日和村事件 培養室 対峙
ホラーマニアなら暗闇の中で敵を便の音で引き付けるというのは常套手段ではないでしょうか。
雅は部屋にある資料を置いてあった空のバッグに出来るだけ詰め込んで、意味ありげな書物を本棚から引っ張り出した。他にもバッグは無いかと探したが、辺りにないようなので、一先ず、廊下の陰に重ねておいた。これは竹島に見せ、解読して貰うためだ。竹島もドイツ語が読めないが、彼はきっと伝手が広いだろう。他の人に頼むという事くらい容易い筈だ。
先程までの薬品庫、資料室、拷問室に加え、丁寧に設置されているトイレを見た。水洗式ではないのか、凄まじい悪臭が立ち込めているが、トイレットペーパーが丁寧に保管されている所を見ると、最近まで使われていたのだろう。
他にも用具室という部屋を見つけた。散乱している有象無象に触れて音を立てないよう、慎重に歩いた。奥の方に行くと実験道具や気持ちの悪いホルマリン漬けの植物が大量にあった。見るだけで吐き気がするが、それを必死で堪え、此処で行われていた、いや、行われている実験の数々を想像した。一体何をしているのだろう。彼等は。
用具室の近くにある監獄の様な檻付の部屋では中で腐敗した死体を二体見つけた。頑丈な錠前が施されている上に、奥の死体は死んでから随分経過しているのか蛆が湧いている。薄暗い視界の中でゴキブリやネズミが動く音が時々聞こえる。普段の雅であれば、卒倒している事だろう。今でさえ呼吸が荒く、少し心を取り乱せば、一瞬で正気を失いそうである。
「誰だ!」
心臓が停止しそうになった。息は脈は完全に正常の域を逸脱している。雅は誰かに見つかった。恐怖で喉がつっかえた。直ぐに先程の薬品庫の奥のロッカーに隠れた。人影がゆっくり近づいてくるのが通気用の穴から見えた。
終わった・・・
雅は観念した。もう対峙は避けられないだろう。しかし、最後まで望みは捨てなかった。拷問用の鋭い鋏の刃を外側に向け、ロッカーの扉が開いた時に直ぐに出られるようにした。せめて自分を殺す犯人、もっと言えば、自分の故郷の人間を虐殺した悪魔の形相だけでも確かめたかった。その顔が既知の者であっても、もう驚くことは無い。これまでもう沢山驚かされてきたからと言っては変だが、大体事件の全貌に近付いてきた。情けない絶望的状況を前にしながら...
「誰だ其処に居るのは。」
息を押し殺した。その静寂の中であまりにもうるさい自分がばれない筈がない。見つからない筈がない。思わず目をつむった。近付く苛立ちを含んだ男の声とその主。恐怖に竦んだ自分の手足を見て雅は後悔と自責に駆られた。自分はあの葉山氏と違い自分さえも守れないのか。
パリン
遠くの方で奇妙な音が聞こえた。恐らく薬品庫の薬品の一つが落ちたのだろう。その音を聞いて男はロッカーから急いで立ち去った。そちらに雅が逃げたと思ったのだろう。走る音が廊下に響いている。穴越しに見た姿であったが、男は身長170cmほどで、痩せ形。手には大型の斧の様な武器を持っている。明らかな殺意を持って此方に近付いてきたその相手の顔を暗闇の中で識別することは出来なかった。
雅は此処から逃げるか、それとも奥へ踏み込むかを迷った。しかし、殺人的な好奇心と意欲が恐怖に勝利した。自分の内側に潜在する勇気と恐怖を乾いた唇の奥で噛み締めた。どちらが勝つにしろ此処へ来たからには確かめなければと思った。例えあの狂人に見つかろうとも、自分は此処で役目を全うせねばと肉体を精神が鼓舞していた。身体の内側から緊張と警戒を伴う電流が流れてくるのを感じた。足音を立てないように奥の方へ進んだ。
培養室と書かれたその部屋は怪しげな光と奇妙な植物、それが放つ奇妙な香りに満ちていた。これは何であろうか。研究資料の内容を読んでいない雅には全く解らなかった。奥の方に行くとその植物を乾燥させたものと思われる萎れた花弁が落ちていた。近くに引き出しの着いた机があり、顕微鏡やフラスコなどの研究用具が此処にも揃っていた。何の花なのか、それだけでは解らなかった。
「何これ?」
よく見るとその植物の種と思われる気持ちの悪い固形の粒が大量に落ちている。
「芥子?」
机に置かれた物もそれらから抽出したものらしい。確かにそれは芥子に見えた。嫌に赤いその花と黒くなった真ん中の部分は花の特徴と一致する。そしてこの花は他の種に比べてもサイズが大きい。実際に見たことは無いが、手のひらサイズの花弁を持つとは聞いたことが無い。
「見つけた...こっちを向け。」
今回は少し、ドキッとするかもしれません。ホラーは敵よりも暗闇のほうが怖いです。人間の感覚の大半は視覚ですから、それが塞がれる恐怖は計り知れません。