第44話 愛しい命
――刀眞がおもむろに上体を起こし、立てた片膝の上で頬杖をつきながら、灯りを落とした部屋の中から、窓へと映り込む雪に彩られた夜景を何とはなしに眺め始めてから、どれほどの時間が経ったのだろう。
「……刀眞くん、寒くないの?」
背後で衣擦れの音が聞こえたかと思えば、夢と現の狭間を揺蕩う声に呼びかけられた。
頬杖をつくのをやめて振り向くと、シーツにくるまったままのひかりが横になったまま刀眞を見上げていた。どうやら一糸纏わぬ格好のままの夫が、気がかりらしい。
「……ああ、部屋の中は暖房効いてるからな。俺は平気だ。ひかりこそ、寒くねぇか?」
身体の頑丈さだけが取り柄の自分がそんな心配をされる日が来るとは思わず、苦い笑みを零す。それからひかりに手を伸ばし、乱れた濡れ羽色の髪を撫でつけるようにして頭に触れる。
「ん……わたしも平気。それに寒くなったら、また刀眞くんにあっためてもらえばいいのよ」
「……あんま無理はすんじゃねぇぞ」
ただでさえひかりはつい先刻まで処女だった上、刀眞との身長差も体格差もかなりあるのだ。身体に相当堪えたはずだ。
すると、あやすように撫でていた刀眞の手に、身じろぎしたひかりが頬を擦り寄せてきた。
「刀眞くん、心配性ね。前戯と体位次第で割とどうにかなるって、さっき証明したばかりじゃない」
桃娘とは箱入り娘として育つ割には耳年増なのだと、つい先程痛感したばかりなのだが、ひかりの場合、体力も思いの外あるのだろうか。眠そうな目はしているものの、大口を叩ける程度には身体は辛くないみたいだ。
「だとしても、だ。俺は、そこまで鬼じゃねぇよ」
そう笑って言い返せば、ひかりもくすくすと笑みを漏らす。
しかし、すぐに笑い声を引っ込めたかと思うと、緩慢とした動作で上体を起こした。そして手を伸ばし、刀眞の頬に指先で触れる。
「……心配性だから、さっきは避妊したの? 刀眞くん」
そう訊ねるひかりの声も表情も、どことなく不満そうだ。
「わたし、赤ちゃんも欲しいって、伝えたつもりなんだけど……」
刀眞の顔の輪郭をなぞる手とは反対の手で押さえていた、身体を隠していたシーツが急にはらりと落ちる。眼前に差し出された素肌は、雪明りの影響かほのかに輝いて見える。
「……子供は、まだ先でいいだろ」
「どうして? この話を先延ばしにする理由って何? 刀眞くん、いくら不本意ながらも桃娘を娶ることになったからっていって、まだ親になる覚悟ができてないって言わないわよね? 覚悟を決める時間、結構あったと思うんだけど」
「……そうだな。この二年、なんも考えなかったわけじゃねぇけど――」
ぐいぐいと詰め寄ってくるひかりの肩を、右手でそっと押す。たったそれだけの動作で、ひかりはあっさりとベッドの上に倒れ込んでしまった。
「――ひかりの死を受け止められるだけの覚悟は、まだできてねぇんだわ」
ひかりの上に覆いかぶさりながらそう告げれば、黄金の双眸がぱちりと瞬く。
「つまり……親になるのはやぶさかじゃないけど、わたしには死んで欲しくないってこと?」
「他に、どう解釈しろってんだよ」
若干呆れつつも首肯すると、信じられないものを目の当たりにしたかのように、黄金の瞳が大きく見開かれていく。それから、どうしてかひかりは泣き笑いみたいな表情を浮かべた。
「……そっかぁ……刀眞くん、わたしに死んで欲しくないって思ってくれるくらいには、情が湧いてたのね」
「まあ……一応、夫婦だしな」
ひかりが口にした情という言葉に、歯切れ悪く肯定する。
ここまでしておいて、自分でもどうかと思うのだが――とうとう、ひかりに恋をすることはなかった。
欲も、情もある。
でも、身を焦がすような激しい熱情が芽吹くことは、ついになかったのだ。
ひかりと結婚する前、付き合っていた恋人ともそうだった。
向こうから愛を告げられ、嫌でなければ付き合い、向こうが冷めたら一方的に別れを告げられ、刀眞の元から去っていく。
だが、去っていく女の背を惜しいと思ったことはないし、そういう淡白な付き合いの方が性に合っていたから、自分には恋愛感情というものが最初から欠落しているに違いない。
もしかすると、花嫁として迎え入れたひかりには恋に落ちる瞬間がやって来るかもしれないと、淡い期待を抱いていたものの、やはりそう簡単には思い通りにいかないみたいだ。
しかし、少なくとも――ひかりには、刀眞の前からいなくなっても構わないとは欠片も思えなかった。むしろ、何らかの理由でひかりが刀眞の元から立ち去ろうものなら、その時は縋りついてでも引き止める可能性すらある。
ごく一般的な既婚女性であれば、この状況下でも尚、夫からこんな曖昧な返事を受け取ろうものなら、それなりの怒りを覚えそうなものだが、桃娘として生まれ育ったひかりの感性は一味違ったらしい。
「よかった……刀眞くんがわたしの命を惜しんでくれるような旦那様で、本当によかったぁ……」
不意に両手で口元を覆ったかと思えば、ひかりの両目は今にも泣き出しそうなほどに水分を湛えていた。
泣いて喜ぶほどのことを言った覚えがないため、内心うろたえる刀眞を意に介さず、ひかりは言葉を重ねる。
「……わたしね、お母さんが亡くなった時、お父さんからも、お兄ちゃんからも、お姉ちゃんからも『お前のせいで、お母さんが死んだんだ』、『お前なんか、産まれてこなければよかったのに』って言われたの」
「……ひかりの家族、クソみてぇだな」
確か、ひかりが母を亡くしたのは五歳の頃だったと聞いた記憶がある。とてもではないが、五歳児に向けて許される暴言ではない。いや、たとえもっと年齢を重ねた時に言われていたとしても、相手の良識を疑う。
刀眞の率直な感想に、口元からぱっと両手を外したひかりは苦笑いを浮かべる。
「でもね、わたし小さい頃から根っからの負けず嫌いだったから。そんなこと言われたら、意地でも長生きしてやる、みんなが羨ましがるような幸せな生を謳歌してやるって、心に決めてたの。そうしたら――」
今度は心からの笑顔を見せたひかりが、刀眞の頬を両手で包み込む。
「――こうやって、わたしの命を惜しんでくれる旦那様に巡り会えた。こんなに幸せなことってないわ」
そして、上体を浮かせたかと思えば、刀眞の唇に掠めるようなキスを落とした。
「だからね、刀眞くん。そんな貴方の子供だからこそ、わたしは欲しいのよ。時間がかかっても構わない。いつか、心からわたしとの子供を望めるようになったら、その時は――わたしに、刀眞くんとの子供をくださいな」
愛しそうに目を細めるひかりは、年齢的にはまだ少女であるにも関わらず、既に女の顔をしていた。
吐息を零すと、やんわりとひかりの両手を自らの頬から引き剥がし、先程まで刀眞の頬に触れていた右手のひらに唇を寄せる。
「そんじゃあ、まあ……お手並み拝見といこうじゃねぇか」
「ええ、受けて立つわ。夫を良き父親に仕立て上げるのも妻の務めだって、桃娘は教わるのよ」
「……すげぇな、桃娘教育」
「ね、すごいでしょ」
互いにそう言い合った直後、どちらからともなく笑いが弾けた。
散々笑い合ったところで、刀眞はひかりの隣にどさりと倒れ込み、そのまま目を閉じた。
ひかりに恋をしているわけではない。でも、ひかりの隣は驚くほど居心地が良い。
そんなことを考えているうちに、刀眞の意識は瞬く間に眠りへと落ちていった。
――ひかりの妊娠が発覚したのは、それから一年後の春の初めのことだった。
***
――二〇〇五年十月七日。
ひかりが分娩室へと入ってから数時間後、力強い産声が廊下にまで響き渡っていく。
ひかりに「刀眞くんはいても周りの邪魔になるだけだから、廊下で待ってて」と、出産の立ち合いを拒否され、廊下での待機を命じられていた刀眞は、ようやく入室の許可が下りた。
おっかなびっくりと室内に足を踏み入れれば、ベッドの上からひかりが刀眞に手を振ってきた。額には汗が浮いて前髪が張り付き、その顔には疲労が滲んでいたものの、想定していたよりも元気そうだ。
「……ひかり、お疲れ。よく頑張ったな」
こういう時、ありきたりな労わりの言葉をかけることしかできない自分の立場が恨めしい。痛みに耐性がある刀眞が立場を変わってやれたら良かったのにと、心の底から思う。
額に張り付いていた前髪を払いのけていると、ひかりが勝ち気な笑みを浮かべた。
「刀眞くん、わたしが負けず嫌いなのはよーく知ってるでしょ? 痛みにだって勝ってみせたんだから、もっと褒めてちょうだい」
「偉大なるひかり様、よくぞご無事で……これからも一層、尽くしていく所存でございます」
「え……刀眞くん、あれ以上過保護になるの……?」
ひかりの望み通り、刀眞なりに褒め称えて献身を誓ったら、何故か露骨に嫌そうな顔をされてしまった。
「あの程度、過保護のうちには入らねぇだろ」
ひかりはつわりが重いタイプで、妊娠初期は食事がままならなかったし、ようやく安定期に入ったかと思えば、だんだんと腹部が大きく膨らんでいき、家の中を歩いているだけでも転びやしないかと、気が気ではなかった。
ただでさえ、ひかりは身体が丈夫な方ではないのだから、最大限気にかけるのは当然のことだったと思う。
「いや、家事を全部引き受けてくれたのはありがたかったけど……具合が良い時も、ろくに歩かせてすらくれなかったじゃない。どこに行くにも刀眞くんに抱えられて、基本的に寝室に押し込められて……監禁一歩手前だったわよ、あれは」
ひかりが頬を引き攣らせてばっさりとそう切り捨てた直後、生温い目をした助産師がこちらへと歩み寄ってきた。
「お父さん、お母さん……盛り上がっているところ申し訳ありませんけど、お子様をお連れしました」
産湯に浸かってきたらしい刀眞たちの子供は、身を清めてさっぱりしたからか、先刻に比べて大人しくなっていた。
「その……とても元気な、女の子ですよ」
子供が健康体で産まれてきてくれたことは、非常に喜ばしいことのはずなのに、何故か助産師の表情は芳しくない。
この病院は鬼の関係者が経営しており、勤務しているスタッフも関係者か鬼そのものだ。だから、桃娘についての情報もある程度共有されている。
産まれてきた子が女児だったことと、助産師の反応から、ふと嫌な予感を覚える。
助産師から細心の注意を払って差し出された、おくるみに包まれた我が子をおそるおそる受け取った途端、娘のまだむくんだ赤い顔から覗く黄金の双眸が、真っ先に視界に映り込んだ。
――あれほど死んで欲しくないと望んだ花嫁が出産したのが、母を死に追いやる桃娘だと発覚した時点で覚えるべき感情は、絶望なのだろう。
だが、刀眞の胸の奥底から湧き上がってきたのは――どうしようもないくらいの愛しさだった。
こんなにも小さくて脆い命にも関わらず、懸命に産声を上げてこの世界に誕生した存在を、どうして憎悪できるだろう。
たとえ、いつかそう遠くない未来、刀眞からひかりを奪うとしても、この無垢で残酷な生き物を愛さずにはいられなかった。
「みこと」
――もし、産まれてきたのが娘だったら名付けようと、ひかりと一緒に決めていた名を呼ぶ。舌の上で娘の名を転がすと、より一層愛しさが込み上げてくる。
娘に――みことに顔を近づければ、母親よりは淡い桃に似た香りが鼻先をくすぐっていく。
産まれてきたばかりの赤子だから、みことの表情は極めて希薄だ。目も見えているのかどうか判然としないものの、刀眞の顔をぼんやりと眺めているみたいだ。
「俺がパパだよ。これから……よろしくな」
きっと、自分は理想的な父親にはなれやしない。
しかし、それでもこの子のために少しでも良い父親になりたいと、心の底から思ったのだ。
結局ひかりにせがまれるまで、刀眞は可愛くて仕方がない娘を手放すことができなかった。




