日和村事件 研究壕② 衝突
物語はクライマックスに差し掛かってきました。佐伯雅孝は昭和のスプラッタの殺人犯をイメージしましたが、彼はキーパーソンです。
突如背後から下その声と並々ならぬその気配に雅は身体が竦んで、動けなくなった。先程の男の声で間違いない。雅は振り返るのが怖かった。自分があの拷問部屋に連れて行かれるのではないか。もしくはこの場で殺されてバラバラに解体されてしまうのではないか。そう考えると四肢が痙攣しそうになった。
「こっちを向け。」
「貴方、誰なの?」
「こっちを見れば解る筈だ。」
「私の事は解っているの?」
「本当は知らん、だが、今良く見覚えがあると気付いたものでな。」
「この実験をして何に成るというの?」
雅は勢いに任せて振り返り、咄嗟に距離を取って鋏を構えた。相手の男の顔面をしっかりと見つめる。傷だらけのその皮膚からもう見分けがつかなくなりかけているが、ニヤリと笑う口元とギョロリとした双眸、痩身痩躯で褐色の肌色、見覚えが無い訳が無かった。全身に赤い斑点が出ているのが感染している事を物語っている。震える声帯が声を絞り出す。
「何で、どうしてこんなことを。」
「どうしてだろうな。お前には解るまい。」
「解る訳ないじゃない。貴方が何をしたいかなんて、姪や父を殺してまで何を得たいって言うの。」
必死で叫んだ。目の前の男...これほど醜悪に変貌してもなお、識別可能な程近かった兄に。
「さぁ、此奴の名前っていうのは無くてな。支配力、生命力、破壊力、権力なんて在り来たりな名前は好きじゃないから、丁度、お前が名づけると良い。なぁ...お前、雅なんだろう。」
相手の不気味な眼光が此方を向く。其処から滲み出る狂気を含んだ光にかつての彼の姿は無かった。
「そんな、こんなの狂っている!」
雅は渾身の力を込めて凶行に走って身を焦がした実の兄の胸を目掛けて、鋭利な鋏の刃で突いた。その腕を彼は容易く掴み、捻って回転させると、雅の腹を思い切り蹴飛ばした。雅も怯まずに鋏を続けて振り下ろす。彼はその一撃を右手で受け止めた突き刺さった鋏の刃が貫通したにも関わらずニヤリと口角を上げて笑った。
「やってくれるじゃないか。雅。お前にこんな度胸があるとはな。」
「・・・・」
雅は大型の刃物を握りしめ、彼が振り下ろした鋏の一撃と、蹴りを素早く躱した。鋏を奪われ、完全に不利な状況だが、此処で相手に屈服しても、殺されるだけだと解っていた。もう覚悟は決まっているのだ、この状況に陥った時点で、この研究所の様な洞穴に足を踏み入れた時点で決まっていたのだ。何度も自分に言い聞かせた言葉を反芻し、竹島が予測した通りの残酷な真実を全て受け止めた。彼の腹を目掛けて素早く蹴りつけると、刃物ですかさず追い打ちを掛け、更に相手の首を掴み、壁の方へと追いやった。兄とこれ程の激戦を交える事になろうとは、何時以来だろうか。くだらない事で兄に殴られたことを思い出す。あの時は確か辺りで出た自分のアイスの棒を懸けた。それが今日この瞬間は命を懸けている。こうなるのであれば、自分で手を下さなければならない時が来るなら、あの時アイスの賭けで勝った後に兄が自殺してくれた方が良かった。今頃になって葉山の心を知ったかもしれない。愛を壊して、人を殺して、それでも生きようとする自分の有り方が記録の中の葉山に深く共鳴した気がした。もう躊躇は無かった。
兄が怯むのを見て、雅は腹の痛みを必死で堪えながらも、刃の一撃を振り下ろした。此処で全てが決まると思った。しかし、彼もまたここで諦めるほど弱くなかった。素早く刃を避けると雅の前のめりになった腹と胸を強く蹴った。大きく後方に蹴り飛ばされて、疼く彼女の傷にさらに追い打ちを加え、顔を踏み付けた。雅は動きが取れず、呼吸も止まりそうなほどだった。実際強い打撃の所為で上手く息を吸えない。尚も加わる強い痛みに抵抗力が弱まる自分。一気に逆転されてしまった。もう反撃の余裕は無かった。苦しみの中で自分の首に向かって振り下ろされる奪われた刃の一撃が光ったのが見えた。
その刹那、激しい呻きが聞こえた。兄、佐伯雅孝は激しく悶えている。彼の口から血が零れ落ちている。
「良かった、間に合ったか。」
「誰だ...誰だ、お前は」
そこに居たのは竹島だった。
「君を止めることが出来れば此処に来るのは誰でも良いよ。全く、結構な事だね。こんな施設まで作って。」
相変わらずの独特の喋り口調で彼はゆっくりと佐伯に近寄る。手に握る斧はやはり先程の拷問室にあった物だろうか。
「此処は武器が豊富で助かるよ・・・今のうちに逃げてください。波多野さん、」
雅は這うように逃げ出した。その背中に佐伯は踏み付けを食らわせようとした。竹島はすかさず佐伯の胸に斧の斬撃を食らわせた。佐伯の呻きを聞くと竹島は雅を引き摺るように外へ連れ出した。
「急いでください。貴方の兄はは貴方を殺すことを躊躇わない。」
「・・・」
竹島は雅を薬品庫の奥に待たせ、一つのビーカーを握った。
「待っていて下さい。ただ、ここまでよくやってくれました。」
竹島は笑顔を見せた。薄暗い室内で笑うその顔に陰影が浮かんでいる。
「兄を殺すんですか。」
「貴方もその積りで此処まで来たんですよね。」
笑顔にはもう迷いが無かった。彼もまた人を殺したことは無いだろう。だが、雅よりも意識ははっきりしていて、殺人という行為に何の抵抗も感じていないようだった。
御付き合い頂き有難う御座いました。