第32話 奇跡
「……仕方なかったんですよ。鬼柳一族は、ただ誰かに責任を押しつけたかっただけです。でも、両親も乙葉さんも亡くなったから、そんなことはできませんでしたし、祖父母には伯父の凶行を口では咎めつつも、結局何もしなかったという負い目もあったでしょうから」
「だからって、なんでゆきくんなの……!」
「一番、スケープゴートに仕立て上げるのに都合が良かったからでしょう。伯父は今も生きて、監視付きで隔離されてますけど、それだけで当時の非難の矛先を収められたとは思えませんし。あき兄さんは、自分たちの手元で育てた可愛い孫息子ですし」
幸斗に涙を拭われ、鮮明になった視界に映ったのは、困ったように微笑む夫の顔だった。
「だから、血の繋がりがあっても、顔を合わせたこともなかった、情が湧かない無力な子供に最適な役回りだと思ったんでしょう。俺はただ、運が悪かっただけです」
「そんなのって……!」
そんなのは、あんまりだ。
そう続けようとした言葉は、幸斗の人差し指がみことの唇に当てられたことで封じられた。
「確かに、自分の境遇に思うところはあります。ですが、そのおかげで……俺は十二年もの間、みことと一緒に暮らすことができたんですよ。俺にとって、かけがえのない時間を過ごすことができました。だから、それでいいって割り切ることができたんです」
そこまで口にしたところで、困ったような微笑みから一転、幸斗は悪い笑みを浮かべた。
「それに……みことと一緒に過ごしたあの時間が、みことが俺を選んだ大きな決め手になったと思うんです。俺のいないところで、鬼柳の連中はさぞかし屈辱を味わったことでしょうね。俺を蔑ろにした結果、俺がみことに選ばれたんですから」
先程まで儚げな雰囲気を醸し出していた幸斗の豹変ぶりに、溢れて止まらなかった涙がぴたりと引っ込んでしまった。ついでに、体内を暴れ回っていた怒りまで、だんだんと静まっていく。
「ええと……確かに、そうかも……?」
「鬼柳の連中、小さい頃から一緒にいれば、家族枠としてしか見れなくなると思って放置を決め込んでたんでしょうけど……結果は真逆でしたね。ざまあみろ」
幸斗は、それはもう愉快そうに薄くて形の良い唇を笑みの形に歪め、長い指先でみことの唇の輪郭をなぞっていく。
みことがくすぐったさに身じろぎすれば、幸斗は唇から指を離してくれた。
つまり、幸斗としてはみこととの結婚で、既に自分を見放した鬼柳一族への報復は済ませたつもりらしい。
(あれかな……自分の結婚式にムカつく人をあえて招待して、晴れ姿を見せつけることで、相対的に相手を不幸にする、みたいな……)
自らの手は決して汚さない、見事な復讐を拝見した気分だ。
すっかり毒気を抜かれたみことがぼんやりと幸斗を眺めていたら、紫水晶の瞳が穏やかに細められた。
「……でもね、俺がこう考えられるようになったのは、みことと刀眞さんのおかげなんですよ。二人が俺を家族にしてくれたから。みことが、俺と一緒に遊んでくれたから。恋人になってくれたから。こうして夫婦になってくれたから……復讐なんて馬鹿な真似をしなくて済んだんです」
幸斗の右手が、みことの頬にそっと触れる。
「だから……ありがとうございます、みこと。さっきは、俺は運が悪かったって言いましたけど、みことと出会った後の人生は非常に恵まれたものになりましたから、もう怒りも憎しみも本当にないんです」
そして、するりと撫でていく。
「それに、さっきみことが俺の分まで泣いて、怒ってくれましたから。それでもう、俺は充分報われました」
そこまで聞いたところで、みことの頬を撫でていた幸斗の手を勢いよく払いのける。それから、驚愕に目を見張った幸斗を意に介さず、ぎゅっと抱きついた。
「……みこと……?」
「……お礼を言いたいのは、わたしの方だよ」
幸斗の首元に顔を埋め、くぐもった声で言葉を継ぐ。
「だって……ゆきくんが報われたと思ったことって、全部……ゆきくんが真っ当に生きてたからこそ、手に入れられたものなんだよ」
幸斗の過去を振り返ってみると、いつ破滅の道を突き進んだとしてもおかしくない分岐点がいくつも見受けられた。
みことと刀眞のおかげだと感謝の意を示されたが、それでもまっすぐに生きると決めたのは、他でもない幸斗の意志だ。
「――ゆきくん。ゆきくんが、生きることを諦めなくてよかった」
引っ込んだと思っていた涙が、再び滲み出してくる。
「わたしも……わたしの方こそ、ゆきくんに出会えて幸せだよ」
みことの想いがしっかりと伝わるように、幸斗にしがみつく腕にぎゅっと力を込める。
「ゆきくん……わたしが冬城の屋敷にお世話になることになったあの日、『おいで』って言って抱きしめてくれて、ありがとう。わたしが勝手にお父さんに会いにいこうとした日、わたしを見つけてくれてありがとう」
どの思い出も、みことにとっては宝物のように大切な記憶だ。そして、幸斗が生きていなければ、どの思い出も存在し得なかったのだ。
こんな奇跡は、自分の努力だけでは決して手に入らない。そのことを、幸斗はもっと理解して欲しい。
幸斗の首元に埋めていた顔を、のろのろと上げる。
「わたしを……ゆきくんのお嫁さんにしてくれて、ありがとう」
――幸斗の親世代の話を聞いた直後だからこそ、よく分かる。
自分がいくら愛したところで、相手が同じだけの想いを返してくれるとは限らない。
相手から受け入れられないと拒絶される可能性もあれば、そもそも愛した相手に出会った時には既に、想いを告げることすら許されない状況だったということもあるだろう。
だから、みことと幸斗が想い想われの関係になれたのは、本当に奇跡だ。
みことがありったけの感謝の気持ちを詰め込んだ言葉を伝えた途端、突然幸斗に押し倒された。
柔らかなソファの座面に二人分の体重が沈み込み、微かに軋むような音が耳朶を掠めていく。
唐突な展開についていけずにいたら、今度はみことの首元に顔を埋めた幸斗がくぐもった声を上げた。
「……家族が、欲しい……」
切実に訴えかけてくる声が鼓膜を震わせ、思わず息を詰める。
「いつか……みこととの子供が、欲しい……」
夫の悲惨な過去を詳細に知ってしまった今、幸斗が家族を渇望する気持ちが痛いほどに伝わってくる。
「それで、みことの寿命を縮めることになったとしても……俺自身の命を削ることになったとしても……それでも……欲しいんです。自分と血の繋がった……家族が、欲しい……」
「……うん、そうだよね……ゆきくん、小さい頃にお父さんとお母さんがいなくなってから、傍にいてくれる血の繋がった家族、いないもんね。欲しいって、思っちゃうよね」
視界に映るアイボリーの天井を眺めたまま幸斗の背に腕を回し、ぽんぽんと柔く叩く。
「……ゆきくん。わたし、少しでも長生きできるように、できるだけの努力はするよ」
みことの宣言に、幸斗の身体がぴくりと動く。
自分がただの桃娘と思っていた頃は、短命の運命は避けられないと諦めていた。
しかし、桃娘であり女鬼でもあると判明した今、僅かな可能性でも賭けたいし、そのための努力は惜しまない。
「だから、ゆきくん……わたしとの家族が欲しいって望むことを、怖がらないで。罪悪感もいらない」
幸斗の望みを叶えるのは、きっと本当はみことではない女性の方が遥かに理想的だと、火を見るよりも明らかだ。
でも、幸斗の想いの深さを知った今、もう突き放すようなことを口にするつもりはないし、みことだって手放したくない。
「ゆきくん――よく、一人で頑張ったね」
時間を巻き戻すことなんて、誰にもできない。
それでも、過去の幸斗と今の幸斗、そのどちらにも届くように囁く。
「ゆきくんは、本当に頑張った。辛かったことも苦しかったことも、全部自分の力で乗り越えて生きてきたんだから、すごいよ。でも……これからは、ゆきくんが嫌じゃなければ、わたしに辛いことや苦しいことを教えて欲しい」
これは、みことの我儘だ。だから、幸斗に無理強いするつもりは砂粒ほどにもない。
「それで、一緒にどうすればいいのか考えようよ。ゆきくん一人で抱え込まないで、わたしにもゆきくんが受けた痛みも苦しみも分けて欲しい。だって、わたしたちは――」
幸斗のプラチナブロンドを、梳くように撫でる。さらりとした艶やかな感触が、ひどく愛しい。
「――もう、夫婦なんだから。病める時も健やかなる時も、わたしはゆきくんの味方だよ。頼りないかもしれないけど、ちょっとくらいはゆきくんを支えさせて欲しいな」
みことの首元に顔を埋めたままの幸斗の頭に、甘えるように頬擦りをする。
「ゆきくん……愛してる」
そう愛を囁いた直後、幸斗の腕がみことの背に回され、ぎゅっと抱きしめ返された。
気のせいだろうか。みことが着ているシェルピンクのパジャマの肩口が、しっとりと濡れていく感触があった。
(ゆきくん……泣いてる?)
出会ってから十四年以上経つのに、みことはこれまで幸斗の涙を一度も見たことがない。
両親を惨殺された後でさえ泣かなかったと聞かされたばかりだから、すぐには信じられなかった。
(少しは……甘えても大丈夫だって、そう思えたのかな)
思えば、幸斗は自分から大人に頼ったり甘えたりすることは、ほとんどなかった。
もしかしたら、大人という生き物が信じられなかったのかもしれないし、幸斗は昔から自立志向が強かったから、他者に頼ることも甘えることも、良しとしなかったのかもしれない。二歳も年下のみことなんて、以ての外だったに違いない。
それでも、入籍して事実上の夫婦となった今、みことに少しは寄りかかってもいいと幸斗が思えたなら――こんなに嬉しいことはない。肩くらい、いくらでも貸す所存だ。
みことがあやすように頭を撫でていたら、不意に幸斗はむくりと起き上がった。
みことの背に回していた腕を引き抜き、ソファの座面に両手を突いて見下ろしてくる幸斗の目元は、微かに赤くなっており、やはり声を殺して泣いていたみたいだ。
そんなことを考えながら、ぼんやりと見上げていると、幸斗の指先がみことの首筋に触れた。
「みこと……今日も、もらっていいですか」
「うん、いいよ」
言葉の意図を察してふわりと微笑むと、幸斗の顔がみことの首筋に再度近づいてきた。それから、熱く濡れた舌が肌を這ったかと思えば、幸斗の牙が慎重にみことの皮膚を突き破っていく。
慣れた痛みに身を委ね、幸斗がみことの血潮を啜り上げる音に耳を傾ける。
純血の吸血鬼に比べ、幸斗は血を飲む頻度が低いだけではなく、量もそこまで必要ではないのだという。
それでも、みことの命を奪われかねない危機に瀕しない限り、幸斗が望むだけ血を与えたいと思うのだ。
(ゆきくんが、自分の命をわたしに捧げてくれたように……わたしがあげられるものは、何でもゆきくんにあげたい)
死が二人を分かつ、その時まで。
その想いを胸に、みことはそっと目を閉じた。




