第36話 化け物
「こちらこそ、弟がいつも世話になってるね。何か、弟に困らされてることとかはないか?」
「ご配慮くださり、ありがとうございます。ですが、本当にわたしはいつもゆきくんのお世話になってばかりで……」
「二人は本当に、仲が良いんだな」
「はい! ゆきくんとは仲良しです!」
今度は勢いよく顔を上げたみことは、大きな黄金の双眸をきらきらと輝かせてはにかんだ。白い頬は紅潮し、ありとあらゆる幸福を詰め込んだかのような笑顔だ。
だが、その眩いほどの笑顔が、何故か癪に障った。
「……みことは、絵が上手いんだな」
話題を変えようと、みことが居住まいを正す際に脇に避けたスケッチブックに視線を投げる。
そこに描かれていたのは、縁側からよく見える花壇に咲いている菖蒲の花だ。
小学二年生の腕前とは思えないほど、本物に忠実に丁寧に細かく模写されている。
「ありがとうございます、絵を描くのが好きなんです」
暁斗の賛辞に、みことは笑みを深める。
「あ、ゆきくんも絵を描くのが上手なんですよ! 去年、二人揃って夏休み明けの絵のコンクールで入賞したんです。あとあと、ゆきくんはピアノの演奏も上手なんです! これも去年なんですけど、ピアノの練習発表会で優勝したんですよ!」
暁斗が幸斗の兄だと知ったからだろう。自分よりも、幸斗の功績を懸命に報告してきた。
膝に乗せていた手をぱちんと合わせたみことは、誇らしそうに、そして嬉しそうに幸斗について語る。
先程は、将来鬼柳本家の花嫁になっても動じなさそうな胆力と頭の回転の速さに好感を持てたのに、子供らしからぬ流暢な話しぶりで幸斗を賞賛するみことの姿に、次第に苛立ちが募っていく。
「……みことは、本当に弟のことが好きなんだな」
「は、はい……す……好き、です……」
まだ七歳のくせに、みことは早熟らしい。頬が一層赤く染まっていき、目を泳がせながらもじもじと手を弄り始めた。
「でも……もし、あいつが生きてることを望まれない子供だったとしたら、どうする?」
「……え?」
宝石みたいな輝きを閉じ込めた黄金の瞳が、ぱちりと瞬く。
この様子だと、幼いみことはまだ幸斗が抱える事情を知らないのだろう。もしくは、幼さ故に理解できていないだけかもしれない。
だから暁斗は、小さな子供でも分かるように言葉を選び、幸斗はいらない子供なのだとみことに伝えていく。
(俺は……何をやってるんだろうな)
真に望まれずに産まれてきた子供は、幸斗ではなく暁斗だ。父親に失望され、母親にも捨てられた子供だ。
しかし、みことに口にした言葉もまた、嘘ではない。
幸斗は実の両親に望まれ、愛されてきた子供だ。
でも、その親をあんな形で失った今、鬼柳一族で幸斗の生存を歓迎している鬼は存在しない。
この嘘偽りのない事実を知っても尚、みことの幸斗に向ける愛情は揺らがないのだろうか。それとも、冷めていくのだろうか。
笑顔を消して口を噤み、じっと暁斗を見つめて言葉に耳を傾けていたみことが、目を逸らさないまま閉ざしていた口を開いた。
「……お兄さんも、ゆきくんのこといらないって思ってるんですか。ただ生きてるだけでも、良しとしないんですか」
周囲がどう思っているかではなく、暁斗が弟のことをどう考えているのかと踏み込んできたみことの双眸は、驚くほどに澄み渡っていた。
逃がさないと言わんばかりに、暁斗をひたと見据えてくる美しい瞳が、どうしてか恐ろしく感じられた。
「ああ……そうだ」
それでも喉の奥から声を絞り出して答えれば、淡く色づいた花びらみたいな唇が不意に笑みを象っていく。
だが、その目はちっとも笑ってなんていなかった。
「じゃあ――お兄さんは、わたしの敵だね?」
光の加減のせいだろうか。微笑みを絶やさぬままもう一度小首を傾げたみことの双眸が、獲物を見定めた肉食獣のごとく、獰猛な輝きを放っている。瞳孔も、ネコ科の生き物みたいに――あるいは、鬼みたいに縦長に細くなっていく。
これは、暁斗のただの目の錯覚だろうか。それとも、現実なのだろうか。
息を呑んだまま、天敵に睨まれた小動物みたいに動けずにいたら、唐突に慌ただしい足音が聞こえてきた。
「――みこと……っ!」
「あ、ゆきくん」
何事もなかったかのように、落ち着き払った声を出したみことの瞳には、もう異変は見受けられない。
しかし、じっとりと冷や汗をかいた暁斗の背には着物が張り付き、気持ち悪くて仕方がない。
「ゆきくん、そんなに慌ててどうしたの?」
「みこと、何もされてないか!?」
「何もされてないかって……わたし、ゆきくんのお兄さんにご挨拶してただけだよ」
幸斗の慌てぶりに戸惑っているみたいだが、みことはありのままの事実を答えた。
幸斗がほっと肩の力を抜いたのも束の間、守るようにみことの前に立ちはだかったかと思えば、厳しい面持ちで暁斗を見下ろしてきた。
「……お久しぶりです。みことに、どういったご用向きでしょうか」
先刻とは一転、礼儀正しい言葉遣いになったものの、幸斗の声には明らかな警戒が滲んでいる。
――幸斗の目には、みことは庇護するべきか弱い存在に見えるのか。
でも、その認識がごく一般的なものに違いない。
大多数の鬼はそう捉えるだろうし、他ならぬ暁斗自身もつい先程までは非力な幼子としか思っていた。
だが、もう無理だ。
あの不気味な双眸を目の当たりにした以上、幸斗の背に庇われているみことが、幼い少女の皮を被った、いつ牙を剥くとも知れない化け物にしか見えない。
「……みことの、言う通りだ。偶然見かけたから、ただ挨拶をしただけだ」
ぎこちなくもみことと同じ言葉を口にしたものの、幸斗が警戒を解く様子はない。そして、暁斗は弟のその態度に内心圧倒されていた。
幸斗にとって、兄という生き物とは極力顔を合わせたくないはずだ。精神的に最も苦しい時期に、生きていることすら否定してきた相手なのだ。顔も見たくないし、声も聞きたくないと思っていても、不自然ではない。
しかし、幸斗はこうして今、自らの意志で兄と直接対峙している。
二人のやり取りを見て何を思ったのかは知らないが、みことのためならば、幸斗は自分自身を奮い立たせ、盾になってでも守ろうとするらしい。
「そうですか。なら、もうお話は終わりましたよね。俺たちは、これで下がらせてもらいます」
幸斗はそれ以上問い質すことなくそう告げると、暁斗に頭を下げてからみことに向き直り、手を差し出した。
「みこと。六花さんときょう兄さんが、お茶の用意をして待ってますよ。今日のお茶請けは、生クリーム大福です」
「わたし、生クリーム大福、大好き!」
みことは差し出された手を素直に取り、幸斗に手を引かれるがまま、弾むような足取りでこの場から去っていく。
でも、一度だけ暁斗へと振り返ったかと思えば、そっと会釈した。
ぼんやりと二人の後ろ姿を眺めているうちに、やがてみことと幸斗の姿は廊下の角を曲がったところで見えなくなった。
細く息を吐き出すと、行儀が悪いことは承知の上で、縁側に大の字になって寝そべる。
「……あれは、ない」
先刻とは正反対の結論が、自然と唇から零れ落ちていく。
最初は、鬼柳本家に嫁いでも上手く立ち回れそうだからという理由で、婚約するのも一つの手だと考えた。
今のうちは、歳の差が気になって仕方がないものの、そんなものは歳を重ねていけば、いずれ解消されていく問題だ。みことが二十歳になる頃には、気にならなくなるだろう。
だが、暁斗は自分があの猛獣を飼い馴らせる未来が、どうしても思い描けない。
婚約中や結婚直後ならば、何とかやり過ごせる気がする。
しかし、共に過ごす時間が長くなっていくにつれ、いつか喉笛を食いちぎられそうな予感がするのだ。
それに、厄介なのはみこと本人だけではない。その父親もまた、非常に御しにくい男鬼だったと、今頃になって思い出す。
それに加え、暁斗がみことと婚約を結ぼうものなら、あの弟も黙ってはいないだろう。あの様子だと、みことに近づこうとする男には、何かしらの方法で妨害しそうだ。
暁斗は盛大な溜息を吐くと、右手の甲を額に乗せて目を閉じた。
***
(今思い出しても、あの二人の関係、まともじゃないよな……)
共に育ったという間柄故、二人にしか理解し得ない絆というものがあっても不思議ではない。
しかし、それを加味したとしても、愛した相手を侮辱された時と、命を脅かそうとした時に見せるみことの怒りと、愛した相手を奪われかねない状況下で発揮される幸斗の必死さには、歪みを感じる。
(まあ、まともな鬼なんて、見たことがないけど)
そんなことを考えつつも、ネイビーブルーのボディバッグからスマートフォンを取り出し、沙夜の名をタップしてから耳に当てる。
「ああ、沙夜か。今日もご苦労様。今日の夕飯なんだが……昼に食べたものが、想定以上にボリュームがあってな。胃に優しい雑炊とかにしてくれると、助かる」
学生時代に一度だけ、恭矢と放課後にハンバーガーショップに寄り道をしたことがあるのだが、その店の商品が暁斗の胃腸には合わなかったのか、その後三日間、消化に良い食事しか受け付けられなくなった苦い思い出があったのだ。
あの時に食べたハンバーガーは驚くほど安かったから、使っている油などの刺激が暁斗の胃腸には強過ぎたのかもしれないと思い、今日はそれ相応の値段のものでリベンジしてみたのだが、今度は量が多かった。
食べられないことはなかったものの、やはり胃への負担が大きかったため、沙夜に夕食のリクエストを出したら、溜息が聞こえてきた。
『あきの胃腸では無理じゃないのって、昨日も言ったじゃん……はいはい、当主様のお望み通りの品をお出ししますよ……というか、もう帰ってくるの?』
「思ったほど楽しくなかった上に、ゆきにみことを強奪された」
『……そんな、強盗か誘拐犯みたいな言い方……』
「それじゃあ、もう帰るから、話はまたあとで」
沙夜の返事も聞かずに通話を切ったところで、ふと透明感のある愛らしい声が耳の奥に蘇ってきた。
――あきくんって、沙夜ちゃんのことが好きなの?




