犯人は誰だ!!
小雨の降りしきる月曜の夜だった。
校舎裏の特設ステージで見つかったのは、演劇部部長の桐原詩織が倒れている姿。
幸い命に別状はないものの、彼女の衣装には何本もの刃物で切りつけた痕があり、ステージには彼女の悲鳴がかき消されたかのような暗い雰囲気が漂っていた。
近くを巡回していた守衛が駆けつけたときには、すでに犯人の姿は消えていた。
現場に到着したのは、若い刑事の矢島とベテランの川津だった。
すでにステージ周辺は警察のライトで明るく照らされ、演劇部員たちが口々に状況を説明している。
「桐原先輩が襲われるなんて…」
そう言って震える新入部員の彩香に、矢島は落ち着いた声をかけた。
「大丈夫ですよ。
できる範囲でいいので、何があったか聞かせてもらえますか。」
彩香は少し息を整えると、ためらいがちに口を開いた。
「今日の放課後、詩織先輩は部員全員を早く帰らせて、一人でステージの道具確認をすると言っていました。
私たちは先輩の指示通りに帰ったんですけど、たまたま忘れ物をして戻ってきたら、倒れている先輩を見つけて…」
川津が顎に手を当てながらステージ周囲を見回す。
音響機材や背景幕、照明など、演劇の準備で雑然としているが、その中に争った形跡は見当たらない。
ドス黒いシミのついたコスチュームが芝居めいた凄惨さを醸し出していたが、血ではないようだ。
「これはペンキか?
いや…衣装用の舞台メイク道具をぶちまけたようにも見えるな。」
矢島は桐原詩織が握っていた小さな紙片をそっと取り上げる。
そこには赤いインクで「私を裏切らないで」と書かれていた。
「ただの小道具じゃなさそうだ。
どうやら何かのメッセージのようですね。」
川津がそれを横からのぞき込み、「誰が誰を裏切ったんだろうな」とつぶやく。
翌日、病院で意識を取り戻した桐原に矢島が事情を聴こうとした。
ベッドの上でうつむく彼女に声をかけると、返事は弱々しかった。
「私が倒れたときのことはあまり覚えていないんです。
でも…なぜだか、『犯人は誰だ』と叫ぶ自分の声が頭の中で響いていて…」
矢島は首をかしげる。
「あなたを恨んでいる人の心当たりは?」
そう尋ねると、桐原は少し考え込み、「分かりません」と短く答えた。
しかし、その直後に口を閉ざすようにして顔をそむける。
矢島は彼女が何かにおびえているような気配を感じながらも、それ以上問い詰めることはできなかった。
現場検証を進めるうちに、ステージ裏手に落ちていた封筒が発見された。
中には、舞台演出に関するメモや演劇部員それぞれの配役についての紙が挟まれていた。
だが、演劇部員の名前とは別に、最後のページだけに赤字で「女王」と書かれており、その下に「裏切り者を処罰せよ」と殴り書きがされていた。
川津は苦い顔をして矢島に言う。
「これが狂言なら、ずいぶん手の込んだ脚本だ。
だが、誰がこういうメモを作ったのか。
裏切り者って、いったい何のことなんだ?」
そこで矢島と川津は演劇部顧問の長尾に話を聞くことにした。
長尾は物静かな教師で、普段から生徒の自主性を重んじるタイプだという。
彼は演劇部の打ち合わせにあまり介入しないらしく、「部員同士の対立や問題は聞いていない」と首を横に振るだけだった。
「桐原はしっかり者で、リーダー気質でした。
ただ、人を選ぶタイプというか、厳しく叱ることも多かったかもしれません。
でも今回の事件は想像もつきませんよ。」
その日の放課後、矢島は部室へ向かい、部員たち一人ひとりに話を聞いた。
すると、ある下級生が意味深な証言をする。
「桐原先輩がよく言ってました。
『自分を信じなさい』って。
でもそれって、本当は自分の秘密を隠すためだったんじゃないかって、最近みんなで噂してたんです。
先輩は何か大きな秘密を抱えているんじゃないかって…」
矢島がその噂の出どころを尋ねると、下級生は演劇部が公演予定の脚本を見せてきた。
そこには「女王」役の登場人物が、裏切り者を次々裁く場面が描かれていた。
やけに血なまぐさい描写が多く、「まるで呪いの劇みたいだ」と部員たちが敬遠し始めていたのだという。
夜になり、矢島はステージのあった校舎裏を一人で歩いてみた。
雨上がりの地面はまだ湿っており、そこにわずかに残る足跡を懐中電灯で照らすと、演劇で使うパンプスのような浅めの靴跡が目に入った。
「犯人は女性か、それとも誰かが女性ものの靴を…」
独り言のように矢島がつぶやくと、背後から川津がやってきた。
「そこでぼんやり突っ立ってないで、ひとつ面白い話を聞かせてやるよ。
俺が調べたところ、実は桐原が書いていた脚本は二つあったらしい。
一つは部員たちにも公開している台本、もう一つは誰にも見せない秘密の脚本だ。
どうも、後者には『犯人探し』めいた筋書きがあるらしいぜ。」
翌朝、病院の桐原が誰かと電話していたという情報を看護師が教えてくれた。
矢島が急いで病室を訪ねると、桐原は涙をこらえたような顔で彼を迎えた。
「あなたにだけ話します。
私があの夜ステージで倒れたのは、自作自演です。
でも私を刺した“何者か”は本当にいます。
あの『裏切らないで』というメッセージは、実際には私からその人への懇願だったんです。
私には、公演を成功させるために踏みにじってしまった相手がいる。
そしてその人から脅しを受けていました。
だけど、まさか本当に手を出すなんて……」
「その人は一体誰ですか?」
「ごめんなさい、ちょっと今は言えません……」
そのまま捜査が難航するかに見えたが、ある手がかりが見つかる。
部員の一人が深夜にSNSで「本当はあなたに女王役をやらせたかった。
でも私が選ばれたの。
ごめんなさい」と書き残していたのだ。
そのアカウント名は「Shiori」で、当然桐原が使っていると思われるものだったが、実際に投稿された端末は桐原のスマホではなかった。
「投稿したのは誰だ?」
矢島はSNSの運営側から提供された通信履歴を調べる。
すると、その通信が部の備品であるタブレットから行われていたことが分かった。
しかも、そのタブレットを保管しているロッカーの鍵は、顧問の長尾だけが管理しているはずだった。
矢島は長尾に直接問いただす。
すると彼は静かな声で事実を認めた。
「私がSNSに書き込んだんです。
でも、私が詩織を襲ったわけじゃない。
彼女の秘密の脚本を見たとき、あまりに残酷な内容に驚きました。
あれはまるで、実在の人物を当てはめた告発文のようだった。
裏切り者を懲らしめる“犯人”を求めているように見えた。
私は演劇が崩壊することを恐れて、彼女の名前を使い、一種の謝罪文を書けば部員同士のわだかまりが解けるかと思ったんです…」
ならば本当の犯人は誰なのか。
矢島が改めて部員たちの足取りを追うと、ある一人の名前が浮かび上がる。
新入部員の彩香だ。
あの夜、忘れ物を取りに戻ったと言っていたが、そもそも彼女は不自然なほど早く発見現場に駆けつけている。
しかも彼女の持つ衣装バッグから、小瓶に入った赤い塗料が見つかった。
「どういうことか説明してもらえますか」
問い詰める矢島に対し、彩香は言葉を詰まらせながら白状した。
「先輩が私の才能を認めてくれなくて悔しかったんです。
先輩の“女王”ぶりにはもううんざりだった。
でも、刃物で切りつけたわけじゃありません。
あれは私がメイク道具を衣装に撒き散らしただけ…本当に傷つけるつもりはなかったんです」
彩香は桐原を驚かせ、彼女に自分の存在感をわからせたかっただけだと涙ながらに話す。
しかし、桐原の衣装に切り込みが入っていた事実と合わない。
彩香は震える声で訴える。
「本当に私じゃありません。
赤いメイク道具をかけただけです。
そもそも刃物なんて…」
矢島はそこで気づいた。
「じゃあ、桐原さんを傷つけた犯人は別にいるということか。
彩香さんが撒いた塗料と、衣装の切れ目。
二つの痕跡が同時にあるってことは、犯人が二人いるのかもしれない…」
ほどなくして真相は意外な形で明らかになった。
病院にいた桐原は、自分が誤って舞台道具の金具に衣装を引っかけていたことを思い出したのだ。
服が裂けた衝撃で倒れそうになったところへ、彩香が撒いた塗料がかかり、ショックで気を失ってしまった。
つまりあの夜、実際には「襲った犯人」はいなかった。
桐原の叫んだ「犯人は誰だ!!」は、一瞬のパニックから生まれた悲鳴にすぎなかったのだ。
そうとは知らず彩香は「自分のせいだ」と追いつめられ、桐原も「誰かに恨まれている」と思い込んでいた。
さらに顧問の長尾がSNSに妙な投稿をしたため、無用な混乱が広がった。
すべては偶然と勘違いが重なった結果だった。
川津が苦笑しながら矢島にささやく。
「これじゃ、まるっきり演劇そのものじゃないか。
だが、誰も本当には傷ついていないと分かって、ちょっとほっとしたよ。
まさか“犯人”なんかいなかったとはな。」
現場を大がかりに捜査した甲斐はなかったかもしれない。
それでも矢島は、桐原と彩香が互いに事情を打ち明け、少しずつわだかまりを解いていく姿を見ていた。
そこに見えたのは、芝居の幕が下りたあとに訪れる静かな解決のようにも感じられた。
そう、今回の事件に「犯人」は存在しなかった。
ただ、それぞれが抱えた焦りや疑念が、まるで人知れずひそむ影のように彼女たちを惑わせていただけだった。
矢島は最後に「何か腑に落ちないな」とつぶやきながらも、青空の下で盛り上がる演劇部員たちの声に耳をすませた。
彼らの新しい舞台は、きっと変わった形で“犯人探し”の幕を開けるかもしれない。
だが、そのときはもう少し和やかな“芝居”になりそうだった。