最終話 ありがとう
「――じゃあ、みこともやってみましょう」
「うん!」
二人はどうやら縄跳びをしていたらしく、幸斗の手には青い縄跳びが、みことの手にはピンクの縄跳びが握られていた。
みことはちょうど刀眞に背を向ける形で立っているため、ここから表情を窺い見ることはできないものの、十中八九きりっと表情を引き締めているに違いない。
春らしい桜色のトレーナーにモスグリーンのショートパンツという格好をしたみことは、縄を自分の前に持ってくると、どこか慎重さを感じさせる手つきで回し始めた。後ろ跳びに挑戦するところみたいだ。
しかし、一回、二回と跳んだかと思えば、三回目で縄に足を引っかけてしまった。
「うー……ゆきくん、うしろとび、むずかしいよぅ……」
しょんぼりと肩を落とすみことに、モスグリーンのトレーナーにジーンズという組み合わせの幸斗が、困ったように微笑んだ。
「みことは、まだできなくても大丈夫ですよ。前跳びはできるんだから、ね?」
これまで見たことがない幸斗の柔らかな表情に、思わず驚愕に目を見開く。
両親が健在だった頃でさえ、幸斗の表情はいつも薄かった。
それなのに、この短期間でここまで変わるなんて、それほどまでにみことという存在が幸斗にもたらした影響は大きかったのだろうか。
以前は両親に似ず、どちらかといえば口が悪かったのに、何故か今では敬語になっていることにも充分驚かされたが、それよりも前よりも分かりやすく感情を表に出している幸斗に、目を奪われずにはいられない。
「うん……まえとびはかんたんなのになぁ……」
そう言うや否や、みことは自分の後ろに縄を持っていき、先刻よりも速いスピードで縄を回し始めた。それから、テンポ良くぴょんぴょんと飛び跳ねる。みことの動きに合わせ、紺色のシュシュで結ばれたポニーテールもさらさらと揺れる。
四歳児ならば、それだけできれば上出来だろうと思いつつも、未だに刀眞の存在に気づく様子のないみことに声をかける。
「――みことー、パパだぞー」
いつかの声掛けを真似てそう告げれば、幸斗の紫水晶の双眸が驚いたようにこちらへと向けられた。刀眞の姿にいつ気づいてもおかしくない立ち位置にいたのに、幸斗も今の今まで気づかなかったみたいだ。
どれだけみことと遊ぶのに夢中になっていたのかと、内心呆れていたら、跳ぶのをやめた娘が勢いよくこちらへと振り返った。
「……おとうさん?」
呆気に取られたように大きく目を見張っていたかと思えば、たちまちみことの表情が泣き出しそうに歪んだ。
「おとうさぁん……!」
手にしていた縄跳びを放り投げるなり、みことが全速力で刀眞の元へと駆け寄ってきた。
猛然と刀眞にぶつかってきた娘の身体をしっかりと受け止めると、そのまま抱き上げる。
「なんだー、みことー? 嘘つきなお父さんのことなんか、大っ嫌いなんじゃないのかー? いいのかー? 自分から抱きついちゃって」
にやにやと笑いながら娘に意地の悪い言葉をかければ、みことはもごもごと口を動かした。
「……おとうさん……こんどはちゃんと、やくそくまもったから。だから、ゆるしてあげる。だから、いいの!」
「そうかそうかぁ、みことは優しいなぁ」
そう言いつつ娘の頬に自分の頬を擦り寄せようとした寸前、みことにぴしゃりと容赦なく顔面を叩かれてしまった。
「おとうさん、それ、や!」
かなりはっきりと拒絶の意思を示され、愕然としていたら、やや気まずそうな面持ちをした幸斗が遠慮がちに近づいてきた。
「あの……刀眞さん、こんにちは」
幸斗なりに気を遣った結果、わざわざ挨拶しにきてくれたに違いないと察することはできたが、六歳児にそこまで憐れまれる自分は、一体何なのか。むしろ、心の傷をより深く抉られた気分だ。
「あ、ああ……こんにちは、ゆき。四月から小学生か、早いなー。ランドセルはちゃんと買ってもらったのか?」
でも、即座に気持ちを立て直し、みことをそっと地面に下ろしながらそう問うと、幸斗はこくりと頷いた。
「はい。鬼柳からお金をたくさんいただいたので、それで琴子さんに買ってもらいました。特に丈夫なものを選んで買ってもらったので、卒業するまで大事に使います」
「そうかそうか。気に入ったの買ってもらえて、よかったな」
鬼柳一族は幸斗を養育する義務を放棄したわけだが、養育費を出し惜しみするほど性根は腐っていなかったみたいだ。
「じゃあ、入学式には俺とみことで見にいくからな。びしっと決めろよ」
「え……」
刀眞の言葉に不意を突かれたと言わんばかりに、幸斗が目を丸くする。
――客間に案内してもらう道中、幸斗の小学校の入学式に誰か出席するのかと琴子とに訊ねたら、誰も参加しないのだと返された。
最初は琴子が出席する予定だったらしいが、幸斗が遠慮して無理して来なくても大丈夫だと、申し出を断られてしまったのだという。
琴子はそこで引き下がったみたいだが、生憎、刀眞はそんな繊細な感受性を持ち合わせていないから、図々しく踏み込んでいくつもりだ。
「だから、みこと。明日は入学式に着てくワンピースとそれに合わせた靴を買いにいこうな」
「おかいもの?」
「うん、そうそう」
「ふぅん……」
みことはまだ服にあまり興味がないらしく、曖昧な相槌を打つだけだった。
「ちゃんと買い物できたら、その後ケーキ食べにいこうなー」
「けーき!? うん、いく! わたし、いちごのけーきがたべたい!」
だが、ケーキという単語を耳にした途端、目の色を変えて喜び始めた。
娘の分かりやすい反応の変化を微笑ましく眺めていたら、みことが幸斗の手を取ってきゅっと握った。
「ゆきくんも、いこ!」
「え、でも――」
「――おう。もちろん、ゆきも連れてくつもりだぞ。ゆきも、新しい靴買わないとなぁ」
そう答えつつ、幸斗の足元に視線を落とす。
幸斗が今履いている青いスニーカーは見たところ、若干サイズが合っていない気がする。子供の成長は早いから、何かとよく気がつきそうな琴子でも追いつかなかったのだろう。
他にも、何か足りないものがあるならば、明日できるだけ買い足しておこう。
(ゆき、ほんっとうに必要最低限のものしか買ってもらえてなさそうだからなぁ……)
あとで、入念に幸斗の身の回りのものを確認しておかなければならないと、心に刻みつけておく。
「ゆきが嫌だっつっても、明日は無理矢理にでも連れてくからな。そんで、必要なもんや欲しいもん買って、旨いもん食おうぜ」
そう告げながら、無遠慮に幸斗のプラチナブロンドをくしゃくしゃと撫でる。
冬城一族の屋敷にみことを預けるまで、幸斗がどういう生活を送っていたのか、刀眞は詳しく知らないし、詮索する気も砂粒ほどにもない。
しかし、実の娘であるみこと同様、寂しい思いをさせるつもりも露ほどにもなかった。
「そんじゃあ、家の中に戻るか。みことー、お父さん、お土産にドーナツ買ってきたんだぞー」
「ほんと!? じゃあ、はやくおうちにはいらなきゃ! ゆきくん、いくよ!」
「みこと。あんまり急ぐと、危ないですよ」
手を繋いだまま元気よく走り出したみことに、幸斗は年上らしく注意しつつも素直についていく。
活発な娘に幸斗はもっと振り回されているものかと思っていたのだが、想像以上に兄貴分としてみことの手綱をしっかりと握っているみたいだ。幸斗に窘められたみことは物分かり良く歩調を緩め、二人仲良く並んでいく。
「二人とも、家に上がったら、ちゃんと手洗いうがいするんだぞー」
「はーい!」
「はい」
意外と気が合うらしい二人に安心する反面、複雑な気持ちに駆られながらも保護者らしく声をかければ、それぞれの性格がよく表れた返事が耳朶を打った。
***
(そんなほのぼのした、平和な日々もあったなぁ……)
走馬灯のごとく脳裏を過っていった過去の記憶を噛み締め、遠い目をしていたら、隣に立つみことに顔を覗き込まれた。
「――お父さん、どうかした? さっき練習したバージンロードの歩き方、ちゃんと覚えてる?」
「……こんな日にゃ、みことのちっちゃい頃の思い出が、そりゃあ走馬灯よろしく頭の中に流れるわなぁ!」
そう、今日――二〇二四年七月二十九日は、刀眞の愛娘であるみことと幸斗の結婚式の日だ。
刀眞は、普段スーツを着用する際には絶対に選ばない白いネクタイを締め、みことは純白のウェディングドレスを身に纏い、ヴェールを被っているため、顔がはっきりとは見えない。
「お父さん……あんまり大きな声を出さないでよ。式場にまで聞こえちゃうでしょ」
今は式場へと続く扉付近で、入場するまで待機しているから、今日の主役であるみことは気が気ではないのだろう。今日の結婚式の参列者たちから見えない位置についているとはいえ、気にしたようにちらちらと視線を動かしている。
「どうせ、まだ牧師が話してるとこだろうから、参列者には聞こえねぇよ」
すぐにそう反論したものの、近くにいた式場のスタッフに睨まれてしまったため、口を噤む。
挙式は披露宴とは違い、神聖で厳かな雰囲気の中、執り行われるものだから、とにかく静かにしろということに違いない。
若干の気まずさを紛らわせるように、隣に佇むみことを改めてじっと見下ろす。
夏に式を挙げるからと、幸斗と相談した結果、ノースリーブのウェディングドレスを選び、手袋も嵌めないことにしたのだという。
でも、機能性を重視した中でも貞淑で楚々とした雰囲気を損なわぬよう、鎖骨から首筋にかけて繊細なレースで出来上がった立て襟で覆われており、二人のこだわりを感じさせる。
「――お父さん」
黙って娘の晴れ姿を観察していたら、ふと黄金の瞳が刀眞を捉えた。
「式が始まる前に、お父さんに伝えておきたいことがあります」
どこか悪戯っぽい声が鼓膜をくすぐったかと思えば、みことが刀眞の正面にくるりと回り込んできた。その拍子に、みことの顔を隠すヴェールがふわりと揺れる。
急に何事かと目を瞬く刀眞の前で、みことは一度だけ深呼吸をしてから口を開いた。
「――刀眞くん、ありがとう」
――みことの唇から零れ落ちてきた言葉に、思わず息を吞む。
透明感のある愛らしい声は、間違いなくみことのものだ。
だが、砂糖菓子みたいに甘い声を思い起こさせるほど、その口調は――あまりにも、ひかりにそっくりだった。
「わたしがいなくなる前も、その後も、ずっと……ずっと、みことのことを愛してくれて、憎まずにいてくれて、守ってくれて――本当に……本当にありがとう」
しかも、みことは今ヴェールを被っているものだから、余計に目の前にいる相手が何者なのか、分からなくなっていく。
「一人で娘を育てるなんて、大変だったでしょう? しかも、ゆきくんのことまで気にかけて……誰がなんと言おうとも、刀眞くんは立派な父親よ。わたしが保証するわ」
ただでさえ、みことはひかりと瓜二つの顔立ちをしているため、顔を晒していても混乱したかもしれない。
しかし、うっすらとしか見えないという状態のせいか、みことにひかりが憑依したのではないかと錯覚してしまいそうなくらい、刀眞は呑まれてしまった。
「それから、刀眞くん……約束を守ってくれて、ありがとう。心から――愛してる」
さらに続けられた言葉に、愕然と目を見開く。
――あの日、ひかりと刀眞が交わした約束も、愛を告げてくれた言葉も、みことは知らないはずだ。あの場に、みことはいなかったのだから。
だから、この言葉が出てきたのは、単なる偶然なのだろう。
でも、それでも――これまで刀眞が娘を想って積み上げてきた努力が認められ、ようやく報われた気がした。
(別に……褒められたくて、頑張ったわけじゃねぇけど)
刀眞が築き上げてきた努力は、あくまで自分のためだ。誰かに承認されたかったわけでも、感謝されたかったわけでもない。
だが今、ひかりとみこと、二人分の感謝と愛を贈られ、自然と喉の奥から熱いものが込み上げてきた。
「……どう? お父さん、お母さんに似てた? お父さんが昔撮った、お母さんの動画が残ってたから、それ見て練習してみたんだ」
そう胸を張って告げるみことの声も口調も、すっかり元に戻っていた。
もう、みことにひかりの姿を幻視することはない。
「……ああ、最高のサプライズだったぞ。みこと」
「あの……そろそろご入場の準備を……」
みことと微笑みを交わし合っていたら、今まで空気を読んで存在感を消してくれていたらしいスタッフが、おそるおそるといった様子で声をかけてきた。
慌ててみことが刀眞の右腕に左手を添えると、新婦入場のアナウンスが聞こえてきた。
「――みこと」
観音開きの扉がゆっくりと開かれていく中、娘が晴れ舞台に出る前に胸の奥底から湧き上がってきた想いを言葉にした。
「産まれてきてくれて……俺を、みことのお父さんにしてくれて……ありがとうな」
本編はこれにて完結です
番外編もどうぞお楽しみください!




