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私が八歳の時、王太子様の婚約者が決定した。うちではない公爵家の令嬢に決まった。可愛らしく上品な少女だった。
こちらの世界には、五つの公爵家があって、それに加え侯爵家や伯爵家も入れると、適齢の令嬢がかなりいたことがお茶会で判明した。
ゲームで私が選ばれたことの方が奇跡。初対面で王太子様に恋をしたのか、王妃になりたかったのかわからないけど、頑張ったんだな、ゲームの私。
悪役令嬢の役割が、婚約者の令嬢に移ったとのかと一瞬気になったが、顔つきが違ったので、大丈夫だろうと一人納得していた。
私は鏡を見る。そこにはストレートな黒髪にサファイアの瞳を持つ、ややきつめな印象の顔立ちの少女が映っている。口元にホクロがあって年齢の割に色っぽい。今は地味な髪型にオリーブ色のワンピースを着ている。微妙の一言だ。
私の世間の評価は、大人しくて控えめで、落ち着いた風貌の令嬢だ。要は、やや暗めで服のセンスもイマイチな少女ということだ。
私は鏡に映る自分に笑いがこみ上げた。
「何がおかしいの? アイリス」
ジェレミーが私の部屋の扉を開けて入ってきた。
「なんでもないわ」
愉快そうに私は微笑んだ。
「ふぅん? お茶の時間だから、迎えに来たよ」
「すぐ行くわ」
私は鏡台から離れて、ジェレミーの元に向かった。
ジェレミーとは当初の予定通り仲良くしている。我ながら頑張っていると思う。こうしてほぼ毎日お茶をし、家庭教師にも一緒に教わっている。離れている時間は、ジェレミーが剣の稽古をする時くらいじゃないだろうか。最近は減ってきたけど、少し前まで、週に何度か一緒に本を読みながらそのまま寝ていた。手繋ぎリクエストにもお応えして。
それに両親といる時も、私は甘えたりせず、ジェレミーが寂しくないよう気を遣っていた。あまり気が休まらないけど、これも将来のためだ。ジェレミーにトラウマを植え付けてはならない。
ジェレミーは今のところ、私に嫉妬心や嫌悪な目を向けたりはしていないように見える。どちらかというと好意的だと思う。
そう言えば、いつだったか、ここへきてすぐの時に抱きつかれたのには驚いた。たまたま庭を散歩をしていた私は、ジェレミーが一人で花壇の側で泣いていたので、慰めたのだ。しばらく慰めていると、ジェレミーは突然顔をクシャリと歪めて、力一杯抱きしめてきたことがあった。
今のところ私とジェレミーの関係は良好だわ。今の関係が続けば、ヒロインとジェレミーがくっついても、私の修道院行きはないはず。
今日は天気がいいので、庭の東屋でお茶をしている。
公爵邸の庭は広大で、様々な植物が植えられていて、木々は青々と生い茂り、花は綺麗に咲き誇り、蝶や小鳥もいるので、いつ来ても飽きない。
「アイリスは王太子様の婚約者になりたかった?」
唐突な質問に内心驚いて、ジェレミーを見る。優雅にカップを持つジェレミーは、真剣な眼差しでこちらを見ていた。
私は平静を装って答える。
「いいえ。どうして?」
「ううん。なんとなく」
「私に王妃様のような大役は務まらないわ。地味で人見知りでは無理でしょう?」
「服は他の子たちに比べて大人しいと思うけど……アイリスは地味ではないよ。すごく可愛い。それに人見知りなおかげで、虫……じゃなかった、僕はたくさん一緒に居られるからいいけどね」
よくわからない返しに、どう返していいかわからず、一応お礼を言っておいた。
*
既定路線に従って、学園に入学した私はもうすぐ三年生になろうとしていた。いよいよヒロインの登場だ。ここからが正念場だ。
卒業試験の受験資格は成績優秀者だ。この日のために、私は血の滲むような努力を重ねていた。本を貪るように読み、家庭教師に教えを請うた。特に魔法については猛勉強した。
私は卒業試験を受け、見事合格した。
三年生から念願の、自宅で残りの学園生活を送ることになった。
「アイリス、おかえり!」
公爵邸に帰るなり、エントランスでジェレミーにぎゅっと抱きしめられ、額に唇を押し当てられた。
二年の寮生活であまり会わなかった間に、ジェレミーは随分と背が高くなって、顔から幼さが消え、男性の色気が漂っていた。
ジェレミーは貴族ではないが、公爵家と血縁関係だ。今では王太子様の側近候補となって、王宮と学園を行き来している。
学園では、文武両道で魔力も強く、首席で卒業していた。将来の妹としては鼻が高い。ご令嬢にもすこぶる人気があったようで、学園でご令嬢に囲まれているのをたびたび見かけた。トラウマになるようなことが起こらないかと、内心ひやひやしたものだ。
「ただいま、ジェレミー。大げさね。でも私も久しぶりに会えて嬉しいわ」
「可愛い僕のアイリスが帰ってきたんだ。嬉しいに決まってる」
もう一度抱きしめられる。
大袈裟なセリフとスキンシップは、久しぶりに会うのだから仕方ない。それにしても執事や侍女たちの視線が生温かいのはなぜか。
私たちは居間に移動して、久しぶりに一緒にお茶をいただく。
「学園生活はどうだった? アイリスのお眼鏡に叶う人はいた?」
「いいえ、特にいなかったわ。勉強でそれどころではなかったし」
私は、慎重に答える。
いたずらっぽく聞かれているはずなのに、ジェレミーの目が笑っていない気がするんですけど。
「そういえば、殿下とエミリア様は、仲睦まじくされていたわよ」
なんとなく王太子様と婚約者のエミリア様を思い出していた。仲睦じいは言い過ぎかもしれないが、二人の婚約は何事もなく続いていた。
「殿下とエミリア嬢? まあ、あの二人は婚約しているからね…………なぜいきなり殿下が出てくるの……? もしかして、やっぱり殿下がいいの?」
ジェレミーが目を細める。私は想定外の返事に焦った。気にはなるが、意味が違う。
「いいえ。全然!」
不自然に声が大きくなってしまった。
ジェレミーは、疑わしげな目をこちらに向けたが、やがて逸らしてそのまま黙ってしまった。
誤解されたかも。
私は小さなため息をついた。
*
「アイリス、紫苑祭には誰と行くの?」
今日は久しぶりに休みが取れたジェレミーと庭を散歩していた。ジェレミーは最近忙しいようで、晩餐も一緒になることは稀だった。
学園生活も残り半年になり、この時期になると学園では「紫苑祭」という夜会が開かれ、三年生は全員参加することになっている。卒業パーティーのプレ版と言ったところか。
この頃になると、貴族のご令嬢・ご子息は、婚約者が決まってきているため、婚約者と参加するのが普通だ。
私は公爵家の令嬢にも関わらず、まだ婚約者が決まっていなかった。お父様とお母様が恋愛結婚だからなのか、私を溺愛しているからなのか、はたまた何か別の理由があるのか知らないが、両親から婚約を勧められなかった。私も興味がないので、特に聞いてもいなかった。
「まだ決まっていなくて。婚約者の決まっていないクラスメイトにお願いしようかと考えているけど……」
正直、私は行きたくなかった。学園にヒロインが入学したことは知っていたけど、特に王太子様と仲良くしている噂は聞かないし、何も起こらないので、どうなっているんだと、疑心暗鬼になっていた。
結局イベントフラグは大して思い出せなかったし。でも、乙女ゲームだもの、紫苑祭で何も起こらないはずがない。あぁ、当日腹痛になりたい。
私は鬱々とした気分で、綺麗に咲き誇る花たちを見ながら対策を考えていた。
「じゃあ僕がエスコートするよ」
ジェレミーは薄ピンクのバラを一輪手折り、棘を丁寧に抜いて私の髪にさした。私はびっくりして、目を瞠った。
大人になったジェレミーは、以前の子供っぽいスキンシップではなく、恋人にするような振る舞いをすることがあって、私は狼狽えることがあった。私が口ごもっていると、さらに言い募ってくる。
「僕じゃ不満なの?」
そんな近くで覗き込まないで。色気がダダ漏れです!
私は思わず顔を薔薇の方に向ける。
「お兄さ、じゃなかった。ジェレミー、お仕事は?」
うっかり、兄と言ってしまった。ジェレミーは追々兄になると常々思っていたので、つい口から出てしまった。
「アイリス」
ジェレミーはゆっくり私の肩を掴んで自分の方へ向ける。
「子供の頃からいつも一緒にいたけど、僕は君の兄じゃない……でも僕は、何があっても君を守るし、そばを離れないけどね」
有無を言わせぬ圧力いっぱいの笑顔って。
私は思わず身をよじった。ジェレミーは肩から手を離し、そのまま私の腰を引いて抱きしめた。
「僕と一緒に行くんだ。いいね?」
ジェレミーの甘い声が耳元をかすめる。私は黙って頷いた。
ジェレミーはそっと腰に回していた腕を離して、私の手と自分の手を絡めた。なんとなく顔に熱を感じながら、私はジェレミーに手を繋がれて、庭を歩いた。
2018/11/28 誤用修正