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【完結】桃娘と愛を乞う鬼  作者: 小鈴 莉子
第3部 修羅と桃娘の婚姻
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第43話 誘惑

「あー、雪まつりは楽しかったし、ゆきくんは可愛かったし、アリアが作ってくれたラビオリとミネストローネとジェラートは美味しかったし、今日は良い日だったなぁ」


 予約していたホテルへと戻り、入浴を済ませたひかりはクリーム色のネグリジェを身に纏い、上機嫌にところどころ音程が外れた鼻歌を歌いながら、丁寧に乾かした濡れ羽色の髪を丹念にブラッシングしている。


 自前の寝巻きを身に着けているひかりとは違い、アメニティに含まれていたダークグレーのバスローブに身を包んだ刀眞は、浮かれている花嫁を横目に捉えつつも、ベッドに腰かけたままそっぽを向いていた。


 刀眞と同じようにベッドに座っていたひかりは、おもむろにブラッシングの手を止めて立ち上がったかと思えば、こちらに歩み寄ってきて、すとんと隣に腰を下ろした。


「なぁに、刀眞くん。まだ拗ねてるの?」


「……拗ねてねぇよ。ただ、ゆきの名付け親への態度がなってなくて、納得できてねぇだけだ」


「それを、拗ねてるっていうと思うんだけど……」


 苦笑いを浮かべたひかりは手を伸ばし、刀眞の頭をそっと撫でる。


「もう。相手は赤ちゃんなんだから、仕方ないでしょ」


「いーや、あれは成長したら余計に生意気になる気がするな。俺の野生の勘が告げてる」


「刀眞くんの野生の勘、的中率が高いけど、今回ばかりは外れると良いわね……」


 ひかりは苦い笑みを深めながら、まだ刀眞の頭を撫で回してくる。そんなに触り心地が良いのだろうか。


「それにしても、刀眞くん。本当に子供への苦手意識がないのね。将来、良いお父さんになりそう」


 刀眞の頭を撫でていた手を引っ込め、神妙な面持ちでそう告げたひかりに、思わず眉間に皺を刻む。


「そうかぁ? 俺が親になんかなったら、反面教師にされる未来しか思い浮かばねぇ」


「そう? 刀眞くん、基本的に大らかだから、大抵のことは受け入れられる器があるし、相手と同じ目線で物事を考えることができるじゃない。良い親になる素養はそれなりに高いと思うけど」


 刀眞の場合、大らかというよりも色々と大雑把なだけな気がする。その延長で、目の前の相手に合わせることがそれほど苦ではないだけだ。


「刀眞くん、良いお父さんになれそうだからね――わたし、そろそろ刀眞くんとの子供が欲しいわ」


 続けられた言葉に呆気に取られた刀眞に、ひかりがにっこりと笑いかけてくる。

 だが、その黄金の双眸はどこまでも真剣だ。


 声すら出せずにいる刀眞に構わず、ひかりはベッドの上に這い上る。そして、刀眞の後ろに回ってきたかと思えば、ぎゅっと抱きつかれた。


「刀眞くん……わたし、あと何日かしたら、十八歳になるのよ。刀眞くんからしたら、まだまだ子供だろうけど……初めて会った時に比べたら、ちょっとは大人になったのよ」


 そんなことは言われなくても、背中越しに伝わってくる柔らかな肢体(したい)の感触でよく分かる。


 刀眞と二人で暮らすようになってからというもの、以前は虐待でも受けていたのではないのかと思うくらい、ひかりは身体的にみるみるうちに発育が良くなっていった。


 もしかしたら、それまではかなりのストレスに晒される環境に身を置いていたみたいだから、それが原因で身体が栄養を吸収しづらかったのかもしれない。


 しかし、今では線の細さこそ残っているものの、胸は大きく膨らみ、全体的に女性らしい柔らかな曲線を描いた体つきへと変貌を遂げていた。


「それとも……今のわたしでも、まだ物足りない? もっと大人にならなきゃ駄目?」


 刀眞の耳元に触れる吐息は熱を孕んでいるだけではなく、緊張に震えている。箱入り娘のひかりから懸命に誘っているのだから、無理からぬ反応だ。


「……うちの馬鹿親に、何か言われたか」


 でも、刀眞の理性は恐ろしく冷静なままだった。それこそ、必死に頑張っているひかりに申し訳なさを覚えるほどだ。


「……今の家に引っ越したばっかりの時に、一回だけ電話がかかってきたわ。でも、もう二年近く前の話だし、それからはあの家からの電話は出ないようにしてたから、別にそれで気に病んだとかじゃ――」


「――本当に、そうか?」


 これまで知らなかった、父あるいは母のひかりへの仕打ちに、自然と舌打ちが零れる。

 大方、刀眞が家を留守にしている時を見計らい、電話越しにひかりに接触を図ったのだろう。


 相変わらず振り返りもせずに刀眞が問いを重ねると、触れ合っているところから微かに苛立ちが伝わってきた。


「刀眞くんには悪いけど……あんな義両親に何か言われたところで、わたしが刀眞くんに自分からこんなこと言い出すわけないじゃない。わたしが……」


 そこまで口にしたところで、ひかりの唇から零れ落ちる息が、先程よりもはっきりと震える。それから、ひかりが刀眞の首筋に顔を埋めてきた。


「……わたしの意思で、刀眞くんが欲しいって心から願ったの。刀眞くんとの子供だって……欲しいの」


 今日、赤子である幸斗と触れ合ったことで、ひかりの中で母親になりたいという願望が芽生えたのだろうか。そして、その望みが性欲まで呼び覚ましたのか。


 犬や猫を飼いたいという感覚で子供を欲しがっていやしないかと、視線だけ動かしてひかりを窺い見れば、濡れ羽色の髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっていた。


 刀眞の視線に気づいたのか、ゆるゆると持ち上がったひかりの顔も、()れた林檎みたいに赤く色づき、黄金の瞳にはうっすらと涙の膜が張って潤んでいた。


「それでも……駄目……?」


 ――媚薬を女の形に練り上げたならば、こうなるだろうという形をしている。

 いつだったか、桃娘とは鬼にとってそういう存在なのだと、酒の席で聞いた覚えがある。


 刀眞の首に巻きついていたひかりの華奢な両腕を慎重に外し、ゆっくりと身体の向きを変える。

 刀眞の理性も、存在そのものが媚薬のようだとたとえられる桃娘に溶かされたのだろうか。それにしては気持ちが凪いでいたが、ひかりが心から望むのであれば、叶えてやりたいと思ったのだ。


「――先に言っておくが」


 ひかりの顎を、壊れ物を扱うかのごとき繊細な仕草で掬い上げる。


「途中で『やっぱりやだ』って言ってやめてやれるほど、俺は優しくはねぇぞ」


 半ば脅すような口調で忠告すると、ひかりの(おとがい)を掴む指先から、確かな震えが感じ取れる。


「もう子供じゃねぇって言い張るなら、自分が言ったことくらい自分で責任取れ……今のひかりには、それができるか?」


 再度問いを投げかければ、淡く色づいた花びらみたいな唇がわななくように開かれた。


「刀眞くん……わたしが自分で自分の責任取れるようになるまで……大人になるまで、待っててくれたの?」


 ひかりの顎を掴んで離さない刀眞の手に、白くて小さな手がおずおずと添えられる。


「刀眞くんって……わたしが今まで会ってきた男鬼の誰よりも、本当に真っ当で良識を(わきま)えた鬼ね」


 そして、刀眞を怖がる素振りは一切見せぬまま、ふわりと花が綻ぶような微笑みを浮かべた。その拍子に、ひかりの目尻に溜まっていた涙の粒がぽろりと零れ落ちていく。


「……んなこと、初めて言われたな」


「なら、きっとみんなの見る目がないのね。だって」


 ひかりの頤を掴んでいた指先を、そっと外されていく。それから、ひかりは刀眞の手を持ち上げ、頬を擦り寄せてきた。


「男鬼にとって、桃娘に手を出さずにいるのって、とっても難しいことなのよ? それでも、刀眞くんは理性を手放さずに、年上らしく未熟なわたしのことを見守っててくれた……それが、どれだけ嬉しかったか……桃娘じゃない刀眞くんが理解するには、ちょっと難しいかもしれないわね」


「それ……他の奴らの理性がよっぽど脆いか、俺にどっか欠陥でもあるんじゃねぇの?」


 他の男鬼は一体、どれだけ飢えているのか。ひかりにそう言わしめるほど、本能に容易く翻弄されてしまうのかと、呆れてしまう。


「たとえ、そうだとしても……こうやってわたしを大事にしてくれる刀眞くんだからこそ……わたしの初めてをもらって欲しいって、そう思ったの」


 涙に濡れた黄金の双眸が、焦がれるように刀眞を見つめてくる。


「だから……もらって、くれますか……?」


 その囁き声が鼓膜を震わせるや否や、気づけばひかりの頬にあてがわれていた手を引き抜き、濡れ羽色の緩やかに波打つ髪に覆われた後頭部へと回し、ぐっと引き寄せていた。それと同時に、心得ていると言わんばかりにひかりの瞼が下ろされた。


 互いの唇が重なり合った途端、そういえば今までキスさえしていなかったことに気づいた。

 知らず知らずのうちにキスすら避けるほど、刀眞にとってひかりは庇護の対象だったに違いないと、その唇の感触とぬくもりを味わいつつ、未だ残されている理性が他人事みたいに分析する。


 キスが深まっていくほどに、ひかりから発せられている桃みたいな甘く瑞々しい香りが強く誘いかけてくる。


 (つや)やかな濡れ羽色の髪に指を絡め、キスを繰り返すうちに赤く色づいてきた唇を尚も貪ったまま、ひかりの柔らかで繊細な肢体を可能な限り優しくベッドの上に横たえる。


 そして、一度目の前の唇を解放し、灯りを消そうと起き上がろうとした直前、ひかりが自らに覆い被さる刀眞の片腕を掴んできた。


「と……刀眞くん……その、灯りは消さないで欲しいの……」


「……は?」


 消え入りそうなか細い声で告げられた予想外の頼みに、つい眉根を寄せる。


「あ……あのね、今夜のこと死ぬまで忘れたくないから……しっかりと目に焼きつけておきたいから……だから」


 刀眞の腕を掴んでいない左手に、頬をするりと撫でられる。


「このまま、して……ください」


 ――そう乞われた直後、ついに理性が焼き切れる音が聞こえた気がした。

 もう幾度重ね合わせたかも知れない唇を改めて奪い、ゆっくりとひかりが身に着けているものを剥ぎ取っていく。


 真っ白なシーツに散る長い黒髪も、徐々に露わになっていく透き通りそうなほど白い肌も、ひどく扇状的だ。


 だがそれ以上に、蠱惑的に細められた月のような瞳や美しく弧を描いた唇、それから砂糖菓子みたいな声に、刀眞の心は惹かれてやまなかった。

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