第42話 鬼柳幸斗
「……いよいよね」
「秋志たちの子供の顔を見に行くだけだってのに、なんで戦を控えた武将みてぇな顔してんだよ」
隣でキリッと表情を引き締めつつ、慣れない雪道を慎重に歩くひかりに手を貸す。昼間は一旦止んだ雪が、夕方になってからまたしんしんと降り始めてきた。
――ひかりと結婚してから、もうすぐ二年近く経つ。
その間に、秋志とアリアがついに鬼柳本家から逃げ出し、駆け落ちした先である北海道で子供を授かった。
秋志たちは波瀾万丈な時を過ごしていたが、刀眞とひかりは相変わらず兄妹みたいな、至って安定した関係性を保っていた。
白くてもこもことしたニット帽とアウターに身を包んだひかりは、むっと唇を尖らせた。
「だってわたし、小さい子とろくに接したことないんだもの。緊張するに決まってるでしょ」
「大丈夫だって。子供とはちゃんと目を合わせて話聞きながら、うんうんって適当に相槌打ってりゃいいんだよ」
これは、刀眞が親戚付き合いしてきて思ったことだ。大抵そうしていれば、向こうは勝手に満足してくれる。
刀眞がそう返すと、ひかりは意外そうに目を丸くした。
「……刀眞くんって、意外と小さい子の相手するの、得意?」
「得意かどうかは分かんねぇけど、相手することはちょいちょいあるからな」
現に、英泉の息子である恭矢とは顔を合わせれば、遊び相手を務めている。刀眞が遊び相手をすると、恭矢ははしゃいで喜ぶのだから、子供の相手はおそらく苦手ではないはずだ。
「ふぅん……」
刀眞の返事を受け取るなり、ひかりは神妙な面持ちになり、何やら考え込む素振りを見せた。
駐車場からブーツでさくさくと雪を踏み締めながら進んだ先には、ミッドナイトブルーの屋根とスノーホワイトの壁が特徴的な家がある。
陽はとっくに沈んで辺りが暗闇に包まれる中、窓から零れる灯りがやけに暖かそうに見える。
刀眞が躊躇なくインターホンを押そうとした寸前、不意にひかりに黒いダウンジャケットの袖を引っ張られた。
振り返れば、黄金の瞳が刀眞をひたと見据えていた。
「……刀眞くん、最後にもう一回だけ確認するけど……アリアはまだ記憶が戻ってないの?」
――ひかりの言う通り、アリアは何もかも捨てて駆け落ちしてから、秋志以外の存在を忘れ去ってしまったのだ。
自分の身に降りかかった悲惨な出来事も、その元凶たる柊一のことも、自らが産んだ息子である暁斗のことも、何一つ記憶に残っていない。
「ああ、何も思い出しちゃいねぇよ。だから今まで通り、鬼の一族の話題には触れねぇようにな」
二人の間に子供が産まれてから会うのは今日が初めてだが、秋志たちの駆け落ちを手引きした縁で、刀眞は折を見て様子見に訪れていたのだ。
その際、何度かひかりも一緒に連れてきたから、二人とは既に顔見知りだ。
「うん、分かったわ。任せて」
ひかりが真剣な表情で頷いたのを確かめると、今度こそ眼前の家のインターホンを押す。
軽やかな呼び出し音が真冬の冷たい空気を切り裂くや否や、玄関に二人分の足音が近づいてきた。
その直後、目の前の黒い玄関扉がゆっくりと開かれていく。
「――刀眞、ひかりさんも。わざわざ遠くから、ありがとう」
扉が開いた先では、エバーグリーンのタートルネックのセーターとアイボリーのスラックスを身に着けた秋志が、快く出迎えてくれた。
駆け落ちする前より、明らかに表情が柔らかくなった上、顔色も良くなった気がする。
「おう、久しぶり。悪いな、雪まつり見てから来たから、遅くなっちまった」
「本州からせっかくここまで来たんだから、観光ももっと楽しんでいきなよ」
「言われなくても、そのつもりだ」
「――お久しぶりです、秋志さん。今さらですけど、改めて新年のご挨拶を。昨年は大変お世話になりました。今年も夫婦共々、何卒よろしくお願いいたします」
刀眞たちの会話に一区切りついたところで、ひかりは一歩前に進み出ると、美しい所作で頭を下げた。
普段、刀眞の前では年相応に振る舞っているから、何かと忘れがちだが、幼少期から礼儀作法を叩き込まれてきたらしいひかりは、たとえどれだけ親しい相手にもきちんとした挨拶をする。こういう人を、育ちが良い人と表現するのかもしれない。
「わざわざご丁寧に、どうもありがとう。こちらこそ、いつもお世話になってます。これからも、どうぞよろしくね」
「――もう、秋志! そんな寒いところに、一体いつまでお客様を立たせておくつもり?」
このままでは、いつまでも立ち話が続くと思ったのだろう。秋志の後ろに控えていた、赤子を抱えたアリアが眉を吊り上げ、夫を軽く睨む。
すると、アリアが抱えていた、ベビーブルーの肌着とカバーオールに身を包んだ赤ん坊が、むずがるように身じろいだ。
「あ! その子がゆきくん?」
先程までの緊張感は何だったのか、ひかりは興味津々に秋志とアリアの息子――幸斗に視線を定めた。
ひかりは未知に対して不安がる割に、いざ目の当たりにすると、好奇心が勝るタイプなのだ。
途端に、そわそわと良い意味で落ち着きをなくしたひかりに、秋志が柔らかく笑いかける。
「アリアの言う通りだね。刀眞、ひかりさん、どうぞ上がって」
「はい、お邪魔します!」
いそいそとキャメル色のショートブーツを脱ぐや否や、ひかりがアリアの元へと駆け寄っていく。
「はじめまして、ゆきくん! ひかりお姉ちゃんだよー」
ひかりがにこにこと笑いかけつつ、幸斗の小さくて柔らかそうな手をそっと握って軽く振る。
しかし幸斗の反応は薄く、目の前の見知らぬ少女をぼんやりと見返すだけだ。まだ、生後四カ月目だからだろうか。
そんな息子に視線を落としたアリアは、苦い笑みを零した。
「ごめんなさいね。ゆき、ものすごくぼんやりさんなの。ほとんど泣きもしない代わりに、愛想もなくて……」
「え、ほとんど泣かないって……夜泣きもしないってこと?」
「滅多にしないわね」
「それ、母親としては最高じゃない! ゆきくん、しゅごいですねー!」
幸斗の感情の起伏の少なさを前向きに捉えたひかりは、素直に感動したみたいだ。ますます頬を緩め、幸斗の顔を覗き込むものの、やはりこれといった反応は返ってこない。
刀眞も黒いワークブーツを脱いで家の中に上がり、きゃっきゃと盛り上がる女性二人を何とはなしに眺める。
「……アリアの奴、明るくなったな」
「明るくなったっていうより、昔に戻ったって感じかな」
ダイニングに入っていく二人に続きながら、刀眞は秋志と耳打ちし合う。
――記憶を失ったと聞けば、悲壮感溢れる状況に陥っているに違いないと、多くの者が考えるはずだ。実際、刀眞も秋志から話を聞いた時点では、二人の様子を見にいく時は覚悟を決めていかなければいけないと思った。
でも、いざ蓋を開けてみれば、記憶喪失に陥ってからのアリアは、これ以上ないほど幸せそうだ。
最愛の夫との間に子供を授かり、朗らかに微笑むアリアの姿を見ていると、忘却がもたらすものが必ずしも不幸だとは限らないのだと、まざまざと思い知らされた。
「それで……名付け親としては、うちの息子、どう思う?」
話題を変えるように悪戯っぽく問われ、アリアの腕の中に納まっている、うっすらと生えてきた柔らかそうなプラチナブロンドと、紫水晶の双眸が目を惹く赤子に視線を向ける。
「なんつーか……御伽噺にでも出てきそうな子供だな? 海外の名前をつけた方がよかったか?」
幸斗という名は、誰かの手を借りるのではなく、自らの手で幸せを掴み取れという願いを込めてつけたものの、ここまで西洋の血が濃く出るとは思わなかった。日本風の名前では、幸斗の場合、かえってしっくり来ないかもしれない。
せっかく頼られたのだからと、あまりにも真剣に秋志たちの子供の名前に悩み過ぎた結果、知恵熱を出してひかりに散々からかわれたというのに、さらにこの体たらくとは、刀眞にはネーミングセンスというものが欠落しているのかもしれない。
刀眞が珍しく弱気な発言をしたからか、秋志はくすりと笑みを漏らす。
「いや、海外の名前をつけたら、余計に周りに馴染めなくなりそうだったから、刀眞がつけてくれた名前が日本風でよかったよ。それに、僕もアリアも幸斗って名前、すごく気に入ってるんだ。ゆきって呼んだ時の響きも好きだし」
「そうか? なら、よかった。そんじゃ、気にしねぇことにするわ」
ダイニングに入るなり、刀眞は遠慮なくライムグリーンのソファにどかりと腰を下ろす。こういう時、客人が意味もなくうろついていても、家人に迷惑をかけるだけだ。
「――刀眞くん、見て見て! アリア、お夕飯の支度をする間、ゆきくんのこと見ててってお願いされたんだけど、わたし、赤ちゃん抱っこできたよー!」
上着を脱ぎ、アイスブルーのタートルネックのニットに、アッシュグレーのロングスカートという出で立ちになったひかりは、興奮を露わに刀眞の元へと歩み寄ってきた。それから、慎重に刀眞の隣に腰かける。
これだけ耳元で騒がれているというのに、幸斗は泣きもせずにぼんやりと自分の親指をしゃぶっているのだから、将来なかなかの大物になるかもしれない。
「おー、ゆき。こんなに可愛い姉ちゃんに抱っこしてもらってるんだから、もっと喜べよ」
そう言いながら、白くてふくふくとした頬を指先でくすぐってやったら、何故か幸斗が露骨に嫌そうな顔をした。先刻までの夢現の表情はどこに行ったのか。
幸斗の明確な表情の変化に、ひかりが軽やかな笑い声を上げる。
「刀眞くん、さっそく嫌われてるー。まぁ、確かに鬱陶しいお兄ちゃんは嫌ですよねー。ゆきくん」
「ゆき、おま……っ! 仮にも名付け親相手に、その態度はないだろ! 後ろ盾になってくれる相手には、媚売るくらいしろよ!」
赤子相手に何を力説しているのかと、内心自分自身に呆れたものの、あからさまな反応に言わずにはいられなかった。
その上、幸斗がふいっと刀眞から顔を背けたものだから、ひかりの笑い声はますます止まらなくなってしまった。




