第26章 看板のない宿と、新しい名前
第26章 看板のない宿と、新しい名前
翌日の朝。
すすむは、食材の確認を終えて外の空気を吸おうと、何気なく宿の外へ出た。
ひんやりとした風が頬を撫でる。
そのまま建物を眺めていると、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(……なんだろう、この感じ。)
視線を建物の正面に移した瞬間、すすむは思わず声を上げた。
「看板が無い!」
昨日まで気づかなかったのが不思議なくらい、宿の入口には何も掲げられていない。
ただの石造りの建物がぽつんと立っているだけだ。
すすむは急いで中に戻り、受付にいたリリアに声をかけた。
「リリアさん。宿の看板、無いんですね。」
リリアはきょとんとした顔で首を傾げた。
「ええ。王都のような大きな宿じゃないし……田舎の村の小さな宿だから、看板なんて無いのよ。」
その言葉に、すすむは眉をひそめた。
「でも、それだと……この村に宿があることに気づかず、通り過ぎてしまう旅人もいるんじゃないですか。
お客さんが少ない理由の一つかもしれません。」
リリアは「そういうものなのかしら……」と少し戸惑いながらも、すすむの言葉に耳を傾けてくれていた。
彼女の中にも、どこか引っかかるものがあったのだろう。
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すすむは次にレミーを呼び、同じ話をしてみた。
「レミー。宿に看板が無いって、気にならない?」
レミーは即座に頷いた。
「そうですよね。僕も前から思ってたんです。
旅人が気づかないまま通り過ぎてるんじゃないかって。」
その言葉に、すすむは確信を得た。
(やっぱり、看板は必要だ。)
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看板を作ると決めたすすむは、ふと大事なことに気づいた。
「レミー。この宿の正式な名前って、何なんだ?」
レミーは当然のように答えた。
「グレン村の宿だよ。」
「……そのままなんだね。」
念のためリリアとハンスにも聞いてみたが、返ってきた答えは同じだった。
「グレン村の宿。」
名前というより、説明文に近い。
すすむは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「せっかくだし、もっと親しみやすい名前にしませんか。
旅人が覚えやすくて、呼びやすい名前がいいと思うんです。」
リリアとレミーは顔を見合わせ、少し照れくさそうに笑った。
「そんなこと考えたことなかったわ。」
「でも、いいかもしれない。」
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三人でテーブルを囲み、いくつか候補を出し合った。
「グレン・ロッジ。」
「森の宿グレン。」
「グレン・ハウス。」
「旅籠グレン。」
どれも悪くはないが、どこかしっくりこない。
すすむは、ふとホテル時代の感覚を思い出した。
「“イン”って言葉はどうですか。旅人向けの宿って意味があります。
“グレンイン”とか。」
その瞬間、リリアの表情がぱっと明るくなった。
「グレンイン……いい響きね。」
「うん。覚えやすいし、かっこいい。」とレミーも賛成する。
最終的に、三人の意見は一致した。
「じゃあ、この宿の名前は……“グレンイン”にしましょう。」
リリアは胸に手を当て、しみじみと呟いた。
「なんだか……新しい宿になったみたいで、嬉しいわ。」
すすむは微笑みながら頷いた。
「これから、この“グレンイン”をもっと良い宿にしていきましょう。」
こうして、看板の無かった宿は、初めて“名前”を持つことになった。
その名は――グレンイン。
小さな村の宿に、新しい風が吹き始めていた。




