ずっと、こうしていられたら
幸斗十九歳、みこと十七歳の初冬
――昨夜、入浴を済ませたにも関わらず、悪寒が止まらなかった。
念のためにと体温を測れば、案の定というべきか、熱があった。
だが、鬼という生き物は、生まれながらにして頑強な肉体を持つ個体が多い。だから幸斗も、寝ればすぐに熱が下がるだろうと思い、昨晩はいつもよりずっと早く眠ったのだ。
しかし幸斗の考えに反し、寝れば下がると信じて疑わなかった熱は、さらに上がっていた。
高熱で意識が朦朧としつつも、これは一応病院で診てもらった方が良いという判断はできたため、倦怠感に苛まれている身体を引きずり、かかりつけの病院へと足を運んだ。
診察を受けた結果、不幸中の幸いでインフルエンザなどの厄介な感染症ではなく、ただの風邪だと判明し、処方された薬を薬局で受け取ってきた幸斗は、一人暮らしをしているアパートに帰宅するなり、力尽きるようにベッドへと倒れ込んだ。
(無理……しんどい……)
もし、ここが冬城の屋敷だったならば、平日だろうとなんだろうと、琴子が甲斐甲斐しく看病してくれた。
そもそも通院自体、瑠璃が車を出して送り迎えをしてくれたに違いない。
(着替えて、何か食べて……)
熱のせいで全身から滲み出した汗が、不快だ。早く汗を拭いて着替えたいのに、身体に力が入らない。
病院で処方された薬は、食後に飲むタイプのものだから、とにかく何か胃に入れなければならないのに、起き上がることすらままならない幸斗は、ただ呻くことしかできない。
(……みこと)
ふと、何の前触れもなく、みことの笑顔が見たいと思った。
あの陽だまりみたいに温かな笑顔で、大丈夫だよと言って欲しくてたまらなくなった。
我ながら幼稚な欲求に突き動かされ、思うように動かない身体を叱咤し、近くに転がっていたスマートフォンにのろのろと手を伸ばす。そして、液晶画面をタップしてトークアプリを開く。
『熱出た。みことに会いたい』
熱に浮かされてよく働かない頭が何とか捻り出した言葉は、前後に全く脈絡がない。
そもそも、幸斗は風邪をひいて発熱しているのだ。
みことにうつしてしまうかもしれないのだから、内心どれだけ会いたくても、そんなことは言い出すべきではない。
でも、先程送信したばかりのメッセージを削除する前に、幸斗の意識は闇に沈んだ。
***
緩やかに意識が浮上していくにつれ、優しい香りが鼻をくすぐっていく。
香りに誘われるかのように、ゆっくりと瞼を持ち上げれば、つけっぱなしにしていたはずの灯りが何故か消えていた。
もう、陽が沈んだのだろう。灯りがついていない部屋は、薄闇に包まれている。
だが、キッチンの方からは灯りが漏れているし、先刻嗅ぎ取ったばかりの良い香りもそこから漂ってきているみたいだ。
うつ伏せになっていた身体を緩慢とした動作で起こし、ベッドから下りようとした矢先、病院に行く際に着ていった、黒いパーカーにアイボリーのカーゴパンツという格好のままだったことに気づく。
眠っている間にも汗をかいていたに違いない。初冬という時期を考えればありえないほど、身に着けたままだった衣服を汗を吸い、じっとりと湿っていた。
水分補給と着替え、どちらを先に行うべきか思考を巡らせようとした寸前、サイドテーブルの上に置かれている黒いスウェットと下着、それからスポーツドリンクが入ったペットボトルが目に留まる。しかも、スウェットの上にはご丁寧に汗拭きシートまで載せられていた。
誰が用意したのかと考えるよりも先に、身体が動いていた。
まずは渇いた喉を潤し、汗を吸った服を下着と共に脱ぎ捨て、汗を拭いてから用意されていたスウェットに着替える。
脱いだもの一式をとりあえず洗濯籠の中に放り込み、のろのろとした足取りでキッチンに向かうと、ポニーテールに結われた濡れ羽色の髪がリズミカルに揺れていた。
制服姿のまま、幸斗の紺色のエプロンを身に着けたみことが、火を止めてからこちらへと振り返る。
「ゆきくん、起きたんだね。今ね、ちょうどお粥が出来上がったところなんだよ。卵粥、ゆきくんも好きでしょ」
「……みこと……なんで、ここに……」
「え。だって、ゆきくん熱出たんでしょ? それに、彼氏に会いたいって言われたら、彼女なら馳せ参じるものなんですよ?」
幸斗の質問に、みことはどやっと胸を張って答える。
「そういうものですか」
「そういうものなんです。いやー、それにしても授業が終わった後にスマホ見た時は、びっくりしたよー。返事しても、既読つかないし」
「すみません……寝てました」
起きた後も、何だか頭がぼんやりしていて、みことから返信が届いたかどうか確認すらしなかった。
「ゆきくん、熱があるんだもの。しょうがないよ。いっぱい寝て、ゆっくり休まないと」
そう言いながら、みことは食器戸棚へと身体を向ける。
「あ、そういえばね。ゆきくん、ちゃんと病院に行ったか分からなかったから、一応風邪薬買ってきたの。だから、よかったら常備薬として使って」
戸棚から茶碗を取り出すと、作業台の上に置いてもう一度土鍋に向き直る。
「あとね、ゼリーも買ってきたんだー。ゆきくんが好きな、ぶどう味と桃味。もし、お粥食べてもお腹に入りそうだったら、デザートにでも――」
白くて滑らかな手が土鍋の蓋に触れようとした直前、衝動的にみことの柔らかな身体を後ろから抱き竦めた。
だるくて仕方がないのに、どうしてこんなにも素早く動けたのかと、幸斗自身驚いたが、みことはもっと不意を突かれたのだろう。
華奢な肩がぴくりと跳ね上がり、息を呑む音が耳朶を打つ。
「……ゆき、くん?」
そっと首を捻り、幸斗を見上げてくる黄金の双眸が緩慢に瞬く。
「ずっと……こうしていられたら、いいのに……」
自覚していた以上に、身体の不調のせいで心も弱っていたのだろうか。
幸斗からの連絡を受けたみことが、学校が終わるや否やここまで来てくれたことが、泣きそうになるほど嬉しい。
みことは何度もこの部屋に遊びにきたことがあるし、合鍵も渡してあったから、家に上がることに躊躇がなかったのだろう。
その上、それだけに留まらず、ここに来る前に必要そうなものを買ってきてくれ、眠る幸斗のために着替えを用意し、こうして食事まで作ってくれた。
みことは、なんてことはないという顔をしているが、風邪を引いた恋人のためにここまでしてくれる高校生の女の子は、間違いなく少数派だと思う。
今は甲斐甲斐しく幸斗の面倒を見てくれるみことが、遅くならないうちに帰ってしまうに違いないと思ったら、自然と目の前の身体を拘束する力が強くなっていく。
じっと幸斗の顔を見つめていたみことの、花びらみたいに淡く色づいた唇がふっと綻んだかと思えば、身体に回された腕を宥めるように優しく叩いてくれた。
「……ゆきくん、今年の春から一人暮らしを始めてずっと頑張ってたもんね。家のことは全部自分一人でやって、勉強もバイトもこなして、わたしとの時間も作ってくれて……だからきっと、疲れが出ちゃったんだよ」
黄金の瞳が穏やかに細められ、甘えるように幸斗の胸元にみことの頭が擦り寄せられると、白桃みたいな甘くて瑞々しい香りがふわりと立ち上ってきた。
「だから、今はめいっぱいわたしに甘えていいんだよ。今日は夜になったら帰らなきゃだけど、明日は土曜日だから、できるだけ早くお見舞いにくるからね。明日のごはんはうどんにでもしよっか。それなら、ゆきくんも食べやすいでしょ」
澄んだ愛らしい声が、耳に心地よく感じられる。
みことの甘えていいのだという言葉に誘われるがまま、透き通りそうなほど白くて華奢な首に頬を擦り寄せれば、くすくすと鈴を転がしたような笑い声が振動となって伝わってきた。
「今のゆきくん、可愛い」
「……みことが言ったんですよ、甘えていいって」
「うんうん、どんどん甘えて。ゆきくんは頑張り屋さんで、そこがいいところなんだけど……だからこそ、たまに頑張り過ぎちゃうんだよね。いいんだよ、もっと肩の力を抜いても」
みことの首筋からは、より濃厚に芳香が漂ってくる。
今すぐにでもこの白くてきめ細かな皮膚を牙で突き破り、その身に流れる血潮を啜り上げたい欲が腹の底から込み上げてきたが、すぐに抑圧し、みことの柔らかい身体の感触を楽しむだけに留めておく。
「ゆきくん寝てたから、汗拭きシートを置いておくだけにしたけど……自分でちゃんと身体拭けた? あとで蒸しタオルを作って、背中だけでもわたしが拭こっか?」
しかし、みことは自分の背後にいる男がどんな欲望を内に秘めているのか、微塵も気づいていないらしく、のんきにそんなことを問いかけてくる。
「じゃあ……お言葉に甘えて。あとでお願いします」
「うんうん、いいよ」
みことに誠実にあろうとするのであれば、ここは丁重に断っておくべきなのかもしれないが、幸斗は据え膳はありがたくいただく派だ。それに、恋人同士ならば、このくらいは許されるだろう。
「あ……そういえば、ゆきくんのクローゼット勝手に漁っちゃって、ごめんね。起きたら、すぐ着替えたいかなぁって思って、服も下着も出しちゃったけど……よく考えたら、デリカシーがなかったね。本当に、ごめんなさい」
「緊急事態だったんですし、別に気にしてないですよ。それに、一緒に暮らしてた頃はみことに洗濯してもらったこともあるんですし、今さらです」
花嫁修業の一環として、冬城家の家事は基本的にみことと琴子の交代制で行われている。ちなみに、一緒に暮らしていた頃は、居候という身の上の幸斗も家事に参加していた。
そのため、昔からみことは男物の洗濯物を、幸斗は女物の洗濯物を洗濯し、干し、時にはアイロンをかけ、畳んでいたのだから、本当に今さらだ。
「そう? それなら、よかった。彼氏彼女になったから、さすがに気になるかなぁって、ちょっと思ったんだ」
みことの、その発想が可愛い。
より一層ぎゅうっと抱きしめれば、軽やかな笑い声が耳朶をくすぐっていく。
「ゆきくん、本当に今日は甘えん坊さんだね」
「……幻滅しましたか?」
「するわけないよ。じゃあ、ごはん食べるのは後にして、もう少しこうしてる?」
「こうしてる」
みことの言い方を真似て返事をすると、再び耳に心地よい笑い声が上がる。
(やっぱり……みことには、俺と結婚して欲しい)
みことが桃娘でなければ、学生のうちにこんなことを考えたりしなかっただろう。
でも、みことは桃娘だ。だから、これからもみことと一緒にいたいと望むのであれば、幸斗も結婚について考え、決断を下さなければならない。
最終的に誰と婚姻を結ぶのかは、みことの意思で決めることだが、どうかその選択肢の中に幸斗も入れて欲しい。
みことの首筋から顔を離すと、祈るように濡れ羽色の髪に覆われた小さな頭にキスを落とした。
――みことの迎えがてら、幸斗の見舞いに来た刀眞がこの現場を目撃し、血走った目で突撃してくるまで、あと五秒。
番外編、これにて閉幕です。




