後日談 香夜の贈り物
――式が始まる直前、父から思いがけない不意打ちを受け、危うく入場前からみことの涙腺が緩みそうになってしまったものの、どうにか涙を堪えてつつがなく式を進行できた。
いや、時折我慢できなくなって涙が出てしまったが、あのくらいは花嫁として許容範囲内だろう。
父なんて感極まってしまったのか、泣いていない瞬間があったのかと疑ってしまうほど、ずっと号泣していたのだ。
(お父さん、いい加減泣き止んだかな……)
披露宴の後、父は恭矢と英泉の二人がかりで引きずられて帰っていったのだ。
もし、あのまま放置しておいたら、みことたちが今夜宿泊するホテルまでついてきたかもしれない。
そんなことを考えながら、みことは浴室でヘアスプレーで固められた髪にシャワーで湯をかけ、シャンプーを乗せた手で揉みほぐしていた。
万が一にも式の最中にアップスタイルにした髪が崩れないよう、念入りに強力なスプレーを使用したに違いない。
どれだけ丁寧に揉みほぐしても、濡れ羽色の髪はなかなか元に戻らない。
先にシャワーを浴びておいでと、幸斗に順番を譲ってもらった手前、あまり待たせたくはない。
若干の焦りを覚えつつも丁寧にシャンプーをしていたら、次第にみことの髪は元の柔らかさを取り戻していった。いつもより時間をかけて髪を洗い終える頃には、すっかり元のまっすぐな髪質に戻っていた。
そこからは急ぎながらも丹念に髪にトリートメントを塗り込み、身体や顔を洗ってから、最後にまた髪を湯で洗い流していく。
素早く脱衣所に戻ると、手際良く身体や髪を拭いていき、下着を身に着けてから、パステルピンクの紙袋に手を伸ばす。
これは結婚祝いにと、香夜から個人的にプレゼントされたものだ。
まだ中身は確認していないものの、「夜、寝る時に着てね」と言われて渡されたから、ネグリジェだろうか。
(ネ、ネグリジェ着るとか……緊張するなぁ……)
ずっとパジャマ派だったみことにとって、お姫様の寝間着みたいにひらひらとしたネグリジェを身に纏うのは、なかなかにハードルが高い。
だが、こういう時でもなければ、この先着る機会があるかどうか怪しいから、思い切って着てみよう。
意を決して紙袋の中に手を差し入れ、綺麗にラッピングされたプレゼントを取り出す。そして、ローズピンクの包み紙を慎重に剥がした直後、思わずぽかんと口を開けてしまった。
中から出てきたのはネグリジェではなく――もっと布面積の少ない、ライラック色の下着みたいな薄手のワンピースだった。
それが所謂、ベビードールと呼ばれるものだと理解するのに、たっぷりと数十秒はかかってしまった。
衝動に身を任せ、香夜からのプレゼントを床に叩きつけなかった自分を、心の底から褒め称えたい。
このベビードールはシフォン生地で作られている上、胸元や裾を飾るフリルレースもかなり繊細で凝っているため、おそらく相当高級な代物だ。
しかも、プレゼントを粗末に扱うなんてことがあったら、みことが自分自身を許せない。
(でも……っ! それにしたって香夜ちゃん、どうしてこんなものを……?)
香夜はこういうプレゼント選びのセンスが抜群に良いはずなのに、今回ばかりは壊滅的だ。
まだ湿っている頭をつい抱えたら、紙袋の底に象牙色のメッセージカードが張り付いていることに気づく。
そっと取り上げれば、香夜の流麗な筆跡が視界に入った。
――みこちゃんへ。いつもとは違う格好で臨むと、夜は盛り上がるものです。よかったら、これを初夜にお役立てください。香夜より。
そのメッセージを読み終わった途端、今度はカードを床に叩きつけたい衝動に駆られた。
しかし、今回もどうにかやり過ごし、深く息を吐き出す。
(香夜ちゃん……ものすっごく、余計なお世話……っ!)
そう胸中で吐き捨てたものの、そういえばみことは今までそういう努力をしてこなかったことに、ふと気づかされる。
雰囲気作りとか、相手をもっと喜ばせようとか、あまり意識して考えてこなかった。
いつだって幸斗に身も心も委ねるばかりで、受け身になっていた気がする。
(……よし)
今夜は一応、初夜だ。
香夜に乗せられるのは少々癪に障るが、たまには普段とは違った趣向を凝らしてみるのも一興かもしれない。
手早く身に着けたばかりの下着を脱ぎ、ボディラインがうっすらと浮かび上がるベビードールに身を包む。それから、できるだけ早く髪をドライヤーで乾かすと、ワインレッドのバスローブを羽織ってから寝室へと向かった。
***
膝を揃えてクイーンサイズのベッドの縁に腰かけつつ、幸斗がシャワーを浴びている音に耳を傾けている間、みことは生きた心地がしなかった。
やがて、水音が途絶えたところで、覚悟を決めてバスローブの腰紐を解き、はらりと脱ぎ捨てる。
頼りないベビードール一枚だけを身に着けた状態でベッドに乗り上げる際、太ももの半ばほどしかないスカートが捲り上がり、セットのショーツが見えてしまったため、慌ててスカートの裾を整える。
(う、うぅ……)
幸斗の反応次第では、自前のパジャマに着替えよう。そうしよう。
自分にそう言い聞かせていたら、脱衣所からみことと同じ色のバスローブ姿の幸斗が出てきた。
そして、ベッドの中央でちょこんと正座していたみことと視線が絡み合った途端、幸斗の紫水晶の瞳が大きく見開かれた。
「ゆ……ゆきくん、おかえりなさい……」
「……みこと、その格好は……」
幸斗の声に若干の動揺が滲んで聞こえるのは、みことの気のせいだろうか。
「こ、これね、香夜ちゃんから結婚祝いにって、もらったの。へ……変、かな……」
みことの問いに幸斗は答えず、無言でこちらに近づいてくる。
(ゆ、ゆきくんの今の感情が、よく分からない……!)
幸斗は元々、あまり感情が表に出ないタイプだが、今は輪にかけて何を考えているのか読めない真顔をしている。
(ええい……こうなったら、どうにでもなれ……!)
半ば自棄になりながらぎゅっと目を瞑り、震える両腕をおずおずと広げた。
「だ、だから……どうぞ、召し上がれ……!」
もう何を言えば良いのかもよく分からず、咄嗟に思いついた言葉を口にしたのだが、我ながら意味不明だ。
みことがそう宣言した直後、すぐ目の前で幸斗が立ち止まった気配がした。
全身を強張らせて幸斗の反応を待っていると、何の前触れもなく片腕で腰をぐっと抱き寄せられた。
思わず瞼を持ち上げれば、相変わらず感情が窺えない無表情の幸斗の指先に、そっと顎を掬われた。
「みことって――」
紫水晶の双眸が、すっと細められる。そして、乾かしたてのプラチナブロンドがさらりと流れたかと思えば、薄く形の良い唇が眼前に迫ってきた。
「――俺を煽る天才ですね?」
幸斗はみことの唇に触れるだけのキスを落とすと、至近距離で熱っぽい吐息交じりの声で囁きかけてきた。
どうしてだろう、全然褒められた気がしない。
その声は面白がっているようであり、ほんの少し不服そうでもあり、今にも牙を剥かれるのではないかと思うほどの好戦的な響きも帯びている。
微動だにできずにいるみことの肩を、先程まで頤を掴んでいた指先がとんと押す。
すっかり固まってしまっていたみことは、あっさりとベッドの上に仰向けに倒れ、その上に幸斗がすかさず覆い被さってきた。
みことの腰を抱いていた左腕が素早く引き抜かれたかと思えば、幸斗の両手が顔の両脇を逃がさないとばかりに囲い込む。
「そこまで言ってくださったんですから、ここはお言葉に甘えて――いただきます」
先刻のワードチョイスは、絶対間違っていた。
でも、今さら気づいたところで、もう遅い。
もう一度夫に唇を奪われながら、今晩は無駄な抵抗をせず、こうなったら幸斗が満足するまでとことん付き合おうと腹を括り、自らが引き寄せてしまった運命を受け入れた。
***
「――やっぱり私って、センスの塊よね!」
二歳の娘である結珠を寝かしつけてきた香夜は、居間で晩酌をしていた、藍色の浴衣を身に着けている恭矢に、上機嫌に後ろから抱きついてきた。
日本酒を飲みつつ、今日撮影した写真や動画の確認をしていた恭矢は一旦手を止め、背後を振り返る。
すると、柳色の浴衣を身に纏い、満面の笑みを浮かべた香夜と目が合った。
「ん? 今日のドレスの話か?」
確かに、今日の結婚式に参列した時に着ていた、香夜のアイスグリーンのパーティードレスは上品且つ爽やかで、結珠のシェルピンクのパーティードレスは最高に可愛らしかった。
「違う違う、みこちゃんにあげた結婚祝いのプレゼントの話よ」
「ああ……披露宴が終わった後に、何か渡してたな」
「きっと、ゆきくんも喜んでくれたと思うのよねー」
みことと幸斗、どちらも喜ばせる品を用意していたとは、恭矢の最愛の妻はつくづく抜かりない。
「だから、新婚旅行のお土産も期待できると思うわ」
それから、抜け目なく見返りまで考えている香夜に、つい苦笑いを浮かべる。
「……あんまり期待し過ぎると、肩透かしを食らう羽目になるかもしれないぞ?」
「あら。じゃあ、きょうくん。どういう結果になるか、賭けてみましょうよ。私が賭けに勝ったら、新しい秋用の簪を買ってくださいな」
「なら……俺が賭けに勝ったら、この間作ってくれたアクアパッツァをまた作ってもらおうか」
「あら、そんなのでいいの?」
「そんなじゃないだろう。あれ、かなり美味かったぞ」
恭矢がそう答えれば、香夜は再び嬉しそうに破顔した。
――この賭けの結果は十日後、香夜の大勝利で決着がついた。




