:昏き帝国の進撃と、冷酷なる決断
王都アレスガイアが勇者誕生の狂騒に沸いている頃。 北方に位置する軍事大国、ガルドリア帝国の帝都には、どす黒い魔素が霧のように立ち込めていた。
「——報告せよ。南征の進捗はどうなっている」
謁見の間。玉座に深く腰掛けた皇帝ガイゼルの声が響く。かつて名君と謳われたその瞳には、今や邪神の恩寵たる「濁った紅」が宿っていた。
「はっ! 現在、我が帝国軍十万に加え、邪神様より賜りし『変異種』の魔物軍団を投入。アレスガイア王国北方の防衛線を蹂躙中であります!」
報告する将校の顔も、どこか人間離れした青白さに染まっている。 対する王国側は、リリアーヌの父ラグナが率いる公爵軍を中核に、辺境伯軍、そして国王直属の第五・第六・第十一騎士団を合わせた総勢七万で応戦。 数に勝る帝国、質で凌ぐ王国。戦況は帝国優勢ながらも、ラグナの超人的な指揮によって辛うじて膠着状態を保っていた。
「公爵軍の粘り、想定以上か……。ククク、よい。その絶望が深いほど、魂の収穫は実るというもの」
ガイゼルは、もはや人間としての感情を失ったような、歪な笑みを浮かべた。 だが、将校が次の報告を口にした瞬間、その笑みが凍りつく。
「……申し上げます。王都にて『勇者誕生』の神託。対象はヴァランタン公爵家嫡男、ルシウス」
「——何だと?」
ガイゼルの周囲の空気が、ピキピキと凍りついた。 勇者。それは、いつの時代も魔王の歩みを阻む最大の障壁。 物語の勇者は、苦難を乗り越え、仲間を募り、やがて魔王を討つ力を得る。それがこの世界の理であり、不変の法則だ。
「……ならば、話は早い。芽のうちに摘み取れ」
皇帝の決断は、冷酷かつ迅速だった。
「勇者の素質がいくら高くとも、今はまだ産声を上げたばかりの赤子に過ぎん。育つのを待ってやる義理はない」
ガイゼルは傍らに控える、影のような存在——漆黒の法衣を纏った男へ視線を向けた。
「行け。王国騎士団が前線に釘付けの今こそ好機。王都に潜伏する『影』を動かせ。何としても、あの赤ん坊の首を撥ねろ」
「御意……」
男は一瞬で煙のように消え去った。 帝国軍十万の軍勢が押し寄せる陰で、最も卑劣で致命的な刃が、産まれたばかりのルシウス、そしてリリアーヌたちが滞在する王都へと放たれたのだ。
一方その頃、王都の大聖堂。 教皇の「筋肉の祝福」からルシウスを死守したリリアーヌは、背筋に走った冷たい悪寒に、反射的に黄金の魔力を滾らせていた。
「……ん。……来る。……嫌な、気配」
ミリィもまた、愛用の魔導杖を強く握りしめる。 王都の喧騒に紛れ、勇者を狙う「死」の足音が刻一刻と近づいていた。




