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pier4 鼻血に濡れて水鉄砲に濡れて

 



 突き刺さるような真夏の日差しを、透き通った肌が汗ごと跳ね返す。一瞬、そのまばゆい輝きに見とれかけて、背徳感にせっつかれながら里花子はトップスのビキニを直した。


「よっしゃー! これで堂々と海に入ってやる!」


 一番乗りで着替えを終えた悠紀が、一抱えもある水鉄砲を担いで更衣室を駆け出す。出遅れた瑛子が「待ってよ!」と叫びながら彼女の影を踏んで、出口の外で思いっきり蹴つまずいた。投げ出された二人分のカバンが砂まみれだ。すぐ後ろに腰を下ろした麻希が、倒れ伏した瑛子の背中を指でつついて遊び始める。


「あーあ、慌てるから……」


 嘆息しながら里花子は怜菜を振り仰いだ。やや遅れて着替えを終えた怜菜が、おっかなびっくりの足取りで更衣室の出口に現れた。長い髪をシュシュでまとめ上げてポニーテールを作り、ボーダー柄のワンピースに身を包んだ彼女の姿は、まるで黄金比が水着をまとっているみたいで驚くほどに美しい。見ているこっちが恥じらいを覚えそうだ。


「ね、本当によかったの? ぜんぶ出すとか無理言っちゃってさ」

「いいのよ。どのみち私、小遣いを使う機会も少ないから持て余していたところなの」

「だからって総額三万円は大盤振る舞いが過ぎるんじゃ……」

「払っちゃったものは気にしても仕方ないわ。ほら、私たちも行きましょ?」


 先輩にたかる悠紀たちも悠紀たちだが、大人しく財布を開いてしまう怜菜も怜菜だと思う。諫める言葉を満足に続けられないまま、仕方なく、二人で外へ出た。被覆面積の減った肌が、日射に焼かれてチリチリと湯気を上げた。

 鹿骨や大杉の言った通り、駅ビルには衣料品店が軒を連ねていた。その名も『JOMO(ジョモ) store by collage』──レディースを中心に取り扱うアパレルブランドの新業態店舗だという。水着のみならずサンダルやカバン、お洒落な洋服も一通り取り揃えていて、油断していると目当ての水着以外にも触手が伸びそうだった。一応、財布担当の怜菜に遠慮して、いちばん値段の安かったビキニとホットパンツのセットを選んだつもりだ。肌の露出を嫌がった瑛子はタンキニ、「派手なのがいい!」と豪語した悠紀は三角ビキニ、麻希は店頭の一番手前に陳列されていたビスチェ風の水着を選んでいた。誰ひとり似たようなデザインの水着を選ばなかったあたりに、甲和女子生徒会のバラバラ加減が見て取れる。と、里花子は思う。

 先をゆく後輩三人が、砂浜の一角にカバンを固めて陣を構えつつある。遅れて追いついた里花子と怜菜も、三人の傍らにカバンを置いた。有料のコインロッカーは満室で荷物を預けられなかったが、正午をまたいで最も暑い時間帯に突入したせいか、浜辺の人混みはいくらか解消に向かっていた。


「すっご、綺麗……」


 水着姿の怜菜を見た悠紀が感嘆の声を上げた。瑛子に至っては鼻血を流しながら怜菜に見入っている。興奮のせいか、さっき顔から地面に突っ込んだせいなのかは知らない。


「なんだか慣れないな。水着なんて滅多に着ないから」

「遊んでたらそのうち慣れますよ! 海入りましょう、海っ」

「そうね、入っちゃおう。泳法ちゃんと覚えてるかしら」

「犬掻きができれば東なぎさまで行けますよ」

「だから向こうは行っちゃダメだって……」


 相変わらず鼻息の荒い麻希を、瑛子が鼻血を拭いながら押しとどめている。葛西海浜公園は東なぎさ、西なぎさと呼ばれる二つの人工砂浜を備えているが、天然の干潟である三枚洲を抱え込むように造成された東なぎさは、生態系保護のため上陸が禁じられているらしい。いま里花子たちがたむろしているのは、陸地から架橋されている西なぎさの方だ。ちなみに園全体がラムサール条約の登録湿地でもある。

 打ち寄せる波の音が涼しい。

 吹き渡る風は穏やかに笑っている。

 海鳥たちの吞気な歌声をかき消すように、水鉄砲を抱えた悠紀が「ひゃー!」と叫びながら海へ駆け込んだ。水音が弾け、日差しを捕まえた水しぶきの粒がキラキラ輝きながら空へ舞い上がる。遅れて駆け込んだ麻希と怜菜が、水しぶきに驚いて肩を跳ね上げる。水面(みなも)に揺れる澄んだ碧空が、水と戯れる三人の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。


「……大丈夫?」


 荷物番のつもりでカバンの脇に腰かけながら、いまだに鼻血を拭っている瑛子を里花子は気遣った。「へへ」と瑛子は苦笑して、里花子の隣に腰を下ろした。


「私もここ、いてもいいですか」

「いいよ。あっちはまぁ……三人で楽しそうにしてるし」


 ツッコミ担当がいないのは気がかりだが、上級生の怜菜がいる限りは過度な暴走をすることもないだろうと思う。あんな世間知らずのお嬢様でも、礼節と常識と最低限の嗜みはしっかり備えている、それが怜菜という少女だ。

 遠くを見やると、『Reunion』の二人のもとには遊び疲れた仲間たちが続々と戻りつつある。──「マジでお前らだけで食べ切ったのかよ!」「太るぞーっ」「違うし! 飢えてる子たちがいたから分けてあげただけ!」「そうだよ、しのぶの腹が丸いのはもとからだろ」──。漏れ聴こえる会話が可笑しいやら居たたまれないやらで、そっと里花子は首をすくめて視線を戻した。凄まじい打撃音と悲鳴が轟いたが聴こえなかったことにした。


「美味しかったですね、お肉」


 瑛子がつぶやいた。「うん」と里花子も口角を上げた。


「怜菜のおかげだね」

「先輩、すごいですよね。どんな相手にも先陣切って交渉を挑みに行っちゃう」

「強引に買収して解決しようとするのは勘弁してほしいけどな……」

「他にもあるんですか、お金で解決したこと」

「あるよ、何度も。結局それがいちばん効果的だったりするしさ」


 里花子は失笑を押し殺した。

 怜菜がみんなの矢面に立つところを見るのは今度が初めてじゃない。生徒会長に就任してからというもの、怜菜は事あるごとに交渉ごとの先頭に立ち、毅然とした態度で結果を勝ち取ってきた。校則変更の議案提出しかり、予算折衝での揉め事の解決しかり、文化祭実行委員会の選任しかり。たとえ不利な立場になろうとも、彼女は決して弱音を吐かないし引き下がりもしない。人脈、金銭、権力、あらゆる手を使って相手を丸め込もうとする。彼女の使命感の深さには時おり背筋が冷える。


「なんで怜菜先輩ってあんなに頑張るんだろう」


 波間ではしゃぐ怜菜や麻希の背中を、瑛子は遠く見つめている。「そりゃ」と里花子は後ろ手をついた。


「学校法人甲和学園の理事長様の娘だから」

「……やっぱり本当なんですか、その噂って」

「本当だよ。理事長に会ったこともある。私と怜菜、家が近所だから」


 良家の血とは無縁の里花子が甲和女子のようなお嬢様学校に入学を決めたのも、もとをただせば親友の怜菜がそこにいたからだ。怜菜とは小学生の頃から既知の仲だった。区内でもなかなか見かけないような大きな邸宅に住み、両親の厳格な(しつけ)を受けて育った怜菜は、小学校以外ではほとんど遊ぶことのない少し不思議な存在で、そのミステリアスさに惹かれて親しくなっていったことを今でも思い出す。


「責任感が強いんだよ、怜菜は。どんなときでも自分が一番でいなきゃいけないって思ってる。だから学業成績も運動成績もトップクラスだし、交渉ごとがあれば矢面に立とうとするの。ノブレス・オブリージュってやつなんだろうね。私にはよく分かんないけどさ」


 里花子は嘆息した。怜菜の前では決して聞かせられない溜め息を、潮風に乗せて彼方へ吹き飛ばした。ウミネコの群れが子猫みたいに鳴きながら空を通り過ぎた。

 どんなときでも頼りになる完璧超人な生徒会長だからこそ、ときどき、そんなに頑張らないでと叫びたくなる時がある。仕事なんか勉強なんか放り出して自由になってしまえばいいのにと、もどかしい思いを胸に隠すこともある。そんなときは副会長の里花子が自発的に怜菜の仕事を奪うようにしている。どうせ怜菜が手を抜くことはないのだから、手を抜くべき案件そのものを減らしてしまえばいい──。そうやって里花子が努力すればするほど、怜菜はどこからか新たな仕事を引き受けてきたり、いっそう勉強の量を増やしたりするのだから手に負えないのだが。

 まるで、大人になる競争をしているみたいだ。

 怜菜と張り合ってペンやパソコンにかじりついていると、そんな感慨が胸に浮かぶこともある。


「わたしは先輩たちみたいにはなれないな」


 しょんぼりと瑛子が眉を下げた。


「あんなに頑張れないもん。今日だって夏バテしたくらいで仕事できなくなるし」

「ま、最低限やるべきことはやってほしいけどさ。怜菜みたいな超人になってほしいなんて私は思わないよ。あんなのはこの世に一人でいい──」


 苦笑しかけた里花子の顔面を衝撃が襲った。

 目を閉じる間もなく、飛沫と化した海水がまぶたの隙間から飛び込んでくる。はしたなく絶叫するのを里花子は辛うじて我慢した。誰の仕業か考えるまでもなく、閉ざした視界の向こうで「あははっ」と悠紀の笑い声が響いた。


「ほんとに当たっちゃった! 顔!」


 見ると、三十メートルほども離れた場所で悠紀が水鉄砲を構えていた。天真爛漫元気いっぱい、小学校低学年並みの晴れやかな笑顔は、ゆらりと里花子が立ち上がるのに従って下から順に青く変色し始めた。おそるおそる銃口を下げた悠紀は、「あは……」と乾いた笑いを発しながら一歩、後ずさりした。


「……船堀」

「ハイ」

「そんなに私の鉄拳制裁がほしいの」

「あ……あたしはいらないっていうか、きっと怜菜先輩が高値で買い取ってくれると思います」

「よく分かった。金を払ってでもあんたに一泡吹かせてやる」


 猛然と駆け出すや否や、悠紀は「ギャー!」と叫んで水鉄砲を放った。既視感の明滅に耐えながら里花子は悠紀を追いかけた。今度という今度は絶対に許しておかない。捕まえたら至近距離から海水入りの水鉄砲を噴射してやる。途中で拾った彼女の水鉄砲を構え、水際を逃げる悠紀の背中を追いながらタンクに水を補給し、唖然として見守る親子連れやカップルの合間を縫って全力疾走した。


「待てこのバカ! おとなしく捕まりなさい!」

「えーんごめんなさい! 悪いのはあたしじゃないんです、命じられてやっただけなんです!」

「嘘つけ! 誰の命令だか言ってみろ!」

「怜菜先輩ですー!」

「怜菜がそんな命令するか!」

「本当なんですってば信じて……ぎゃんっ!」


 犬みたいな声を上げながら悠紀がすっ転んだ。彼女が天下の有名お嬢様学校・甲和女子の生徒であることなど、もはや砂浜の人々は誰も信じまい。もっともそれは巨大な水鉄砲を抱えて彼女を追いかけ回した里花子も同じかもしれない。構うもんか、どうせ私は怜菜みたいな本物の令嬢じゃないんだ──。ハンドグリップをスライドして圧搾空気を溜め、発射準備を整えた里花子は、身動きの取れなくなっている悠紀にゆっくりと近づいた。


「なにか言い残すことは?」

「先輩の水着(ビキニ)……めっちゃいいですね……あたしと違っておっぱい大きいから眼福……」

「お、おだてて命乞いしたって遅いから」


 動揺して照準がブレたが、里花子は毅然と吐き捨てた。冗談じゃない。褒められたって騙されない。ほら、向こうから近づいてくる怜菜の方が、私なんかより何倍も理想体型じゃないか──。心の中で叫びかけた里花子の耳に、当の怜菜自身の叫んだ言葉が殴り込んでくる。


「待って里花子! 許してあげて! 撃ってみてって言ったのは私なの!」


 動揺のあまり里花子はトリガーを引いてしまった。

 目と鼻の先から海水を撃たれた悠紀が「ギャー!」と断末魔を上げた。麻希を連れた怜菜が駆け寄ってくる。制止するつもりだったのかもしれないが、すでに里花子は最大出力の水を悠紀めがけてぶちまけたあとだ。


「ごめんなさい。悠紀ちゃんが水鉄砲で的当てゲームしたいっていうから、私が冗談で里花子を狙うように言ったら、本当に撃ちに行っちゃって……」


 上級生の怜菜がいる限りは過度な暴走をすることもない、と思い込んだ自分の判断を里花子は悔いた。


「怒るなら私に怒って? ね?」


 目の痛みを訴えながら転げ回る悠紀の様子を気にかけつつ、怜菜がすまなさそうに眉を押し下げる。もはや怒る気にもなれず、「いや……」と里花子は視線をそらした。

 怒れるはずがないと思った。どんなときにも文武両道な努力家で、低俗な遊びとは徹底して距離を置かされ続けてきた怜菜が、せっかくこんなにも楽しそうにはしゃいでいるのに、水を差すことなんてできやしない。

 怒りたいことは他に山ほどある。

 もっと休め、仕事の手を抜け、頑張りすぎるな。

 けれどもそれは、少なくとも今、ここで口にするべきことではなかった。


「怒らないよ」


 肩の力を抜いて里花子は笑った。それから水鉄砲を脇に置いて、麻希に寄り添われている悠紀を覗き込んだ。麻希は悠紀の背中に砂をかけて遊んでいる。瑛子が転んだ時といい今度といい、哀れな同級生を真面目に介抱する気はないらしい。


「二度とやらないって約束するなら許す」


 おもむろに告げると、涙目をこすりながら悠紀は里花子を見上げた。


「無実の罪で撃たれたあたしへのソフトクリームという名の償いはないんですか……?」


 次は絶対に許してやらない。満身の決意を込めて里花子は悠紀を睨みつけた。「うひゃ」と悠紀が縮こまった。







「もうだいぶ待たせてるし、この暑さで参ってるかも」

「可哀想なことしたわね。あとでソフトクリームでもおごってあげようかな」

「またそうやってお金を使おうとする……」


 ⊿次回「pier5 ビーチナンパパニック」




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