薫3
この世界には香水は無く、それに代わる“匂い袋”が主流となっている。
前世で言うならば東洋の香り文化に当たる。
これは海の向こうでも同じだと、お母様が仰っていたし、香を売りに来ていた商人も言っていたから間違いは無い。
理由は水は濡れるから。
(私が霧状だと説明しても、霧は消えるもので、またそんな状態を魔法意外では出来ない、という説明だったけれど……。霧吹きを知っている私としては、何故、人工技術で再現しようと考えないのかが不思議で仕方がないけれど……)
自然の営みの全ては天の御業と天の恩恵、冒してはならない領域とされている……。
(要するに魔法が使えない者の力で再現出来てしまえば神聖性が無くなる、という事なのよね)
けれど……この匂い袋……ドレスに合わない。お母様も見えない様に何時も苦労なされている。
そんな苦労も香水ならば解決出来る。
美しいドレスを着こなし、優雅なお母様の胸元に匂い袋……。いろいろ台無しになってしまう。
(……それでも愛しいお父様に贈られた物だと自慢出来る物なのだけれど……)
殿方の色に―― 好みの匂いに染まる。それが現物として見えるのは、あまりにも露骨過ぎてスマートでは無いのは確かだろう。
さて、『遠矢 奏那』であった頃の私が住んでいた国―― 《ニホン》の香水文化は100年程前、という歴史しか持ち合わせていなかった。割りと新しい文化だと思った。
前世の親友、日向が香水の歴史の本を読んでいて私も読ませてもらった。彼女曰く――
「現代知識と技術が転生者や転移者を助けるのよ!!」
――と力説していたのを思い出し、感傷的になってしまう。
自分が待ち合わせに遅れた所為だと思っていなければ良いのだけれど……。
(彼女からあの元気な笑顔が失われていませんように……)
現在の私には祈ることしか出来ない。
――感傷的な閑話休題。
香水文化の歴史は浅くとも、香り文化は遠い昔から開花していた。
ただ、詳しい史料は残っておらず、538年の仏教の伝来と共に香木が伝わったとされている。
史料で残っている最古の物は漂流物として、〈ニホン〉に上陸したと《ニホン書記》に記されている。
597年。現在のヒョウゴケン・アワジ島に沈香という種類の香木が漂着したことが起源とされている。
当時、島の人々はそれを香木とは知らずに、薪と一緒に火に焼べた。すると火に掛けられた流木から何とも言えない良い香りが発せられ、慌てて火の中から取り出して朝廷へ貢物として差し出したという。
そして、その流木を見たのがショウトクタイシで、博識な彼は沈香だと判断したと云われている。
(“香木”とは、その名の通りで、通常の木に比べて焚くと良い香りを発する木の事を云う。“伽羅”、“白檀”、“白梅”等が有名で、前世の世界でも当時から非常に貴重であり、それは、この世界でも同じで、香りを楽しみ出した時から高価な物だった……のよね)
現存している沈香で最古の物がナラのショウソウインに納められていた“蘭奢待”―― または“黄熱香”と云われている。
これは、1200年以上も前にラオス中部からベトナムにかけての山岳地帯の沈香が漂流した物だと云われている。
(元々は、ある程度の大きさを持っていたのだけれど、戦国時代の足利 義政や織田 信長、果ては明治天皇など多くの権力者に望まれて分け与えられた結果、かなり削り取られていたのよね……)
削り取られた跡の数は実に30箇所を超えるという。
(……お父様は勿論、両お祖父様も所持しているのよね……)
宰相に遊撃隊の総指揮官。皇帝より賜っている。
此方でも歴代の皇帝を魅了している。確か魔法杖にも使われていて、代々受け継がれた物だと云われている。
そんな贅沢品を歴代の皇帝に一本……。
(それを売れば何れ程の貧民が救われるのかしら……)
それを解っておられるから、賜った香を普段からお父様達はお使いになられない。
(……時の権力者を魅了する香り……一体どんな香りを放つのか気になるけれど……)
その香りは涼やか―― である可能性が高いとか。
(私が手に入れた瞬間にフラグが立ちそうで怖いわね)
笑えない。
(それにしても、食の次に根付いていない入浴で清潔さの大切さを伝える……)
食以上に困難になりそうだ。
それにしたって先ずはハーティリアから始めなければ、と今度は石鹸を矯めつ眇めつ考える。
(身体を洗い、浴槽に浸かる事を有意義な時間だと、何も纏わずに素面で過ごせる場所だと思って頂ける様にしないといけないわね。……香りつきの石鹸でも作ってみようかしら?)
左手に石鹸。右の掌の上で匂い袋を弄ぶ。
「んー……不衛生と、それに纏わる香と香水の歴史について説明してみようかしら……」
石鹸を置き、私はお母様に戴いた扇子を取り出す。
(……本当にこの世界の美が前世とあまり変わらなくて良かったわ……)
この扇子も命を賭した美でボロボロになった歯を隠す為に使われていていたかも知らない。そう思うとゾッとするわよね。
(異世界アンバランス……万歳!!)
お化粧に関してはまともだけれど、その反面、美容に対する意識は置き去りにされている。
何故なら魔法・魔法士は、魔力がそうさせているのか分からないけれど、左右対称の容姿を持つ美しい者が多く、しかも老けにくい。
私は机に備え付けられた本棚から一冊の本を取り出す。
(……魔力を持たない者には無い、魔力炉と云われる器官があるからかしら?)
それ故に、お化粧を必要としない。それならば納得がいく。お化粧を必要とするのは魔力を持たざる者。
魔法・魔法士の美しさに劣等感を持つ元貴族が、お化粧品を求め、身体を壊し、亡くなった者も居た。
それ以来、一般人のお化粧は見直され、異常なお化粧は禁止となり、まともなお化粧文化になる。そんな経緯から扇子はファッションアイテムとなった。
香り文化が香だからといって、流石に建物自体から香りがするといった物は無いだろう。
(貴族が飛び付きそうね……)
確か平安の末期、奥州の王者であるフジワラ氏は ヒライズミに〈伽羅御所〉という建物を造っていたはず。
文字通り、“伽羅”の香りを放っていたという。
『東方見聞録』に書かれている《黄金の国ジパング》はヒライズミだったと云われるくらい豊かだったというわけね。
何せグラム単価、銀貨4枚を下らない“伽羅”を建物全体に使うのだから……。
因みに円だとグラム単価4000円を下らない。
(この“香木”がニホンでの“お香”の起源ね。経緯は違うけれど、この国にも“香木”から初めての香り文化が広まったのよね……)
ただの木だと思っていたのが貴族に売れた。それも仕入れた時よりも高値で。
「ナラ時代の終わりから、ヘイアン時代の始めの頃には『空薫物』と言って仏教と切り離した楽しみとして広まったのよね」
アズライト教会でも“お香”が焚かれている。
(前世の様にアロマオイルで自分だけの香りを作って楽しめたなら……。香りを『かぐ』では無く、『きく』という表現をどの様に説明したものかしら……?)




