第1章 雪の夜、そして草原へ
白谷すすむは、ホテルの裏口に立ち、静かに深呼吸をした。
吐いた息が白く広がり、夜の冷気に溶けていく。
「……これで、本当に最後か。」
地方都市にあるこのホテルで働き始めて二十年。
フロント、客室、宴会、管理、どの部署も経験し、気づけばベテランと呼ばれる立場になっていた。
だが、人口減少と老朽化の波は容赦なく、ついに閉館が決まった。
すすむは、最後の客を丁寧に見送り、館内の点検を終え、鍵を返却した。
誰もいないロビーは、どこか別れを惜しむように静まり返っている。
「お世話になりました。」
誰に向けたとも知れない言葉を残し、すすむは駐車場へ向かった。
雪はしんしんと降り続けていた。
フロントマンとしての習慣で、車の雪を払い落とし、慎重にエンジンをかける。
「帰ったら、少し休もう……」
そう呟きながら、すすむはゆっくりと車を走らせた。
しかし、積雪は予想以上に深く、道路は滑りやすくなっていた。
カーブに差し掛かった瞬間、タイヤが横滑りする。
「……っ!」
ハンドルを切るが、車体は言うことを聞かない。
ガードレールが迫り、金属が軋む音が響いた。
次の瞬間、車は宙に浮いた。
雪の白さが視界を覆い、すすむは反射的に目を閉じる。
死の恐怖よりも、奇妙な静けさが胸を満たしていた。
――そして。
「……え?」
風の音が変わった。
雪の冷たさも、車の振動もない。
すすむはゆっくりと目を開けた。
そこには、見渡す限りの草原が広がっていた。
緩やかな丘が幾重にも連なり、遠くには森の影が揺れている。
空は澄み渡り、雲ひとつない青。
「……どういう、ことだ?」
車は無傷のまま、草の上に停まっていた。
背広姿の自分も、怪我ひとつない。
すすむは車から降り、周囲を見回した。
風が頬を撫で、草の香りが鼻をくすぐる。
「ここは……どこなんだ?」
現実感がない。
だが、夢にしてはあまりにも鮮明だった。
すすむはもう一度、遠くを見渡す。
丘の向こうに、細い道のようなものが見える。
「……道?」
人が通る気配はないが、人工的な線が確かに伸びている。
すすむは迷った末、車に戻り、エンジンをかけた。
草原の上をゆっくりと進めば、車は問題なく動く。
「とにかく、あの道まで行ってみよう。」
状況は理解できない。
だが、立ち止まっていても何も始まらない。
ホテルマンとして、未知の状況でも冷静に判断する癖が、すすむを支えていた。
車は草原をゆっくりと進み、丘を越えていく。
エンジン音が静かな世界に響き、すすむの胸には不安と期待が入り混じっていた。
「……まさか、本当に異世界なんてことは……」
口にした瞬間、自分で苦笑する。
そんな馬鹿な、と言いたいが、目の前の光景は現実離れしていた。
やがて、車は道の近くまでたどり着いた。
舗装されていない土の道が、丘陵地帯を縫うように続いている。
すすむは車を止め、周囲を見渡した。
人影はない。
「……誰か、通らないだろうか。」
道の脇に車を移動させ、すすむはしばらく待つことにした。
冷静に状況を整理しようとするが、頭の中は混乱したままだ。
「事故に遭って……気づいたら草原。車も無傷。自分も無傷……」
考えれば考えるほど、答えは出ない。
その時、遠くの道に、ゆっくりと動く影が見えた。
「……馬車?」
すすむは目を凝らした。
確かに、馬が引く木製の馬車のように見える。
「本当に……異世界なのか?」
胸が高鳴る。
恐怖ではなく、未知への緊張と興奮。
すすむは深く息を吸い、馬車が近づくのを待つことにした。
この後の出会いが、彼の運命を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。




