プロローグ
———雨宮まい視点———
やべえ奴がきた。
八月上旬いっそ清々しいほどの青空が広がるある日、季節外れにもやってきた転入生に対する感想は私を含めおそらくクラス全員一致した。
「初めましてだ、同胞たちよ。苅野雄介、この世界の悪を統べるものの名だ」
先生に自己紹介を促され、開口一番そうぶっ放つ。
転校生ということで少々興奮気味だったクラスの空気が一気に氷点下になる。
本人はといえば、クラスの雰囲気とかどうでもいいのだろう。ドン引きして黙り込むクラスメイト達を見渡して満足げに頷いていた。
「しかし、これは世を忍ぶための仮の名前に過ぎない。真の名はグレッ……いや、やめておこう。さしあたっては、マスターとでも呼んでくれ。陰に潜む者として、本名を公の場で呼ばれるのはあまり好かないのでな。
ちなみに我がこの学校に来た理由は秘匿情報だ。それを知ったが最後君たちまで悪の組織ダークブラッドリユニオンに目を付けられてしまうだろう。
しかし、それでも知りたいなら手を上げるのだ。死ぬ覚悟ができた者にだけ特別に教えてやる。死ぬ覚悟ができたものはいるか?」
「……」
確かに気になりはする。
でも死ぬ覚悟ができたものは流石にいなかったようで、私を含め手を挙げる生徒はいなかった。
「いないか。……だったら、教えないだけだけどな」
みんなが黙ってしまった後、心なしか転校生が寂しそうにしていたのは多分気のせいだろう。
苅野雄介とか言ったか。
前髪を目にかかるほど長く伸ばし、鋭い目を不敵に笑う口元は、みようによってはイケメンと言えなくもない。
しかし、彼はいろいろと怪我していた。黒い眼帯を右目につけているし、左腕は包帯でぐるぐる巻きにしている。
でもおそらく、一番怪我しているのは頭だと思う。
包帯巻いてないけど。
「まあいい、どちらにせよ、諸君らと今日から共に過ごすことになった。悪の組織とかその他もろもろと戦わなければならないので我は忙しい。学校に来る日はまばらになるかもしれないが、とりあえずよろしく頼む」
そう言って転校生は前髪をファサッとした。
「じっ、自己紹介ありがとう、苅野くん——」
「マスターだ」
「……マ、マスターは、何か趣味とかあるの?」
「趣味?」
こんな奴にも気を揉まなくてはいけないのだから、教師という職業は大変だ。先生の表情からは、転校生がなんとかクラスに溶け込めるようにと気を使っているのが窺われた。
「カラオケとか、サッカーとか、苅っ……マスターが普段していて楽しいと思うことだよ。ほら、おんなじ趣味の人がいたら、それがきっかけで仲良くなれるかもしれないし」
「ふむ……」
転校生は腕を組み少しの間考えると、口を開いた。
「ないな」
「そ、そっか……」
明らかに落ち込んだ声で、先生は肩を落とす。
しかし転校生もそれを見て流石に悪いと思ったのか、渋い顔ながらも口を開いた。
「ただ、楽しいかどうかと問われれば首を傾げるが、普段やっていることはある」
「ほんとにっ?」
先生の表情が、ぱあっと明るいものになる。
しかし、転校生の次の言葉は、ある意味期待を裏切らないものだった。
「我を殺しにきた暗殺者を、返り討ちにしている」
「へ、へえ……」
「なに殺しはしない。ただ、その者が泣け叫んで許しを乞い地べたに這いつくばって我の靴を舐めるまでは拷問を続けることにしている。そのままなにもせず帰してしまってはまた襲ってくるかもわからんのでな」
なに言ってんだこいつ、という顔で先生が固まる。
もとい、苅野くん以外の全員がなに言ってんだこいつってなっていた。
「……あははは、面白いんだね苅っ……マスターって」
「そうか? 別に、冗談を言ったつもりではないのだがな」
先生は、突然何かを閃いたような顔になった。
「あっ、分かった、ゲームの話でしょ!」
「ふむ?」
「ダメなんだぞーっ、現実とゲームの世界を混同したら」
「なにを言っているのだ。ゲームではないぞ」
「へっ? じゃあ、アニメとか?」
そう切り返したところで、転校生の目が急に険しいものになる。
「……我が教師たる者は、我を馬鹿にしているのか?」
「ひぇ、いや、そんなことは……」
転校生の声は低く鋭かった。
鋭い目で睨まれて、先生はうろたえて言葉を濁す。
先生の威厳もなにもあったものではない。目が明らかに混乱しているのがわかる。
転校生は、先生を置いてぽかんと見ているクラスメイト達に向き直った。
「諸君らの中に、我に聞きたいことがある者はいるか?」
もちろんいない。
転校生は黙って唖然と自体を見つめるクラス全体を見渡し、言葉を続ける。
「いないのならば、我はそろそろ席につきたいのだが」
いいからさっさと席着けや。
そう誰もが思ったに違いない。
無論、聞きたいことがないわけでは無いが、というか聞きたいことだらけだが、この空気の中率先して手を上げるお調子者はまさかいまい。そう思っていた。
「特技」
その声は、私の二つ後ろの席から響いた。
クラス全員が一斉に後ろを振り返る。
そして
——どよめきが広がる。
その声の主の名前は矢橋桃。
普段あまり人と喋ることなく、昼休み中はずっと教室の隅で本を読んでいるような女の子だ。
喋らないとは言っても、彼女がクラスの中でいじめられているとか完全に忘れ去られているとか、そういうことでは無い。
むしろその逆。
超絶美人。
顔だけで芸能界にスカウトされてもおかしくないほど、女目に見ても彼女は美しい。肩にかかるほどの黒髪がチョコフォンデュのチョコならば、うるうると色っぽい唇は銀座のプリンだ。しかしプリンはそれだけではない。お胸にもさらに立派なプリンを二つつけていらっしゃる。
しかも運動神経抜群、成績優秀。定期試験では常に一位を不動のものとしている。
だから、彼女がハブられているのではなく、むしろ私たちが話しかけるのがおこがましい存在なのである。
そんな矢橋さんが普段決して開かない口を開いたのだから、クラスのどよめきは当然のものと言えた。
「なんだ、矢橋か」
転校生は、矢橋さんのことを前から知っていたような口ぶりで言った。
「特技はないの、マスター?」
矢橋さんはもう一度質問を繰り返した。
その声に聞き入ってしまったのは私だけではないはずだ。
はるか遠くから聞こえてくる音楽のような、周囲を黙らせる不思議な響きが、その声にはあった。
転校生は腕を組み、目を閉じる。
「……魔法が使える」
長い思慮の後、目を開いたかと思うと転校生は無表情でそれだけ答えた。
「そう」
ふふ、っと注意していなければ見逃してしまうほど小さく矢橋さんは微笑を浮かべ、それから何事もなかったかのように、さっきまで読んでいた本に目を落としてしまった。
教室にいる全員が、その成り行きを一言も喋ることなく見守っていた。いや、喋ることを忘れるほど二人の会話に聞き入っていた、と言った方が正確だろう。どちらにせよ、二人の会話になぜか深淵を感じていた。
「……えっと、は、はいっ。じゃあ、時間も迫っているので、自己紹介はここまでにしましょう」
それから少し時間が流れ、やがて先生が気がついたように息を吹き返す。隅で黙って虚な目をしていたから存在を忘れていた。
「苅っ……マスターは、そこの窓側の席に座ってもらえるかな?」
先生は転校生に一つの机を指差し示した。
「ふむ」
マジか。
まあそうだろうけども。
クラスメイト達の視線をかき分け歩いてきて、苅野くんは私の隣の席に腰を下ろした。
「隣の席だ。これからよろしく頼む」
「あ、ども」
とりあえず話しかけられた時だけ最低限の返事をしよう。
それ以外は全部無視。
私はそう決意するのだった。