第50話 ずっと、一緒
「……美夜?」
懐かしい名を耳にするなり、思わずその名を呟いてしまった。
――美夜は十代後半の頃に付き合っていた、刀眞より二歳年下の期間限定の恋人だ。
美夜には幼い頃から許嫁がいたのだが、ずっと刀眞に想いを寄せていたのだという。
刀眞としては、決まった相手がいる少女と関わりを持ちたくなかったから、美夜の告白にはきちんと断りを入れ続けていたのだが、そういう対応が誠実に見え、かえって火を点けてしまったらしい。
何年も粘られ続けた結果、美夜が十六歳になって結婚するまでの間だけと期限を設け、根負けした刀眞は付き合うことにしたのだ。
しつこく追いかけ回されているうちは、鬱陶しい女鬼としてしか認識していなかったものの、いざ交際を始めてみたら、美夜はなかなか良い女だった。
もし許嫁がいなければ、生涯を共にする相手として考えられる程度には、気に入っていた。
だが、根が面倒くさがり屋の刀眞は、自ら追いかけることはしなかった。きっと、根本的に恋愛に向いていないのだろう。そして美夜には、刀眞のそういうところが面白くなかったみたいだ。
契約期間が終わるのと同時に、あっさりと刀眞と縁を切り、順当に婚約者の男鬼と婚姻を結んだ。もしかしたら、刀眞への当てつけも多少は含まれていたのかもしれない。
しかし、その結婚が美夜にとって幸せなものにならなかったのだから、つくづく男運に恵まれなかったらしい。
過去に想いを馳せつつも美夜の近況報告に耳を傾けていたら、意を決したような声でこう続けられた。
『私たち……結婚が上手くいかなかった者同士じゃない? だからってわけじゃないけど……これを機に私たち、やり直せないかしら』
でも、不意に込み上げてきた懐かしさも、その言葉を告げられるや否や、あっという間に霧散していった。
(……結婚が上手くいかなかった者同士、だって?)
確かに、美夜はそうだったに違いない。
だが、刀眞は自分の結婚に対してそう思ったことは一度もない。
仮に、ひかりの死が原因でそう解釈しているのであれば、余計なお世話だ。
その後も、美夜は説得を試みようとしていたみたいだが、今回も刀眞は最後まで聞かずに容赦なくメッセージを削除した。
(美夜のも着信拒否にしてたのが、裏目に出たか……)
しかし、それにしても誰が刀眞の家の電話番号を美夜に教えたのか。
まさか、再三刀眞に再婚を促す両親の仕業だろうか。
(俺が美夜と付き合ってた頃は、余計なことは何もしなかったくせに……)
おそらく、その頃から桃娘であるひかりを息子の花嫁にと、あの両親は虎視眈々と狙っていたのだろう。そして、桃娘と鬼柳本家の血を引く女鬼を天秤にかけ、前者を選んだ。
でも、ひかりが次代の桃娘一人だけ産んで早逝してしまったため、あの欲深い両親の目論見はものの見事に外れてしまった。
だから、未だに刀眞への未練があるらしい美夜と手を組んだといったところだろうか。
(どいつもこいつも……)
盛大な溜息を吐くと、迷わずリビングへと向かう。
そこでは、テレビ画面に映る猫のキャラクターに合わせ、楽しそうに踊るみことの姿があった。リズム感が良いのか、みことのダンスはなかなか様になっている。
テンポよくステップを踏んでいたみことが華麗なターンを決めたところで、刀眞とばっちりと目が合った。
みことは踊っている姿を父親に見られているとは、欠片も想像していなかったに違いない。零れんばかりに黄金の双眸を見開いたかと思えば、決まり悪そうに後ろ手を組んだ。
「……おとうさん、わたしがおどってるところみるの、やぁあ」
もじもじと足の爪先同士を擦り合わせ、ぷいっとそっぽを向いてしまったみことがあまりにも可愛らしくて、考えるよりも先に刀眞は娘の身体を抱き竦めていた。
「……みことだけが、お父さんの癒しだぁ」
「おとうさん、やぁあ! やぁあ!」
父親に踊っているところを目撃されたのが余程恥ずかしかったみたいで、みことに頬擦りする刀眞の腕をぺちぺちと叩いてくる。
だが、そんなものは抵抗のうちにも入らない。
あと、「嫌だ」が上手に言えなくて「やぁあ」と発音してしまうところもまた、微笑ましい。
カーペットの上に膝をついて娘を抱きしめていた刀眞は、そのまま抱き上げて立ち上がり、みことと一緒にその場でくるくると回る。
「きゃあああ! わあああ!」
最初こそ、目を丸くして驚いていたみたいだが、次第にアトラクション感覚で楽しくなってきたらしい。笑顔が花咲き、歓声がリビングに響き渡る。
調子に乗った刀眞が高い高いをすれば、楽しそうな笑い声はますます音量を上げていく。
みことの小さくて柔らかな身体が刀眞の腕の中にぽすんと納まったところで、もう一度娘に頬擦りをする。
「みことー、ずっとお父さんと二人で一緒にいようなー」
「ずっと?」
「ああ、ずっとな」
何の脈絡もない父親の発言に、みことは不思議そうな顔をしていたものの、やがてふわりと笑って大きく頷いた。
「……うん! わたし、おとうさんとずっといっしょいる!」
みことの無邪気な笑顔を眺めていると、胸の奥底で燻っていた怒りが綺麗さっぱりと浄化されていく。
――この笑顔を守るためならば、何だってできる。
そんな想いが芽生えるのと同時に、刀眞は娘をぎゅっと抱きしめ直した。
***
年内に、みことと幸斗の顔合わせをするという話になっていたのだが、子供の体調と仕事の都合とはままならないものだ。
みことが風邪をひき、話が一旦流れた後、今度は刀眞の仕事の関係で都合がつかなくなってしまった。
そうこうしているうちに年を越し、ようやく都合がついた日に限って、東北から北海道にかけての大雪の影響で、飛行機の欠航が相次いでいるというのだから、呪われているのではないかと徐々に思えてきた。
「おとうさん。わたしたちがのるひこうき、だいじょぶ?」
空港ラウンジで大人しくホットココアを飲みながら、飛行機の運航状況の確認のために席を外していた父親を待っていたみことが、心配そうに訊ねてきた。
幼いながらに、周囲の様子から雲行きの怪しさを感じ取ったみたいだ。もこもことしたモカブラウンのポンチョに身を包んだみことは、不安そうに表情を曇らせている。
「あー……それがなぁ……お父さんたちが乗ろうとしてた飛行機、今日は乗れないみたいなんだよなぁ……」
「そっかぁ……」
先刻買ってきたばかりの砂糖抜きのカフェラテをちびちびと啜りつつ、刀眞がそう答えれば、みことは分かりやすくしょんぼりと肩を落とした。
「じゃあ、おうちにかえるの?」
「いや……もう少しで昼になるから、なんか食ってから帰るか。みこと、何か食べたいものあるか?」
「んーと……んーとね……からだがあったまるのたべる!」
確かに今日はかなり冷え込んでいるから、みことの希望は尤もなものだ。
「じゃあ、あったかいうどんか蕎麦でも食べるか」
「うん! わたし、おうどんがいい!」
刀眞がカフェラテを飲み終える頃には、みことの飲み物も空になっていたから、手を引いてラウンジを後にした。
***
数日北海道に滞在する予定だった刀眞たちは、家から空港までタクシーで移動したため、昼食を済ませた後、帰りもタクシーに乗っていくことになった。
行き先を告げてタクシーが動き出すと、何気なく窓の外に視線を投げる。
眼前に広がる空も、どんよりとした灰色の分厚い雲に覆われており、冷え込み具合からしても、いつ雪が降り出してもおかしくない。
無言で灰色の空模様を眺めていたら、何故か唐突に嫌な予感が込み上げてきた。
タクシー乗り場へと向かう前に、飛行機の都合で今日はそちらに行けないから、また明日様子を見てから考えると、秋志には電話で伝えてある。
秋志も、小さい子供が一緒なのだから、無理だけはしないで欲しいと返してくれた。
だから、何も不安要素なんてないはずなのに、一度顔を覗かせた嫌な予感はどんどん存在感を増していく。
「……おとうさん? どしたの?」
何かと察しが良い娘に声をかけられて振り返れば、みことは不思議そうに父を見つめていた。
「……みこと。もし……今日、お父さんだけお出かけするって言ったら――どうする?」
この予感がただの気のせいで、杞憂に終わればいい。
しかし経験上、刀眞の勘は滅多に外れない。だから万が一を考慮し、行動しておいた方が良い。
そう考えた上で問いを投げかけたら、みことは一瞬きょとんと瞠目したものの、すぐににっと笑顔を作り、右手の親指をぐっと立てた。
「――いっといで!」
我が娘ながら、なかなか男前な返事だ。
「じゃあ、みこと。お父さん、なるべく早く戻ってくるから、英泉おじさんの家でいい子に待っててくれるか?」
「うん! わたしのことはいいから、おとうさんはさきにいって!」
「軽率に死亡フラグを立てるんじゃない!」
そういう台詞は、一体どこで覚えてくるのか。あまりにも滑らかに死亡フラグを乱立させかねない発言をした娘に、ついツッコミを入れてしまった。
タクシーの運転手が噴き出す音が聞こえたが、気づかないふりをする。
それから、我が家から鬼頭本家の屋敷の前へと、急いで行き先を変更してもらう。
突然の訪問に面食らう英泉と六花に手短に説明し、みことを預かってもらえるように頼み込むと、すぐさま身を翻す。
でもその直後、着込んでいた黒いダウンジャケットの裾をいきなり引っ張られた。
何事かと振り向けば、大きな黄金の瞳がじっと刀眞を見上げていた。
「――おとうさん、いってらっしゃい」
父親の急な行動に、幼いみことが不安に駆られないはずがない。
だが、みことはあくまで笑顔を崩さず、父親の背中を押してくれている。
そんなみことの強さと優しさに報いたくて、娘の小さな頭をくしゃくしゃと撫でる。
「……ああ、行ってくる。みことも、また風邪をひかないように、あったかくして待ってるんだぞ」
「うん!」
元気よく返事をするみことの声を聞き届けるなり、刀眞は今度こそ空港へと戻るため、待たせていたタクシーに再び乗り込んだ。




