pier2 海に着いたらお昼どき!
二十三区の一角を占める人口七十万人の江戸川区は、東西に長い姿をしている東京都の最東端に位置する自治体だ。名前の由来にもなっている一級河川の江戸川は、眺めのいい広大な河川敷を形成しながら、隣接する千葉県との境目を流れ下って東京湾に注いでいる。里花子たちの通う高校──甲和女子高等学校は、その江戸川からわずか七〇〇メートルほどの位置に建つ、都内最東の私立高校として知られる学校だった。
もっとも、最東端であることばかりが甲和女子のアイデンティティではない。甲和女子の最大の特色は、城東地区有数のお嬢様学校であることだ。中庭を見下ろすようにしてそびえる地上七階建ての校舎は、落ち着いた色彩の三角屋根におおわれ、まるで中世西欧の城郭を思わせる建築様式。創立からの歴史は九十年にも及び、学費も相応に高い。あいさつの際はハイタッチを交わすという、ちょっと風変わりな文化が生徒の間に浸透していたりもする。
里花子の両親は塾講師をしている。決して食には困らないが裕福とも言い難い、いまどき珍しい中流の家庭で里花子は生まれ育った。ド平民の里花子がお嬢様学校なんかに入ってしまって、果たして富裕層の子と馴染めるのか。文化の違いとかで弾かれたりしないだろうか──。そんな不安をかき消してくれたのが、ともに入学した幼馴染の怜菜だった。柔和で、おおらかで、そのくせスポーツ万能で成績も学年上位という完璧少女の怜菜は、どんなときも誇り高い笑顔と優しいハイタッチで里花子を友達扱いしてくれた。学内選挙で圧勝を飾った怜菜が生徒会長の座に就いたとき、彼女は副会長に里花子を指名した。誰よりも真面目で信頼がおけるから、という選定理由を聞かされたときの喜びは今も忘れない。完璧超人な彼女の役に少しでも立ちたくて、いまも言うことを聞かない後輩たちの手綱を懸命に引こうと励んでいる……つもりだ。
麗しい手つきや身のこなし、細部にまで行き渡った礼儀作法。黄金比を立体化したかのようなプロポーション。ちょっとばかり人が良くて騙されやすい点さえ除けば、まさに非の打ちどころが見当たらない。それが、里花子の目から見た平井怜菜という少女の実像だった。──もっとも、彼女がちょっとした訳ありの存在であることを知っているのは、全校生徒五〇〇人のなかでも里花子を含めた数人くらいかもしれない。
「ひゃは──! 海だぁ!」
真っ先に橋を渡り終えた悠紀が、行く手に広がる蒼一色の世界を見つめながら叫んだ。
さすがは夏休み。どこを向いても無数の親子連れやカップルが氾濫している。制服姿の女子高生グループは──さすがに見当たらないか。悠紀に続いて橋を渡り終えた里花子も、潮の匂いの入り混じった陽気を胸いっぱいに吸い込んだ。日差しを照り返した水面がキラキラ萌えている。はしゃぎ声のあふれる砂浜の彼方には、東京都心の超高層ビル群が直線的な山脈を描いている。
葛西臨海公園。
江戸川区の南端、東京湾に面した地区に造成された、都内でも最大級の面積を誇る都市公園のひとつだ。
厳密には陸側が葛西臨海公園、海側が葛西海浜公園というらしい。都内最大の大型観覧車だとか、これまた都内有数の規模として知られる臨海水族園だとか、野鳥の営巣地として知られる天然干潟の三枚洲だとか、園内の見どころを探せばキリがない。砂浜自体も湾岸開発の進んだ東京都内では珍しいもので、潮干狩りや海水浴を目当てにして多くの客が詰めかける。
「こんなところがあったのね。東京じゃないみたい」
感心げに砂浜を見渡す怜菜の手を、ぐいと悠紀が引っ張った。
「海! 海入りましょうよ海! 暑くてたまんないですよっ」
「向こうの東なぎさまで遠泳しましょう」
「麻希ちゃん、向こう行くの禁止だってよ」
「遠泳なんてしたことないわ。私でもできるのかな」
「ちょっとちょっと! あんたたち水着持って来てないの忘れてないでしょうね?」
泡を食って制止したら、後輩たちは一瞬ばかり目をぱちくりさせて、それからたちどころに青ざめた。まさか本気で忘れていたのか。せっかく窮屈な生徒会室を飛び出したのに、里花子の周りは相変わらず頭痛の種だらけだ。
「どうしよう」
「水着なしで泳ぐのはさすがにヤバい?」
「ヤバいヤバくないの問題じゃないし……。着替えもないのにどうやってバスに乗って帰るつもりよ」
「こんだけ暑かったら勝手に乾いたりしないかな」
「後生だからやめて。甲和女子の看板を背負ってることを忘れないで」
甲和女子の夏服は白のブラウスにグレーのベスト。透けただけでも大惨事である。天下のお嬢様学校の生徒会が下着スケスケで水遊び──なんてインターネットへ書き立てられた日には、もう死ぬしかない。伝統を穢した不甲斐なさと羞恥心で。
人の話を聞いているのかいないのか、後輩たちは怜菜の手を引いたまま波打ち際に向かってゆく。
そうして靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、そっと波に足先を入れた。
「冷たい!」
瑛子が水際から飛びのいた。続けて水に飛び込んだ悠紀が「ひゃ!」と両手を跳ねさせた。
「ほんとだ、めっちゃ冷たい! 気持ちいい!」
「やっぱり遠泳したくないですか、生徒会長」
「興味はあるけどやめておこうかしら。さっきから里花子の顔が怖いから」
私のせいにしないでほしい。いちおう四人にならって靴を脱ぎつつ、里花子は怜菜をしっかり目線で牽制した。水遊びレベルならともかく遠泳は完全にアウトだ。誰がどう考えても、アウトである。
ばしゃあ、と音が弾けた。
何の音かを理解する間もなく、顔に水しぶきが降り注いだ。
「やばっ!」
悠紀が楽しげに叫んだ。波打ち際でジャンプした悠紀の水しぶきが、靴下を脱ごうとしている里花子の顔面を直撃したのだった。
「…………」
里花子は制服を見下ろした。校章の刺繍された胸から腹にかけて、派手に水をかぶった部分がぐっしょり濡れている。たちまち、事態を把握した悠紀が「あはは……」と笑いながら後退した。
「……船堀」
「ハイ」
「制服を濡らすなって何分前に言ったっけ」
脱兎のごとく悠紀は逃げ出した。
逃がしてなるものか、是が非でも同じ目に遭わせてやる──。おさげの揺れる彼女の影を踏んで、里花子も猛然と砂浜を追いかけた。怜菜たちの姿はあっという間に遠くなった。波打ち際で遊んでいた子連れの親子が、日光浴をしていた老夫婦が、寄り添って話していたカップルが、全力疾走する悠紀と里花子に驚いて道を開く。気分はモーセの海割りだ。
「待ちなさいこのバカ!」
「ぜったい嫌です! 水かけられるし!」
「どうせそのうち乾くから心配しないで大人しく水をかけられろ!」
「さっきと言ってること逆なんですけどーっ!」
すばしっこい悠紀を捕まえるのは一苦労だった。金色の砂浜をしばらく駆け回った末、いくつも貝殻を踏んづけて二人とも足を痛め、ふらふらになって怜菜たちのもとへ戻った。しまいには水をかけることなんてどうでもよくなっていた。暑いし、痛いし、それどころじゃなかった。なるほど確かに悠紀の言うとおり、ぐしょ濡れだった里花子の制服はわずか十分足らずですっかり乾ききった。
「楽しそうだったね、二人とも」
額の汗を拭った怜菜が微笑した。認めてはならない問いを突き付けられた気がして、「一緒にしないで」と里花子はふくれっ面をした。里花子の制裁をうまく逃れた悠紀は、さっそく瑛子と麻希の輪に混じって、きゃいきゃい言いながら砂の山を築いている。
「もうクタクタなんだよ、こっちは……。砂浜は走りづらいし、人も多いから避けるのに苦労するし」
「でも確かに、水着がないと過ごしにくいのね。言ってくれたら途中で調達したのに」
「まさか後輩が本気で海に入ろうとするなんて思わなかったから……。てか、海に入って遊ぶなら水着が必須なんて常識でしょうが」
「そうなの?」
「そうなのって……。海で遊んだことないの、怜菜は」
「実は、初めてなの。海は遠くから眺めるばかりだったわ。はしたない遊び方をすると両親に怒られたから。それに夏休みは勉強漬けだったし」
聞くまでもなかったかもしれない。里花子はちょっぴり小さくなった。お嬢様学校である甲和女子は受験人気も高く、入学に当たって要求される成績も相応に高い。いきおい、在校生の学力もハイレベルだ。そんな環境に悠々と合格を決め、成績学年上位を毎年のように取り続けている怜菜が、尋常ならざる時間を勉学に捧げているのは無理もないことだった。
「……やっぱ大変だね、理事長の娘ってのは」
そっと苦笑したら、「そうね」と怜菜も苦笑した。
その水鳥みたいにしなやかな足で一歩、一歩と砂浜を踏みしめ、彼女は慎重に波打ち際へ入ってゆく。たちまち、押し寄せた波が怜菜の足首を飲み込んで砕ける。「ひゃっ」と肩を跳ね上げた怜菜の瞳が、陽の光を浴びた白波のようにキラキラと輝く。まるで往年の名作映画の一シーンみたいで、思わず里花子は彼女の一挙一動に見とれてしまった。
出だしはともかく、初めての海を怜菜は怜菜なりに楽しんでいる。
ここへ来てよかったのかもしれない。
そのとき、初めてそう思えた気がした。
「でもやっぱり水着は欲しいかしらね──」
里花子を振り向いた怜菜の言葉は、独特な重低音にかき消されて途中で止まった。
今の音は多分、怜菜の腹から聴こえた。
真っ赤になった怜菜がうつむいた。たちまち事態を把握し、目のやり場に困って悠紀たちを振り返ったら、悠紀たちも怜菜と同じ表情で目をそらしていた。蚊の鳴くような声で「あの」と瑛子が申し出た。
「……お腹、空きませんか」
「簒奪はよくないよ。きちんと買収交渉をしないと。そうね、五十万円も出せば機材も食材もまとめて買い取れるかしら」
「その発想も大概なんだよ、怜菜……」
⊿次回「pier3 BBQ何キロ食べる?」




