その男、神風に運ばれて
阿鼻叫喚。狂喜乱舞。人々が一喜一憂し、人間の性根すべてを見渡すことができる場所。そう、それこそが府中の杜に位置する東京競馬場だ。一度門をくぐれば、一瞬にしてその熱気が体を包み込む。
日本人のDNAに刷り込まれ、全人類が愛するスポーツ。何を隠そう、それが競馬だ。ある人物の言葉を借りれば、年末のグランプリである有馬記念を買わない日本人は日本人にあらず。非国民とすら言えると断言している。
時にして、この競馬では奇跡として後世に語り継がれるレースが生まれる。
これは、そんな国民的娯楽である競馬で、人生を逆転させてしまう男の小話――。
* * *
まだ昇り切っていない太陽は、若い男の額を焼き尽くすが如く照りつける。
短髪ながらも艶のある黒髪をなびかせる男の名は鷲見開次。最近になって競馬の面白さに気づき、週末になれば足しげく競馬場に通うようになった男だ。
何を隠そうこの男、毎レース百円ずつしか買わないにも関わらず、すでに三百万円は負けている猛者だ。
「いやぁ暑い……。五月でこれってことは今年の夏はもう干からびるな」
開門と同時に購入したビールはすでにそこを尽き、紙トレーに入れられたモツ煮込みが物寂しそうに男を眺める。時刻は午前九時五十分。この日の第一レース発走まであと十分といったところだ。
気温もさることながら、この日は競馬の祭典である日本ダービーが控えていることもあり、どこを見ても人で埋め尽くされていた。この人波が様々な熱を生み出し、早くも開次の心を踊らせていた。
「そろそろ本命決めて買うかぁ。第一レースの人気馬は……」
その時だ。男の背中に嫌な声が突き刺さる。
「ばっきゃろい! 男は黙って第一レースは十番人気に全ベットするって太古の時代から決まってるやろ!」
酒焼けしてかすれた声がホール前で響き渡る。開次は一瞬にしてそれが誰の声か察知し、場を離れようとした。しかし、時すでに遅し。しゃがれた声は猛烈な酒気と共に首筋に巻きついてきた。
「よう若僧! 今日も元気に金を溶かしにきたか!」
男の名は利根田太郎。毛根をはるか昔に置いてきた男だ。この府中において、この短小ハゲを知らない競馬ファンはいない。
「おう、まだ生きてたか老いぼれのくたばりぞこないが(いやぁ利根田さんも元気そうで何よりですよ)」
「おう。喧嘩売ってんのか借金王」
開次は思わず本音と建前が逆転してしまいドキッとした。
利根田は開次がこの競馬場に通うようになってからなぜかよく遭遇し、その都度声をかけてくる。利根田は内心、弟分のように思っているが、開次は未だに不審者兼浮浪者だと思っている。どちらかと言えば、利根田の思いが少々掛かり気味と言えるだろう。
開次はいつも利根田に好き勝手言われっぱなしの状態だ。だが開次、だてに三百万円負けているわけではない。今日は違うぞと言わんばかりに言葉を重ねる。
「今日こそはちゃんと当てますからね。なんなら、わらしべ長者の如く今日は今までの負けをすべて帳消しにしてやりますよ」
「ほう。えらい自信やないか。今日は何か勝算でもあるんかえ?」
四リットルの大五郎をラッパ飲みし、利根田は開次の顔を覗き込んだ。
「これまで利根田さんのデタラメ……アドバイス通りめちゃくちゃな買い方をしてきて負けてきましたが、今日は僕が研究に研究を重ねたデータで大儲けですよ。これで利根田さんから借金王の汚名を吐かれる日にピリオドが打たれるわけです」
開次はライトで一層輝きを増した利根田の頭に指をやり自信を見せる。開次のこれまでにない自信を目の当たりにした利根田は思わず笑みをこぼして手を払い退けた。
「ふん! 今日はやけに気合が入っているようやないけ。面白い。今日の日本ダービーが始まる前、パドック前で戦果を見せてみい。ほいじゃな」
利根田はそういうと、高笑いして人混みへと姿を消した。あまりの余裕ぶりに、開次の心に火がつく。
「今に見てろ茹でだこアル中オヤジが……!」
今、熱気渦巻く府中に一つの熱い思いが火柱の如く立ち上がった――。
* * *
数時間後。人流は熱を持ってスタンドを埋め尽くし、午後三時には十五万もの観衆が歴史的一戦を今か今かと待ち望んでいた。
開次もその中の一人であり、ビッシリと文字で埋め尽くされた新聞をホールで広げ展開を予想する。その出立ちはまるで一級の戦士そのものだ。
「よう借金デラックス。でかい口叩いていたが調子はどうや?」
陽気な利根田の声を聞き、開次は新聞を少し乱暴に閉じた。
「その様子じゃ全くダメそうやな。どれ、ちょっと見せてみい」
「あっ! ちょっとやめてくださいよ!」
利根田は開次が手にしていた新聞を取り上げると笑いながら広げた。しかし、それをめくればめくるほど笑みは消えていく。次第に利根田の表情は大金を失った時と大差のない悲壮感に満ちたものへと変化していった。
「お前、これ全部一番人気が本命やないけ! 一番人気と言えばお前、今日は……!」
「ふっ……。そうさ、全レース最下位だ。何か文句でも?」
あまりに涼しい顔を浮かべる開次を見た利根田は戰慄する。これが“本物”のチカラなのかと、たじろいだ。さらに言えば、利根田には開次の背後に禍々しい姿をした死神さえ見えるほどであった。
「そんなこと言いますけどね、どうせ利根田さんもボロ負けなんでしょ! 今日の収支教えてくださいよ!」
反撃に出んと言わんばかりに開次は声を荒げる。一方で、今度は利根田が余裕の表情を見せた。
「聞いて驚け……! ワシは軍資金をしっかりと“三倍”に増やしている……!」
えっ!? と驚きを隠せない開次。それもそのはずだ。通常、馬券に絡めることが多い一番人気が開次の呪いとも言える逆神っぷりに阻まれ、撃沈している。一番人気が馬券に絡む確率は七割とも言われる中で、それがことごとく外れているわけだから、本来無事であるわけがない。
「そんなに信じられないなら見せてやるわ。ワシの財力ってやつをな」
そう言うと利根田は開次にパンパンに膨らんだ歴史を感じさせる黒革の折り畳み財布を投げつけた。ズシっと重みを感じるそれは、確かに利根田の言葉を裏付けるものであった。
「クソ! いったいどうやって稼いだんだ!」
しかし勢いよく開けたその中身は開次の想像をさらに上回っていた。
「……。あの、三百円しか入っていないんですが」
「言ったろ? “三倍”稼いだって」
澄ました顔で天を見上げる利根田は格の違いを見せつけるように立つ。これが、『府中の敗残党』の異名を持つ利根田の“スケール”だ。
「こんなの稼いだって言わないですよ! 下手したら府中駅周辺の自販機下でも見回った方がまだ稼げますわ! ていうか、なんでこんなパチンコ玉入ってるんですか!?」
「なんやとこのスカポンタンが! ワシが必死に地面這いずり回ってやっと手に入れた百円やぞ! そんじょそこらの何百万よりも価値があるわい! それにそのパチンコ玉は馬で負けた後に弾くための“隠し玉”や! 文句ぬかすな!」
あまりにも低レベルな次元で火花を散らす二人。しかしその熱気は凄まじく、人流がまるで寄り付かない。悪い言い方をすれば、絶対に関わってはいけない人間を避けているとも言えるだろう。
だが火花散る戦いもクライマックスだ。競馬関係者であれば『一年の締めくくり』とも称する日本ダービーが間もなく発走する。
「やばい、こんなことやってる場合じゃないですよ利根田さん! 馬券買わないと締め切られます!」
「わかってるわい! さっさと買いにいくぞ!」
* * *
『さあいよいよ始まります夢の第十一レース日本ダービー! 今年は例年稀に見る高レベルな戦いが予想される中で、第十レースまで一番人気が最下位という波乱も繰り広げられております。まるで何かに取り憑かれたかのように一番人気馬が走れていません』
府中の杜全域に響き渡る現地実況の声。利根田はこれを遮るように開次に対して「お前のせいやな」と呟いた。開次はそれを「うるさいですよ」と投げ返す。実際のところ、開次はあまりの興奮に利根田の言葉など対して聞こえていなかった。
辺り一面を若緑に染め上げた芝に、一年に一回しかない競馬の祭典を間近に控えた大観衆。地鳴りなどという表現では物足りないほどの歓声がすでに至るところで湧き上がっており、誰一人欠けることのない高揚感で満ち溢れている。
生まれて初めて目にする大舞台を前に、開次はもはや自分の勝ち負けが一瞬どうでもよくなった。
『まもなく発走です! その前に、圧倒的一番人気のこの馬を紹介しましょう!』
実況の声が一層甲高くなると、これまでの心の高まりが嘘であったかのように大観衆が息を呑む。それに応えるかの如く、一頭の黒毛馬が颯爽と姿を現した。
『今、鴨緑のターフに絶対的王者が現れました! 単勝一番人気七番、オッズ一・五倍の漆黒のサラブレッド、クロードであります!』
その瞬間、一気に大歓声が湧き起こる。まさに、役者を待ち望んでいたと言わんばかりの期待感が場内を埋め尽くしている。
「このレースはいくらお前が買ったとしてもクロードが勝つ。やっとお前も勝つことができそうだな」
利根田は悠々と語る。しかし開次の表情は非常に暗い。いや、悲壮感に染まっている。
「どうしたんだ若僧。番号でも間違えたか」
「……はい」
「……はあぁ!?」
利根田は思わず命の次に大事な大五郎を落とした。「嘘やろ!」と開次が手にする馬券を見るとそこには到底考えられないような馬の名が記されていた。
「お前、よりによって隣の八番最下位人気のホワイトウインドなんちゅうの買っとるやんけ! こんなん奇跡が重なりまくってやっと出れた馬肉候補やぞ!?」
「わかってますよ! あぁ……。よりによって、なんでやっと勝てそうなレースで間違えるんだ……」
この世の終わりのような顔を浮かべる開次を横目に、祭典の始まりを告げるファンファーレが場内に響き始めた。甲高いラッパの音と万雷の拍手が馬たちに夢を乗せ、瞬く間にゲートが開く。
『さあ二番人気のタカチャン、四番人気のヤサイカレーなどが先行する中で、圧倒的支持を得ているクロードがすぐ後ろに控えています。そのさらに後方には選び抜かれたサラブレッドたちがひしめきあいながら駆け抜ける! しかし、おっと! 一頭白馬の馬体がダントツで遅れている! ホワイトウインドだ! よろめきながらラチ沿いを走っているぞ!』
「ああ、やっぱりダメだよな……。そりゃそうだよな……」
落胆のあまりレースをしっかりと見ることができない開次は、さらにこうべを垂れる。大量の汗はまるで開次の涙を表しているようであった。一方で、クロードの単勝馬券を買っている利根田はお構いなしに叫びまくっている。
「その調子だクロードぉぉ! 周りの駄馬共をひねり潰してでも来いやぁぁぁ! 負けたら馬肉にして骨の髄まで酒のつまみにするぞこの野郎!」
『さあ地獄のような怒号が聞こえる中、いよいよレースも終盤! ここでクロードが上がってきます!』
圧倒的人気馬であるクロードが順位を上げ先頭に踊り出ると、今日一の地鳴りがした。この展開はクロードの完全なる王道勝ちパターンだ。他の馬からしてみれば、将棋で言うところの“詰み”に近い状態と言える。
しかしこの時、異変――否、奇跡が唸りを上げて迫っていた。
『ん? んん!? な、なんと、ここでぶっちぎり最下位で馬肉街道を突き進むホワイトウインドが突っ込んできた!』
その瞬間、若き大スターを包み込む歓声はざわめきに変化した。さらにどよめきへと昇華し、これにとどまらず悲鳴が会場中に響く。
『なんとホワイトウインド、とんでもない走りであっという間にクロードに追いつきました! その走りはまさに神風! 風と共に駆け抜けてくる! しかしクロードも抜かせない! 純白の神風と漆黒の魔風がぶつかり合う! 今、二頭がまったく並んでゴールイン!』
瞬間、悲鳴すらも聞こえなくなった。一瞬、十五万の大観衆からは一切の物音すら聞こえなかった。いや、正確には、信じられないという心境と、このとんでもない勝負の結末を、固唾を飲んで見守るしかなかったと言えるだろう。それは開次も利根田も同じだった。
『さあスローモーションを見てみましょう! この映像を見る限りは……わずかにハナ差でクロードが先着しているように見えます! 勝者はクロードです!』
実況の嬉々とした声が場内に走ると、観客もそれに呼応するように歓声を上げた。
「やっぱりダメか……。でも、ここまでやれただけでもすごいよ」
開次は肩を落としつつも、あとわずかにまで迫ったホワイトウインドに感謝の気持ちさえ感じた。
「ワシも長いこと競馬を見ているが、ここまで衝撃的なレースもそうあったもんじゃない。でもまあ、次回は買い間違えないことだな」
珍しく励ますように肩を叩く利根田。本人はクロードの単勝が当たったと思いホッとしたからいいが、もし負けていたら恐らく怒り狂って辺りで暴れまわっていたことだろう。
『ん? ちょっと待ってください。このレースは審議のランプが上がっています』
「え?」
利根田が思わず声を上げると同時に、大観衆の歓声も一斉に止み、視線は電光掲示板へと向けられた。
『今結果が出ました。な、なんと、クロードは最終コーナーで他の馬に対し重大な妨害をしたとし、最下位! 最下位です! まさかの降着! この結果、一着は繰り上がりでホワイトウインドになりました!』
実況の驚きを隠せないといった声が響くも、誰も現実を飲み込めない様子であった。ただ一人を除いて――。
「やっっったぁぁぁ!」
開次は右手で拳を突き上げた。生まれて初めて、ついに、馬券を当てた瞬間だ。
「う、嘘やろ……? こんなん聞いたことないで……」
項垂れるのは利根田。一喜一憂、天変地異。どの言葉でも表せないような心境がにじみ出ていた。
『信じられない結果となりましたが、ホワイトウインドの走りは非常に素晴らしいものでした。どちらが勝ってもおかしくない状況で、最後はまさに不思議な風が後押ししたか!』
「く、くそが! 何が降着やくそ審判め! その目くり抜いてワシがレーシック施してやるわぁぁぁ!」
そしてその瞬間、案の定逆上した。
「ま、待ってゴミクズ親父! こんなところで暴れちゃダメですよ!」
「誰がハゲダルマじゃこのくそガキが! 本音と建前が逆になっとるんじゃい! しばき回したろか!?」
もはや人の話を聞いていない利根田と、嬉しさのあまり本音が漏れてしまった開次。しかし怒りが収まらない利根田は、その勢いのまま開次が手にする当たり馬券を奪い取った。
「どうせ大した金額入れてないんやろ! ワシが受講料でもらい受けてやるわ!」
だが利根田は驚愕する。目を丸くして声を上げた。
「ご、五十万!? う、嘘やろお前!?」
しかしまだ驚きは続く。開次は震える手でポケットからさらに馬券を取り出した。
「じ、実は五十万の馬券があと四枚、合計で五枚あるんです」
「う、うそやろぉ!? なんで普段百円ぽっきりしか買わんお前がそんな大金で買ってるんや!」
もはや嬉しさと驚きと、様々な心情が混ざった表情で開次は口を開く。
「これまであまりにも負け続けたけど、やっぱりクロードは強いし今あるお金を入れるならここかなと思いまして。そしたら番号を間違えて別の馬を購入していたのでかなり焦っていました。あとちなみに言っておきますが、僕借金なんてしてないですからね。普通に仕事してそれなりに貯金もしてます」
「……! こ、こんなことあってたまるか……。そ、そうや、オッズは!? オッズはどうなんや!?」
『確定しました。一着、八番ホワイトウインド。単勝八百二十倍――』
「は、はっぴゃくぅぅ!? とすると……よ、四億やってぇぇぇ!?」
あまりのスケールのでかさに、利根田は腰を抜かした。開次においても同じで、まさに有頂天、僥倖、圧倒的僥倖を全身で味わっていた。
「……なあ開次くんよ」
「……なんですか?」
「ちょっとワシにお小遣いくださいな」
「いやです」
「ちょっとくらいええやろ! このドケチ小便小僧が!」
とんでもない逆転劇を見せた男と騒がしい男を横目に、皐月の爽やかな風が栄冠を手にした一頭の視線と共に府中の杜を優しく過ぎ去っていった。
(終)
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この作品はSSの会メンバーの作品になります。
作者:蕎麦うどん