美しい姉と、愛されるあの子 前編
鬼柳沙夜の姉である香夜は、美しい。
華やかで艶やかで、それでいて品がある。
花にたとえるとしたら、枝垂れ桜や藤といったところか。
当代の桃娘の冬城みことは、誰からも愛される。
いつもにこにこと笑みを絶やさず、天真爛漫なみことがそこにいるだけで、周囲に笑顔と優しい気持ちが伝染していくのだ。
花にたとえるとしたら、可愛らしい桃の花や、春を待ちわびる健気なスノードロップといったところか。
二歳年上の香夜と二歳年下のみことに挟まれているからだろうか。沙夜は幼い頃から、どうもぱっとしない子供だった。
勉強は得意だ。手先が器用だから、家事もみるみるうちに上達していく。
だが、鬼社会で女性に求められるのは、美しさや愛らしさなのだと、姉と桃娘を見ていれば、嫌でも思い知らされる。
そして、歳が近いがために何かと二人と比較されていくうちに、沙夜は次第に劣等感に苛まれていった。
だから、少しでも二人と比べられる機会を減らそうと、香夜とみことが懸命に励む稽古の場に自然と顔を出さなくなっていった。
その代わり、人間の友達と遊ぶ時間を増やしていった結果、鬼社会というものがいかに沙夜にとって息苦しい環境だったのかと痛感させられたのだ。
現代日本の人間の社会には、鬼社会には存在しない自由があった。
選択肢は無限のように溢れ返り、様々な生き方を自らの意志で決定できる。
そんな自由を感じさせる人間の社会に、沙夜は心の底から焦がれた。
しかし沙夜は所詮、女鬼だ。
どれほど焦がれようとも、自分自身が鬼であるという事実が変わらない限り、高校を卒業したら、どこかの男鬼の元に嫁がなければならない。
鬼との関わりをなるべく避け、人間とばかり仲良くしていられるのも――自由を夢見ていられるのも、結局学生の間だけなのだ。
――美しくありなさい。愛される努力をなさい。
物心がつくかつかないかくらいの頃から、母から言い聞かされてきた言葉は、ただの呪詛でしかないように思えた。
でもあの言葉は、沙夜よりも余程長く生きてきた母が行き着いた、鬼社会の中で少しでも生きやすくする方法の一つだったのではないかと、今では思うのだ。
***
「――生け花の試験、緊張したねぇ」
――沙夜が高校一年生、みことが中学二年生の春の終わり。
その日は、高校三年生である香夜を含めた三人が、鬼頭本家の屋敷で師範である六花の目の前で花を活け、その出来栄えを判定される日だった。
本当は、ろくに稽古に参加しない沙夜は試験からも逃げようとしたのだが、姉に引きずられるようにして、無理矢理受けさせられたのだ。
三人ともきっちりと着物を着付け、試験に挑んだのだが、それもようやく先程終了した。
だから、互いに労い合おうと、お茶をしてから帰ろうという話になったのだ。
灰桜の地に白百合の花が描かれた着物を身に纏い、灰緑の帯を合わせたみことは、緊張感から解放されたからか、肩から力を抜き、疲れたような吐息を零した。
それから、綺麗に結い上げた髪に挿している簪を引き抜こうとしたらしく、頭に手を伸ばしかけたものの、諦めたようにそっと下ろした。
以前、稽古が終わったからと気を抜いて髪を解いたら、六花にきつく注意を受けたことを思い出したのかもしれない。
みことは物憂げに溜息を零すと、障子戸へと視線を転じた。
「それにしても香夜ちゃん、なかなか戻ってこないね。お茶の支度、わたし手伝ってくるよ」
みことの言う通り、何故かお茶の用意に向かったはずの姉が戻ってくる気配が一向にない。大方、許嫁である恭矢と鉢合わせし、話でも弾んでいるのだろう。
みこともそう察したからこそ、香夜の代わりにお茶の支度をするため、席を外そうとしているに違いない。
「――みことはさ」
いそいそと腰を上げようとしたみことを引き留めるように、ずっと黙り込んでいた沙夜が声を出す。
「習い事ばっかりで、嫌にならないわけ? 将来、役に立つかどうかも分からないのに」
苛立ちが滲む声音でそう問いかければ、みことはきょとんと目を丸くしたのも束の間、お行儀よく座り直し、微かに眉根を寄せて考え込む素振りを見せた。
「うーん……確かに、時々もうちょっと遊びたいなぁとか思うこともあるけど……六花おば様も、わたしたちに指導するためにわざわざ時間を作ってくれてるわけだし、あんまり我儘は言えないよ。それに、何が将来役に立つか分からないからね。知識も技術も、身につけておいて損はないよ」
桃娘として、これ以上ないくらいの模範解答だ。
だが、その物分かりの良さが、今はどうしようもなく沙夜の怒りを煽っていく。
「あと、わたし生け花は好きだから。だから、試験は緊張するけど、お稽古自体は楽しくて――」
「――あんたって、いっつもそうだよね!」
沙夜の憤りに気づくことなく、朗らかに回答するみことに、ついに我慢の限界を迎えて声を張り上げる。そして、その勢いのまま立ち上がり、座ったままのみことを見下ろす。
その際、沙夜の身を包む淡い黄色の地に菖蒲の花が描かれた着物の裾が乱れてしまったが、今はそんなものに構っていられる余裕は微塵もない。
「何があっても、へらへらへらへらと笑って! 良い子ぶって、綺麗ごとばっかり並べて! 鬼社会での女の処世術が時代錯誤でおかしいとか、少しは考えないわけ!?」
これがただの八つ当たりに過ぎないと、頭では理解している。
先刻の試験で、優秀な成績をおさめた香夜とみこととは違い、沙夜に下された評価は散々だった。
今まで何かと言い訳をして稽古から逃げ回り、努力を怠ってきたのだから、当然の結果だ。
六花の呆れたような目が頭から離れなくて、出来の良い二人と一緒にいると惨めになるから、沙夜はさっさと帰ろうとしていたのに、こちらの気も知らないで、姉がたまには三人でお茶でもしようと提案してきたのだ。
姉やみことが、何かと鬼同士の関わりを避けようとする沙夜との距離をもっと縮めたいだけなのだということは、何となく分かる。
しかし、無自覚に劣等感ばかり植え付けてくる相手と仲良しのふりができるほど、沙夜は大人ではない。
質問をされたから素直に答えただけなのに、急に怒鳴りつけられたみことは、呆気に取られたように沙夜を見上げてくる。
みことの澄んだ黄金の双眸を眺めていると、ますます自分が惨めに思えてきて、喉の奥からぐっと熱いものが込み上げてくる。
「大人に言われるがまま、流されるように生きて……桃娘は経済的に自立することが許されないから、子供のうちも大人になっても、男に依存しながら生きるしかなくて……」
みことは知らないだろうが、沙夜の初恋の相手は幸斗だったのだ。
初めて会った時、こんなにも王子様みたいな素敵な男の子がこの世に存在したのかと、驚いたし感動したものだ。
でも、緊張で声を上擦らせつつも懸命に挨拶した沙夜に対し、幸斗はどこまでも無関心だった。
失礼なことを言われたわけではない。むしろ終始、礼儀正しく接してくれたと思う。
だが、当時既に幸斗の妹分になっていたみことが一人遊びしていることに気づくなり、あっという間にそちらへと関心を引き寄せられ、沙夜の前からすぐに立ち去ってしまったのだ。
そして兄貴分らしく、甲斐甲斐しくみことの面倒を見ることに、瞬く間に夢中になっていた。沙夜の前では決して崩さなかった無表情を取り下げ、柔らかな微笑みまで湛えて。
年齢を重ねたら、そのうち妹離れするかと思えば、幸斗もみことも、いつの間にか互いを恋愛対象として焦がれるような目で見つめ合うようになっていた。
初恋は実らないなんて、どこの誰がほざいたのだろう。
その時の沙夜は、その誰かの頬を殴り飛ばしたくて仕方がなかった。
「……売女みたいだよね、見苦しいったらありゃしない」
だって、勝負が始まる前にとっくに敗れていた沙夜の初恋が、あまりにも惨めで憐れではないか。
長年、心の中で鬱屈していた感情を吐き出したにも関わらず、沙夜が得られたのは肺が圧迫されそうなほどの息苦しさだけだった。
沙夜が口を噤んだ途端、しんと客間が静まり返る。
未だに激高した沙夜へと揺るぎなく向けられる黄金の眼差しに居たたまれなくなり、目を逸らすと、この静寂に相応しい落ち着いた声が耳朶を打った。
「――うん、そうだね。沙夜ちゃんは何も間違ってないよ」
のろのろと逸らしていた視線を戻せば、いっそ穏やかに微笑むみことの顔が視界に入り、思わず息を呑む。
その目も、声も――まるで聞き分けのない幼子に向けられたものみたいだったから。
「今の時代の人からしてみれば、わたしたちの生き方って前時代的に感じられて当然だもんね。それに、鬼だろうが人だろうが、相性ってものがあるから。沙夜ちゃんがわたしのことをよく思えなくても、それは仕方ないよ。でもね」
みことは、少しも微笑みを絶やさない。
しかし、その目は――よくよく見てみれば、欠片も笑ってなどいなかった。
「わたしの生き方を悪く言われる筋合いはないよ。それは、香夜ちゃんや六花おば様、女鬼たち……それに何より、歴代の桃娘への侮辱に繋がるから」
そう告げた直後、みことは洗練された所作で腰を上げた。
それから一歩、また一歩と沙夜へと近づいてきたかと思えば、みことに頤を掴まれて無理矢理視線を合わせられた。
「沙夜ちゃんが内心どう思ってようと、それは沙夜ちゃんの自由だよ。でも、それを口に出す時は、時と場合と相手をよく見極めてからにした方がいい――敵に回す覚悟があるなら、話は別だけど」
逃げ場を失った沙夜を、満月のごとく美しい黄金の瞳が挑むように見上げてくる。
「売女みたい? 見苦しい? 好きに言えばいい。わたしは、わたしのお母さんがどういう風に生きてたのか知ることができるなら、それで充分だよ」
沙夜の言葉を反芻したみことが、不意に剣呑に目を細める。
「お……母……さん……?」
辛うじて声を絞り出すことに成功した沙夜に、みことはこくりと頷く。
「うん、そう。わたしのお母さん、わたしが物心つく前に亡くなったから、どういう人だったのか、お父さんの思い出話くらいでしか知りようがないんだよね。でも、それだとお父さんの主観にどうしても左右されるから、ちょっと判断に迷うところもあって」
そこまで言ったところで、みことはもう一度溜息を吐いた。
「お母さん、あんまり他人に本心を打ち明けるタイプじゃなかったみたいでね……琴子さんも、六花おば様も、英泉おじ様も、表面的なことしか知らないんだって」
意外だ。
みことは非常に素直で物分かりが良いから、てっきり瓜二つだという母親も似たような人柄だったに違いないと思っていた。
(ああ、でも……それは、見た目に限った話だったっけ)
随分と昔に聞いた話だから、うろ覚えだ。
「だから、わたしはお母さんの生き方を追体験して、お母さんが何を思って、何を感じて生きてきたのか想像することで、お母さんを知ろうって決めたの」
沙夜をひたと見据えたまま、みことは尚も言い募った。
後編は明日の朝7時30分に更新します




