年下の努力家の許嫁 後編
今日初めて声を荒げた香夜に呆気に取られる恭矢に構わず、目の前の少女は必死の形相で言い募る。
「私は……っ! 今すぐにでもきょうくんの許嫁にならないと、駄目なんです! じゃないと、お母さんを安心させてあげられない!」
「お母……さん……?」
おそらく、普段の香夜は声を荒げたりしない子供なのだろう。少し叫んだだけなのに、すぐに息苦しそうに表情を歪めた。
恐ろしく健康的なみことの相手ばかりしていたから、小さな女の子のこんな顔を見るのは生まれて初めてだ。
焦燥に駆られるがまま慌てて香夜の前にしゃがみ込み、その華奢な背を慎重に擦る。
「香夜は……お母さんのために、俺の許嫁になろうとしてるのか」
香夜の目線に合わせ、努めて平静な声でそう問いを投げかければ、おずおずと頷かれた。
「はい……お母さん、自分の結婚が失敗だったから、私たちは絶対に幸せな結婚をしなさいって、言い聞かせられてきたんです」
確かに、美夜の結婚は幸福なものではなかっただろう。自分と同じ苦労を娘たちにはさせたくないという気持ちも、何となくは理解できる。
しかし、だからといって自分が得られなかったものを娘に託すというのは、どうなのか。いくら親子だからといって、娘も自分と同じものを望むとは限らないのに。
「だから、お母さん……きょうくんとの縁談が来た時、それはもうすごい喜びようだったんです。きょうくんは、当代の桃娘の面倒をよく見る、優しくて良いお兄ちゃんだから……きっと、私のことも大事にしてくれるって……」
「……お母さんの期待に応えたかった?」
「はい……私、きょうくんの未来のお嫁さんになって、お母さんにもう心配しなくて大丈夫だよって、言いたかったんです。お母さんと同じにはならないから、大丈夫だよって……」
恭矢の質問に答えていくにつれ、香夜の小さな頭は徐々に項垂れていく。
香夜が母親にされたことは、虐待というほどのものではないのかもしれない。
でも、ひどく精神的に追い詰められているように見える香夜を前にしていたら、だんだんと可哀想になってきた。
「……あのな、香夜。俺は今すぐ決める必要はないって言っただけで、香夜のことを駄目な子とも、将来の相手に考えられないとも言ってないぞ。ただ……香夜がもう少し大きくなってから考えて、どうするのか決めて欲しいって思っただけなんだ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいですけど……お母さんは、それじゃあ納得しないと思います」
「香夜、香夜の人生は香夜だけのものだろ? お母さんのものじゃない。香夜が好きなように決めていいし、好きなように生きていいんだ」
大体、親という生き物は大抵の場合、子供よりも先にこの世からいなくなってしまうのだ。
納得できることならまだしも、そうでないことにまでそんな存在の言いなりにならなければならない道理が、どこにあるというのか。
「でも……私、お母さんをがっかりさせたくない……嫌われたく、ないです……」
だが、香夜は恭矢の言葉を受け止めきれなかったらしく、ますます俯いてしまった。
幼い香夜には、まだ難しかっただろうか。それとも、それほどまでに美夜の言葉は香夜にとって根深いものなのだろうか。
「……じゃあ、香夜。こうしよう」
僅かな逡巡の末、そう声をかければ、香夜が少しだけ顔を上げた。
「俺と香夜は、婚約する。でも婚約って、将来結婚するよって約束するだけだから。絶対的なものじゃない。だから、香夜が大きくなってから、俺と結婚するのはやだなーって思ったら、すぐに俺に言いなさい。そうしたら、俺がどうにかしてやるから」
もし成長していくにつれ、香夜が恭矢との結婚に躊躇いを覚えるようであれば、それらしい理由をでっち上げて婚約を解消することくらい、造作もない。
香夜に非はなく、恭矢に問題があっての婚約の解消であれば、両親とも表沙汰にならないように速やかになかったことにして、新しい相手を用意するに違いない。
「だから、香夜。お母さんの言いなりにも、俺の母の言いなりにも、俺のいいなりにもならなくていいんだ。俺は、香夜には自分の心に従って生きて欲しい」
「きょうくん……どうして、今日会ったばかりの私に、そこまでしてくれるんですか」
そう問いかけてくる香夜の目は潤み、ふとした拍子に泣き出してしまいそうだ。
こういう顔はみことを通して何度も見ているから、今度は余裕を持って接することができた。
「だって君は、お母さんのためにものすごく頑張ってるじゃないか。妹のことだって、お母さんの代わりによく面倒を見てる。それは誰にでもできることじゃないって、君はとても優しい良い子だって、今日会ったばかりの俺にも分かるよ」
香夜の背を擦っていた手を離し、その小さな両手をそうっと包み込む。
恭矢は父親に似て馬鹿力だから、この繊細な手をうっかり握り潰してしまわないように気をつけながら、力の加減を調整していく。
「だからこそ、香夜は幸せになるべきだ。でも、香夜の幸せは香夜以外の誰かに決めつけられたものじゃなくて、香夜が自分で望んだものであって欲しいんだ。これは、俺の我儘だ」
小さい子にこうして欲しいと伝える時は、上から押さえつけるようにして命じるのではなく、あくまでこちらが願う形を取る方が素直に受け取ってもらえると、みことのお守りの経験が裏付けしていた。
だから、香夜に対してそう告げれば、ふっくらとした柔らかそうな唇が、わななくようにして開かれた。
「……じゃあ、もし私の気持ちが変わらなかったら。花嫁修業をもっともっと頑張って、自分磨きをして、いつかきょうくんの隣に立っても恥じない、大人の女性になれたら――」
恭矢の手の中から香夜が自分の手を引き抜こうとしているのを感じ取り、解放するや否や、迷うような素振りを見せられたものの、朽葉色の袂を掴まれた。
「――私を、きょうくんのお嫁さんに、してくれますか?」
透き通りそうなほど白い頬は、今や庭で綺麗に色づいている紅葉みたいに真っ赤に染まり、恥じらうように胡桃色の双眸が伏せられた。
「こ、これは、私の心からのお願い、です」
――こんなにも幼いうちから美しい子に、こんな風にいじらしく乞われ、誰が否やと言えるのか。
「……ああ、もちろんだ」
「不束者ですが、その時はどうぞよろしくお願いします」
「その時は、こちらこそよろしく頼むよ」
――これから先、自分たちの関係はどうなるのだろう。
恭矢の気持ちがどう変化するかも、香夜の心が別の誰かに移ろうのかも、今はまだ分からない。
だが、どんな結果に転ぼうとも、この健気で努力家の女の子が成長していく過程と、明るい未来を掴み取る様を見守れたらいいと、心の底から思った。
***
「――いやぁ、昔の香夜は可愛かったなぁ」
「あら、なあに? それじゃあ、今の私がちっとも可愛くないみたいじゃない」
香夜の膝に頭を乗せて耳かきをしてもらい、まどろんでいたら、唐突に二人が初めて出会った日を思い出し、つい素直な感想を吐露すれば、不満そうな声が頭上から降ってきた。
練り色の地に藤の花が描かれた紗袷に包まれた香夜の膝をぽんぽんと叩き、一旦耳かきの手を止めてもらうと、くるりと寝返りを打って妻の美しい顔を見上げる。
つい先日の五月二日、誕生日を迎えて二十三歳になった恭矢の妻の美貌はさらに磨きがかかり、あまりの瑞々しさに目が潰れそうだ。将来は間違いなく、美魔女の一員に嬉々として加わるに違いない。
「今は可愛くて、綺麗で、色っぽくて、聡明で、よく気が利いて、料理上手で、最高の妻だ」
刀眞や父である英泉に倣い、妻に賞賛を惜しみなく浴びせたら、香夜はほんのりと色づいた頬を嬉しそうに緩めた。
父にいくら褒められても、わざと素っ気ない態度しか取らない母とは違い、香夜のこういう素直な反応は非常に好ましい。
「……あら、そこに床上手は入れてくれないの?」
「今はまだ昼間だから、入れない」
この努力家で勉強熱心な妻は、いつ如何なる局面でも手を抜かない最強の花嫁に進化を遂げていた。
「旅行中は、昼間だろうと何だろうとはっちゃけてたじゃない」
「だから、帰ってきた今は、自重してるんだ。それに、はっちゃけてたのはお互い様だろう」
香夜と夫婦になってから、毎年互いの誕生日には旅行に出かけていた。
しかし、結珠が産まれてからは、まだ赤子である娘に負担を強いるような真似はしたくなかったから、もう少し大きくなるまでは旅行は取りやめにしていたのだ。
そうしたら、恭矢の母である六花が、結珠もそろそろ二歳になるし、祖父母たる自分たちが面倒を見るから、今年はいってらっしゃいと背中を押してくれたのだ。
恭矢も香夜も、せっかくの厚意なのだからとありがたく受け取ったのだが、いくら両親に任せられるとはいえ、あまり長い間甘えるのも心苦しいからと、近場の温泉に二泊三日で行ってきたのだ。
でも近場とはいえ、夫婦水入らずでの旅行が久しぶりだったせいだろうか。まだまだ互いに若い夫婦は、前述の通りの事態に陥ってしまったのだ。
再び寝返りを打って横向きになると、上からくすりと笑み交じりの吐息が降り注いできた。それから、耳かきが再開された。
「そういえば、誕生日といえば、来月はもう結珠の誕生日ねぇ」
「う……小さい子の成長は早い……」
「感慨に耽ってるところ悪いけど、一緒に誕生日のプランを考えてもらうわよ。まずは、プレゼントね」
「機能性と思い出に残るか否か、どっちを重視する?」
「そうねぇ……実用性を重視するなら、そろそろ新しい洋服と靴を買いたいところだけれど……」
「だから、なんで小さい子の成長はそんなに早いんだ……!」
「はいはい、感傷に浸るのはあとにしてちょうだいね。でも、結珠の最近のお気に入りは絵本やお人形さんだから、新しい絵本とかドールハウスとかでもいいわね」
「ああ……この間、父上がうっかり結珠のドールハウスを踏み壊したからな……」
あの時の娘の怒りと嘆きは、それはもう凄まじかった。
声を張り上げて泣き叫び、宥める両親を渾身の力で叩き、「じいじなんて、だいっきらい!」と言い放ったのだ。
その上、結珠が祖父である英泉とまた口を利くようになるまで、一週間近くもかかったのだ。父のあのうろたえようはなかなか見ものだったものの、あの仕打ちを自分がされたらと思えば、胸が痛んで仕方がなかった。
「……結珠の気持ちを最大限汲むなら、ドールハウス一択だな」
「そうね……聞くまでもなく、最初から悩む余地なんてなかったわね……」
しみじみと頷き合うと、香夜は自身の唇に人差し指を当てる。
「うーん……プレゼントは早々に決まったから、あとは選んで買うだけね。そうしたら、食事はどうしようかしら……結珠の年齢を考えると、外食はまだ難しいだろうし……いつも通り、私が作るか……ちょっと奮発して、いつもより豪華なお料理をテイクアウトするか……」
「香夜」
今度は誕生日当日の料理に頭を悩ませ始めた香夜の顔をぼんやりと眺めているうちに、自然と妻の名を呼んでいた。
「ん? なあに?」
「今、幸せか」
過去を思い出したついでに、ふと湧き上がってきた疑問を口に出せば、香夜はころころと笑い始めた。
「見て分からない? 幸せに決まってるじゃない。言いたいことを言い合えて、私のことを大事にしてくれる旦那様と結婚して、可愛くてしょうがない娘まで授かったのよ? しかも、今はその娘をどうやって喜ばせようかって、頭を悩ませてる。こんなに幸せなことってないわ」
そこには、かつて強迫観念に縛られていた少女の面影はなかった。
ただ朗らかに笑う、妻であり母でもある女性の姿があるだけだ。
恭矢が口を開きかけた寸前、遠くから足音と話し声が聞こえてきた。どうやら、近所の公園へと散歩に出かけていた六花と結珠が帰ってきたみたいだ。
「あら。結珠とお義母様、帰ってきたのね。それじゃあ、私はお茶の用意でも――」
香夜が立ち上がろうとする気配を察し、柔らかさ弾力を誇る寝心地が良い膝からゆっくりと起き上がる。
「――香夜」
そして、その流れで掠めるように妻の唇を奪う。
「お茶の支度をしてくれたら、後片付けも、結珠の遊び相手も、結珠の寝かしつけも俺がやるから、香夜は少しゆっくり休んでなさい」
この妻は、今でもついつい頑張り過ぎてしまうところがあるから、恭矢が意識的に休息の時間を作らないと、加減を知らずに家事にも育児にも励み過ぎてしまうのだ。
不意打ちからまだ立ち直れていないらしい香夜の肩をぽんと叩き、先に腰を上げて廊下に出ようとしたら、どこか拗ねたような声が鼓膜を震わせた。
「もう……私の旦那様は、いつまで経ってもずるいわ……」
これにて、幕間は完結です




