第35話 奪還
――完全に、油断していた。
相手は、幸斗の兄だから。みことに恋愛感情を抱いていないどころか、初めて出会ったその日から怖がられているのだから。
だからまさか、暁斗がみことの唇を奪うとは、予想だにしていなかったのだ。
限界まで金眼を見開いたのも束の間、即座に暁斗を突き飛ばそうとした。
だが、みことの反応は暁斗にとって予想の範囲内だったのか、両手を突き出す前にあっさりと離れていった。
怒りと悔しさから暁斗を睨み据え、右手の甲で唇を乱暴に拭う。
すると、手の甲にローズピンクのリップグロスが付着し、舌打ちをしたい衝動に駆られる。
「――ほら、キスしても片や何も感じない、片や怒りしか感じないようなら、結婚しても上手くいくはずがないだろ?」
「……最っ低」
バッグから取り出したコンパクトミラーを見ながら、唇に乗せていたリップグロスをポケットティッシュで跡形もなく拭い去ると、吐き捨てるように悪態をつく。
それでもまだ言い足りなくて、荷物を乱雑にバッグの中へと押し戻すや否や、腹の底から込み上げてきた憤りに突き動かされるまま、さらに罵倒しようとした矢先、突然後ろから伸びてきた片腕にぐいっと抱き寄せられた。
その直後、紫紺の長袖を肘の近くまでたくし上げた、たくましい腕と共に、嗅ぎ慣れた石鹸みたいな清潔な香りに包み込まれた。
「ゆき、くん……?」
咄嗟に振り仰いだ先には、珍しく分かりやすく憤怒に表情を歪める幸斗の顔があった。
十中八九、先刻のみことと暁斗のキスシーンを目撃し、余程腹に据えかねているのだろう。幸斗の瞳孔はきゅっと縦長に引き絞られ、牙の隙間からは威嚇するような息が吐き出されている。
「ゆきくん、わたしは大丈夫。だからそれ以上、あきくんを威嚇しないで」
まさか、こんなにも早く幸斗が迎えにくるとは思わなかった。
もしかすると、すぐにでも迎えにいけるよう、近くのカフェかどこかで時間を潰して待っていたのかもしれない。
夫の過保護ぶりに内心呆れつつも、みことに回された右腕を宥めるように優しく叩く。
「ゆきくん、聞いてるの?」
まだ明るいこの時間帯は、人通りも多いのだ。ましてや今日は、ゴールデンウィークであり、祝日であり、休日でもあるのだ。
普通の休日とは比べ物にならないくらい多くの人が行き交う中、騒ぎを起こすのは得策ではない。
ただでさえ、暁斗も幸斗も人目を惹く容姿をしているのだ。
既にそれなりの注目を浴びているものの、これ以上人目を集めるわけにはいかないと、声を険しくする。
みことが幸斗を至近距離から睨みつけていると、紫の眼差しが不意に暁斗から逸れる。そして、紫の眼差しと黄金の眼差しが絡み合うこと数十秒、幸斗は深々と溜息を零しながらも、みことを拘束していた右腕を下ろしてくれた。
しかし、幸斗の右手は婚約指輪が嵌められているみことの左手の薬指を絡め取るように、がっちりと互いの手が繋がれてしまった。
まるで鎖のごとく頑丈な手の繋ぎ方に唖然としていたら、ふと微かな笑い声が聞こえてきた。
「みことが猛獣で、ゆきが猛獣使いかと思えば……まさか、どっちも猛獣で、猛獣使いだったとはな」
暁斗のたとえは言い得て妙だが、改めて指摘されると、癪に障るものがある。
「……みこと、帰りますよ」
幸斗の低い声は、有無を言わせぬ響きを帯びていた。
みことが返事をする間もなく、幸斗は手を引いて歩き出したものだから、自然と引きずられるようにして足を動かすしかなくなる。
慌てて態勢を立て直し、幸斗に手を引かれつつも後ろを振り返れば、どうしてか穏やかそうに碧眼を細めた暁斗と目が合った。
「――ゆき、よかったな。心から惚れ込んだ女と結婚できて」
それは間違いなく、二度目の祝福の言葉だった。
でも、幸斗は兄からの祝いの言葉を背に受けても、決して振り返ろうとはしなかった。
ただただ、一刻でも早く暁斗からみことを引き離さなければと言わんばかりに、黙々と黒いスラックスに覆われた長い足を動かすばかりだ。
みことが返事をすることでもないから、暁斗に向かって軽く会釈だけすると、紫紺のワイシャツに包まれた幸斗の背に視線を戻す。
みことの視線に気づいていないわけがないだろうに、幸斗は尚も無言を貫いたままだ。
まだ暁斗に腹を立てているのだろうか。もしくは、あれほど心配していたにも関わらず、隙を見せたみことに怒りを禁じ得ないのか。
どちらにせよ、幸斗の感情が落ち着くまで、まともな話はできそうにもない。
おまけにこの様子だと、夕食は外で食べようと話していたことも頭から抜け落ちているに違いない。
幸斗の足は一心不乱に駅へと向かい、ショッピングモールにも遊歩道沿いにある飲食店にも一瞥もくれないからだ。
(お夕飯、どうしよう……)
こうなったら、帰宅途中にスーパーかコンビニでも寄って弁当を買うか、出前を取るしかなさそうだ。それかいっそのこと、買い置きしておいたカップ麵でもいいかもしれない。
今のみことに、夕食の買い出しと支度をするだけの気力も体力も残されていないのだから、それで勘弁してもらおう。
怒り心頭の幸斗に料理を頼むのも、何だか思いがけない事故を起こしそうで怖くてできない。
もし、帰るまでの間に幸斗の怒りが鎮まらないようであれば、鎮静作用のあるハーブティーを飲ませようと、疲労に満ち溢れた吐息を漏らした。
***
――妻となった女性の手を引く弟の背が、驚くほど早く遠ざかっていく。
それほどまでに、弟の目には暁斗が危険な鬼に、花嫁が守るべき存在として映っているのだろうか。
(あんな、いつ喉笛に食らいついてくるか分からない化け物、俺が欲しがるわけがないだろ)
多くの鬼は、今までずっとみことは守るべき可憐な桃娘だと認識してきた。
だが暁斗の目には、初めて出会ったその日から、逆鱗に触れようものなら、間違いなく牙を剥く、美しくも残酷な獣にしか見えなかったのだ。
***
「――あき。今度、うちに来ないか。はとこのみことなんだけど、今年で八歳になるんだ。とっくに意思の疎通はできるし、子供嫌いのあきでも話せる程度には成長したと思うんだ」
同い年の友達である鬼頭恭矢にそう声をかけられたのは、暁斗が中学三年生の初夏の頃だった。
みことという桃娘が誕生してから、鬼柳一族の鬼は何とかして暁斗と引き合わせようとしてきた。
しかし、肝心の暁斗が床に臥すことが多い子供だったため、機会は流れに流れ、とうとうこの歳になるまで顔を合わせることはなかった。
祖父母は、あの女がもっと丈夫な子を産んでいれば、もっと早く当代の桃娘と引き合わせることができたのにと嘆いていたが、暁斗としては七歳も年下の幼子と顔合わせをしたところで、結婚の意思が芽生えるとは到底思えない。
現に、みことが赤ん坊の頃から交流がある恭矢だって、妹分として可愛がってはいたものの、結婚相手には考えられないと母である六花に伝え、まだ比較的歳が近い香夜と婚約を結んだのだ。
だから、今さら顔合わせをする意味はないと思うのだが、一応顔を合わせたという事実を作ることが大切であるらしい。
恭矢に諭され、そんなものなのかと納得した暁斗は、みことが六花に生け花の稽古をつけてもらう休日に、鬼頭本家に足を踏み入れた。
「ほら、あそこにいるのがみことだ」
案内されるがまま屋敷の中を歩き回っていたら、廊下の曲がり角のところで、ふと恭矢が声を上げた。
恭矢が指差した先にいたのは、白緑の地に鈴蘭の花が描かれた紗袷と緑青色の帯を身に着けた少女と、プラチナブロンドが目を惹く、黒い五分袖のポロシャツにリーフグリーンのカーゴパンツという組み合わせの少年の姿があった。
(あれが、桃娘と……俺の弟か)
恭矢曰く、今日の稽古は先程終えたばかりなのだという。
二人はガラス戸が開け放された縁側に並んで腰かけ、鉛筆を手に持つみことはスケッチブックに何やら描いており、幸斗は隣から黙って覗き込んでいる。
時々、みことが顔を上げると、二人はひそひそと内緒話みたいに言葉を交わし合い、笑い合っていた。
一目見て、仲が良いのだと分かる光景だ。
「……きょう、お前……何故、弟もいる日を選んだ」
恭矢へと振り向き、凄むように問いかければ、肩を竦められた。
「別に、わざとじゃない。ゆきは、みことほどうちに寄りつかないんだが、まさか今日来るとはな。俺も驚いてる」
苦い笑みを零す恭矢に、嘘を吐いている様子はない。本当に、今日はたまたまタイミングが重なってしまっただけみたいだ。
「……分かった。俺が二人のとこに行って、ゆきを一旦みことから引き離してくる。そうすれば、みことに話しかけられるだろ?」
恭矢の提案に、こくりと頷く。
我ながら、我儘放題の幼子かと内心呆れたが、弟とはあの日以来、ずっと会わなかったのだ。今さら、どんな顔をして話せばいいのか分からない。
恭矢は廊下の曲がり角から迷わず姿を現すと、二人の元へと歩み寄っていった。
二人と二言三言交わしたかと思えば、縁側から腰を上げた幸斗と一緒にどこかへと立ち去っていく。
一人取り残されたみことは、遠ざかっていく二人に手を振ると、また膝の上に広げたスケッチブックに向き合った。
「――こんにちは、初めまして」
浅葱色の着流しの裾を捌きながら挨拶の言葉をかければ、スケッチブックに視線を落としていたみことが、驚いたようにこちらへと振り向いた。
(……なるほど、確かに顔は可愛いな)
丹精込めて作り上げた人形みたいだと評判のみことの顔立ちは、噂に違わず愛らしい。
でも、だからといって中学生の少年が、将来の結婚相手に考えられるはずがないほど、視線の先にいるみことはまだまだあどけない。
「君が、冬城みことかな? 俺は、鬼柳暁斗です」
みことと目線を合わせるためにその場にしゃがみ込むと、慌てたように淡く色づいた花びらみたいな唇が開いた。
「はじめまして。はい、そうです。わたしが、冬城みことです。今年で八歳になります」
みことは暁斗へと向き直るなり、綺麗な姿勢で正座し、頭を下げて挨拶の言葉を返した。
はきはきとした口調で淀みなく返された言葉は、相当叩き込まれたものなのだろう。考えずとも口から滑り出てきたという印象だ。
姿勢も所作も美しく、やはり相応の努力を積み重ねて身につけてきたに違いないと、今日会ったばかりの暁斗でも幼い少女の頑張りを見て取れた。
みことがゆっくりと顔を上げれば、自然と黄金の眼差しと露草色の眼差しが交錯する。
「あの……お兄さんは、香夜ちゃんと沙夜ちゃんの親戚でしょうか」
みことは、あまり物怖じしない性質なのだろう。
初対面の年上の男の子にも臆した様子はなく、小首を傾げて疑問を投げかけてきた。
「そうだよ、香夜と沙夜の従兄だ。それから……幸斗の兄でもある」
一応そう付け足せば、みことは軽い垂れ目を大きく見開いた。そして、再度頭を垂れる。
「ゆきくんのお兄さんだったんですね。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。いつも、ゆきくんにはお世話になってます」
みことはよく躾けられているだけではなく、機転も利くみたいだ。
不意を突かれても、今の自分はどうするべきなのか思考を巡らせて最適解を導き出し、すぐに行動に移せる。
(これは、案外――)
――掘り出し物かもしれない。
そう思い直した暁斗は、先刻までの余所行きの微笑みを取り払い、心からの微笑みを浮かべた。




