第29話 不可解な誘い
『こんばんは。みこと、今度よかったら、映画でも観に行かないか』
「は……?」
――それは、ゴールデンウィーク中のある晩の出来事だった。
入浴を済ませ、幸斗と共にリビングのソファで寛いでいたら、唐突にみことのスマートフォンが着信音を告げた。
だから、幸斗に断りを入れてから自分のスマートフォンの画面を確認したところ、トークアプリに普段滅多に連絡を取らない暁斗から通知が届いていたのだ。
『こんばんは。それって、他に誰か来るの?』
思わず間の抜けた声を漏らしつつも素早くそう返信すれば、すかさず返事が表示された。
『いや、二人で出かけないか』
即座に返ってきた答えに、眉根を寄せる。
(それって……)
世間一般で言うところの、デートではないか。
何故、弟の妻にそんな誘いをかけるのかと、暁斗の良識を疑っていると、隣から声をかけられた。
「みこと? 険しい顔をしてますが、どうかしましたか」
「……ゆきくん。これ、見て」
ゆっくりと幸斗へと振り向き、片言になりながらもスマートフォンを差し出せば、紫の眼差しが液晶画面に注がれる。その直後、幸斗の眉間にくっきりと深い皺が寄せられた。
「……は?」
先刻のみこと同様の言葉を漏らしたが、幸斗の声は地を這うように低く、ドスが利いている。
「よく分からないんだけど……急にあきくんからデートのお誘いを受けた」
トーク画面を見れば、みことがわざわざ説明しなくても一目瞭然なのだが、一応感情を極力排した声でそう告げると、幸斗は深く息を吐き出した。それから、マホガニーのローテーブルの上に鎮座していた幸斗自身のスマートフォンを、目にも留まらぬ速さで手に取った。
「ゆきくん?」
「……不倫は見逃せませんので、刀眞さんに報告します」
その言葉が耳朶を打った途端、考えるよりも先に身体が動き、幸斗の黒いスウェットに縋りつく。
「待って! 落ち着いて! 早まらないで! お父さんにそんなこと言ったら、お父さん、迷わずあきくんのこと血祭りに上げちゃう!」
「安心してください、俺も参戦します」
「安心材料、どこにもないんだけど! むしろ、余計不安になるんだけど!」
修羅と呼ばれた男と、その男に鍛え上げられた夫をこのまま放っておいたら、血みどろの地獄が出来上がりかねない。
幸斗の右腕に必死にしがみつきつつ、高速で首を横に振っていると、やがて深々とした溜息を吐く音が聞こえてきた。
「……分かりました。とりあえず、刀眞さんへの報告は保留にしますから、腕を放してください」
「絶対、絶対だよ? 約束だよ?」
念には念を入れて確認してくるみことに、幸斗は渋々と頷く。
幸斗がテーブルの上にスマートフォンを戻すのを見届けてから、改めて自分のスマートフォンの画面に視線を落とす。
暁斗が突然みことにデート紛いの誘いをかけてきた理由は、本当に見当がつかない。
だから、その理由をそれとなく探るべく、ぽちぽちと質問を送信してみたのだが、暁斗ははぐらかすばかりだ。
(うーん……このままじゃ、埒が明かないな)
みことは、回りくどい腹の探り合いが苦手だ。こうなったら、みことが打てる手はこれしかない。
『いいよ。じゃあ、いつにする?』
「ちょっと、みこと!」
暁斗の誘いを了承する文章を作成してすぐに送信した直後、幸斗の苛立たしそうな声が鼓膜を叩いた。
「……ゆきくん。さすがに夫婦といえども、相手のスマホを無断で覗き込むのは、マナー違反だよ」
「それは状況次第でしょう」
幸斗はみことの手から素早くスマートフォンを取り上げるや否や、じとりと睨み据えてきた。
「……どういうつもりか、訊いても?」
「うん、いいよ。――あきくん、何を訊いてもはぐらかすんだもの。こうなったら直接会って、向こうの真意とやらを探るしかないでしょ」
みことがそうきっぱりと答えると、幸斗は複雑そうな面持ちになった。
「……そこに、不倫の意思はないと?」
「ないよ、少なくともわたしにはね。どうして、こんなに素敵な旦那様と結婚しておいて、不倫なんかしないといけないの」
みことからすれば、不倫なんて面倒くさいだけだ。
世の不倫に走る方々は、よく手間暇を惜しまないものだと、ある意味感心してしまう。
今度はみことが半眼になって言い返したものの、幸斗はまだ疑惑の眼差しを向けてくる。
「……つまり、あき兄さんはどうか分からないと」
「あきくん本人じゃないんだから、わたしにそんなこと分かるはずないでしょ。だから、そういうところも含めて直接確かめてくるんだってば」
暁斗のせいで面倒なことになったと、次第に腹立たしくなってきて、怒りを露わに腕を組む。
「大丈夫だよ。もし馬鹿げた理由でわたしのこと呼び出したって分かった時には、不能にしてくるから」
十中八九、今のみことの握力や脚力ならば、一生使い物にならなくなると思う。
だが、内容次第では躊躇も手加減もしてやらない。
みことの本気が伝わったのか、先程まで不機嫌と不信感を丸出しにしていた幸斗が狼狽えた。
「いえ、そこまでしなくても……」
「なんで? 血祭りに上げるより、よっぽど平和的だと思うけど?」
みことがにっこりと笑いかければ、幸斗が降参と言わんばかりに両手を挙げた。
「……疑って、申し訳ありませんでした。あと、暴走してすみません」
「わたし、結構ゆきくんに好き好き攻撃してるつもりなんだけど、そんなにわたしの気持ちが信じられないの?」
こうなったら、とことん話し合うぞと心に決め、紫水晶の双眸をじっと見つめる。
すると、まるで叱られた犬みたいに夫がしゅんと項垂れた。
「いえ……疑う余地がないことは重々承知してるんですけど……みことは、とても魅力的ですから。昔から、みことにふらふらと寄ってくる輩が多いので、つい過敏に反応してしまうんです」
「えええ……そう……?」
幸斗の方が余程女の子に言い寄られていた気がするのだが、その辺りはどう認識しているのか。
(あー……でも、ゆきくん基本的に女の子からの好意は受け取らない主義だったからなぁ……。なんなら、そういう女の子たちがいたってこと、忘れてそう……)
そう考えると、過去に幸斗に恋心を抱いた女の子たちが可哀想になってきた。
だが、幸斗はみことの反応に納得がいかなかったらしく、もう一度むっと眉間に皺を刻んだ。
「そうですよ、自覚がなかったんですか?」
「その言葉、そっくりそのままゆきくんに返すよ」
みことがばっさりと切り捨てれば、幸斗は考えるような間を置いてから、先刻に比べて勢いを失った声で言い返してきた。
「……俺の場合、見てくれだけで判断して、中身を知ってから勝手に裏切られたような気持ちになるような方ばかりでしたので……」
「だから、ノーカンって? ゆきくん、それ世の男性たちを敵に回しかねない発言だから、余所では言っちゃ駄目だよ」
もし幸斗の言う通りだったとすれば、確かに良い気持ちはしなかっただろう。
異国の王子様を思わせる容貌の幸斗にどんな夢を見ていたのかは知らないが、白馬の王子様なんてものはこの世に存在しない。
幸斗は基本的に紳士である上、みことに対しては甘い言葉も態度も惜しまないところがあるから、女の子が夢見る幻想を垣間見た気分になってしまうのかもしれない。
しかし、みことからすれば、結構普通の男性なのではないかと思う。
礼儀正しく振る舞うのは、幼い頃から他人の家に世話になっていたが故にであり、みことへの対応は好きな女の子の好感度を少しでも稼ぎたいからだ。
「それを言うなら、わたしの方こそ、結構表面的な部分を見る鬼ばかりだったと思うよ。なにせ、わたしは桃娘なんだから」
現在、その定義は若干揺らぎつつあるものの、たとえみことが女鬼だとしても、桃娘の性質を持ち合わせている事実は変わらない。
ふうっと溜息を零し、組んでいた腕を解く。
「まあ、でも……ゆきくん、割と独占欲が強くてやきもち焼きなところもあるみたいだから、そんなに不安なら何度だって安心させてあげるよ」
そう言い終えるなり、俯きがちになっていた幸斗の顎をそっと掴み、ついと掬い上げる。そして、迷わず幸斗の薄くて形の良い唇に自分の唇を重ねた。
みことの行動は、余程幸斗の意表を突くものだったに違いない。眼前に迫る紫の両の瞳が、限界まで見開かれていく。
でも、みことは動揺する幸斗に構わず、幾度も角度を変えては啄むようなキスを落とし、仕上げとばかりに徐々にふやけてきた唇をぺろりと舐める。
幸斗の頤を掴んだまま緩やかに顔を離すと、ふっと吐息を零す。
「……どう? 少しは安心した? これでもまだ足りないっていうなら、ご要望にお応えしますけど?」
ぱちりと片目を瞑って自分自身の唇も舐めれば、幸斗の雪みたいに白い頬がどうしてかだんだんと赤く色づいていく。
「みこと……男前過ぎませんか」
「やった。わたし、小さい頃は大切な存在を守れるヒーローになりたかったんだよね」
我ながら、一般的な幼い女の子とはズレた夢を持っていたものだと思うが、当時の父は決して馬鹿にしたりしなかった。
「お父さんのことも守れるくらい、みこと、強くなるよ!」と言い出した時は、さすがに苦い笑みを零していたものの、それでも最後まで娘の夢を否定することはなかったのだ。
(お父さん、結構寛容な父親なんだよね)
こと、娘の恋愛や結婚になると我を失い、暴走してしまいがちだが、それさえなければ、基本的に心の広い父親だ。
「それで、ゆきくん。どうするの? 続ける? それとも、もうやめておく?」
幸斗の顎を離さぬまま、耳元に囁きを落とせば、白旗を上げるような溜息がみことの耳朶をくすぐった。
「……みことの気持ちは充分に伝わってきましたから、もう結構です」
「そう? 遠慮しなくてもいいんだよ?」
からかうように吐息ごと声を幸斗の耳の中に吹き込むと、横目に睨まれた。
「……みことに弄ばれたままなのは癪なので、今日はここまでで終わりにしてくださいよ」
「弄んでなんかないよ、れっきとした愛情表現だよ」
そう反論しつつも幸斗と適切な距離を取り、自分のスマートフォンを掴み取る。
それから、暁斗と細々としたやり取りを交わし、おやすみの挨拶で締めくくると、再び苦い顔になっている幸斗に向き直る。
「……あき兄さんの場合、もしかしたらみことと結婚してたかもしれない相手ということもあって、余計に複雑なんです」
何の前触れもなく吐露された本音に、ようやく腑に落ちた。
確かに、幸斗にも似たような相手がいて、その女鬼、あるいは人間の女性と二人きりで会うと聞かされたら、みことも相当気を揉んだだろう。
「……ごめんね、ゆきくん。わたし、そこまで思い至らなかったよ。あきくんとはお見合いしたけど、それだけだし、もう終わったことだから……」
これでは、幸斗のみこと以外の女性への関心のなさをどうこう言う資格なんて、なかったのかもしれない。
自分の至らなさに今度はみことが落ち込み、しおしおと萎れながら謝罪の言葉を口にすれば、幸斗がふっと微笑みを浮かべてくれた。
「いえ。俺の気持ちを理解してくれたなら、もうそれだけで充分ですよ。俺の方こそ、いくら気持ちが昂ってたとはいえ、声を荒げたりして、すみませんでした」
これで喧嘩は終わりだと言わんばかりに、幸斗がみことの頭をよしよしと撫でてくれる。
「……それにしても、兄さんはどうして今さらみことに会いたがってるんでしょうね。しかも、二人きりで」
幸斗の言う通り、本当に何故なのか。
「うーん……ゆきくんと結婚して、わたしが義理の妹になったから、とか?」
不倫以外の答えを無理矢理捻り出してみたものの、何だか少し苦しい気がする。
他に何か考えられないかと頭を悩ませていたら、幸斗が不意にぽつりと言葉を零した。
「ああ……案外、そうかもしれませんね」
「へ?」
幸斗に納得したような声を出されて呆気に取られていると、紫の眼差しと黄金の眼差しが交錯した。




