第99章 ―王女急訪、冬空の騒ぎ―
第99章 ―王女急訪、冬空の騒ぎ―
その日、グレンリゾートホテルはいつもと変わらぬ静かな朝を迎えていた。
冬の空気は澄み、ホテルの中庭にある池は薄く氷を張り、白い息が空に溶けていく。
従業員たちはそれぞれの持ち場で準備を進め、すすむも厨房で新しい海鮮メニューの調整をしていた。
だが、その静けさは突然破られた。
バタバタッ――!
廊下を駆ける足音が響き、ローレントが顔を真っ赤にして飛び込んできた。
「す、すすむさんっ! たいへんです!」
「どうしたんですか、ローレントさん?」
「お、王女が……セシリア王女がお忍びでお越しになりました!」
「……え?」
一瞬、すすむの思考が止まった。
セシリア王女――
エレニア王国の第三王女であり、王都でもその美しさと聡明さで知られる人物。
そんな人物が、よりによってグレンリゾートホテルに“お忍び”で来るなど、想像すらしていなかった。
「フロントに……?」
「はい! 護衛四名を連れて……! チェックインを済ませ、今、エレベータへ……!」
「わ、わかりました!」
すすむはエプロンを外し、急いでフロントへ向かった。
★★★★★
フロントに着くと、ちょうどエレベータへ向かう一団が目に入った。
金色の髪をゆるくまとめ、淡い青のドレスを纏った女性――
その姿は、まさに絵画から抜け出したような気品を放っていた。
セシリア王女だ。
護衛の騎士たちは黒いマントを羽織り、周囲を警戒しながら歩いている。
すすむは急いで駆け寄り、深く頭を下げた。
「セシリア王女殿下、ようこそグレンリゾートホテルへ。
支配人代理のすすむと申します。ご滞在中は、どうぞごゆっくりお過ごしください」
王女は柔らかく微笑んだ。
「突然の訪問で驚かせてしまったわね。お久しぶりね。
でも、あなたのホテルの噂は王都でもよく耳にするの。
特に……“ガストン港直送フェアー”が気になっていて」
すすむは一瞬固まった。
「ガストン港直送フェアー……でございますか?」
「ええ。夕食はぜひ、そのメニューをお願いしたいの」
王女はそう言い残し、エレベータへ乗り込んだ。
扉が閉まると同時に、すすむは息を吐いた。
「……急いで準備しないと!」
そこからのすすむは、まさに“ドタバタ”だった。
まずは厨房へ走り、ハンスに状況を説明する。
「王女が!? 夕食に海鮮フェアを!? すすむさん、急ぎましょう!」
ハンスはすぐにスタッフへ指示を飛ばし、厨房は一気に戦場のような慌ただしさに包まれた。
次に、すすむはレストランへ向かい、席の配置を変更する。
王女の席は、窓際の池が見える特等席。
周囲の席は距離を取り、護衛のためのスペースも確保する。
テーブルクロスは白、花は淡いピンクのバラ。
照明は少し落とし、落ち着いた雰囲気に整える。
「よし……これで大丈夫なはず」
だが、まだ終わりではない。
メニューの最終確認、食材のチェック、スタッフの配置、護衛との動線確認――
やることは山ほどあった。
すすむは走り回りながら、心の中で何度もつぶやいた。
(王女が来るなんて……聞いてないよ……!)
★★★★★
夕食の時間。
レストランの扉が静かに開き、セシリア王女が姿を現した。
淡い青のドレスは夜の照明に映え、まるで湖の精霊のようだった。
護衛たちは周囲を警戒しながら後ろに控えている。
すすむは深く頭を下げ、席へ案内した。
「本日は特別に、ガストン港直送フェアーの中でも、最も新鮮なものをご用意いたしました」
王女は微笑み、席についた。
最初に運ばれたのは、ブルーフィンの刺身。
淡い桃色の身が皿の上で輝いている。
王女は箸を取り、一切れ口に運んだ。
――静寂。
そして、ゆっくりと目を見開いた。
「……なんて、繊細な味なのかしら」
護衛たちも驚いたように顔を見合わせる。
次に運ばれたのは、握り寿司。
王女は慎重に手に取り、口に運んだ。
「……これは……素晴らしいわ」
その声は、心からの感動がこもっていた。
すすむは胸を撫で下ろした。
(よかった……本当に、よかった……)
★★★★★
夕食後、王女は部屋へ戻ったが、しばらくしてフロントに連絡が入った。
「ルームサービスで、チョコレートと紅茶をお願いしたいのですが」
すすむは即座に準備し、自らトレイを持って王女の部屋へ向かった。
ノックすると、王女が優雅に迎えてくれた。
「わざわざありがとう。あなたが持ってきてくれると聞いて、嬉しかったわ」
「恐れ入ります」
すすむは丁寧に紅茶を注ぎ、チョコレートを並べた。
王女は紅茶を一口飲み、微笑んだ。
「このホテル……本当に素敵ね。
また来たいと思える場所だわ」
その言葉に、すすむは胸が熱くなった。
★★★★★
翌朝。
すすむは早朝から朝食の段取りを確認し、厨房とレストランを行き来していた。
王女の朝食は、特別に用意した海鮮粥と焼き魚、果物の盛り合わせ。
護衛たちの分も含め、慎重に準備を進める。
王女は朝食も満足した様子で、ゆっくりと食堂を後にした。
そして、チェックアウトの前に売店へ立ち寄った。
「このバラの紅茶……香りが素敵ね」
「このチョコレートも美味しかったわ」
「これは……ガストン港直送エビチップ? 面白いわね」
王女は三つの商品を手に取り、すべて購入した。
売店のスタッフは緊張で震えながらも、丁寧に包装した。
★★★★★
ホテルの前には、王女の馬車が待っていた。
従業員たちは一列に並び、深く頭を下げる。
王女は馬車に乗り込む前に、すすむへ向き直った。
「素晴らしい滞在だったわ。
あなたと、ホテルの皆さんに感謝します」
「恐れ入ります。いつでもお越しくださいませ」
馬車がゆっくりと動き出し、雪の舞う道を進んでいく。
すすむは深く息を吐いた。
「……終わった……」
全身から力が抜けるような疲労感。
だが、それ以上に、やり切ったという満足感が胸に満ちていた。
王女の来訪は突然だったが、ホテルの力を示す絶好の機会でもあった。
すすむは空を見上げた。
冬の空は澄み渡り、どこか誇らしげに輝いていた。




