薫2
私の自室は公爵令嬢としてあるまじき様相を見せている。
華やかな物は少ない。華美な物は天蓋付きベッドくらいだろうか。
その他は書棚にホルマリン漬けの標本は無いが、前世の学校でいう処の理科準備室みたいになっている。
そんな自室で机に向かい腕を組み考える。
(この国を支え、指揮する宰相であるお父様に入浴の必要性を説くには、どうすれば良いのかしら……)
米作りの様に自領に関する事では無く、完全に国政に口を出す事になる上に、アズライト教の教えに反する考えになり、宗教にも口を出し、否定する事になる。
(絶対……敵対する事になる……わね……)
私は未来を思い、自身を抱き締める。
(私が為す事は全てを敵に回して、火刑へと繋がっているというの?)
怖い……。だけど為さなければ未来がない。何もせず、何も見ず、何も聞かず、何も言葉にしなければ私は救われるのかもしれない。しれないが、果たしてその先に私が助かるという保障は無い。
(ならば不確かな未来に自身を投じるべきかしらね)
何せ高名な魔法士、魔導師が作ったお高いお薬は貴族にしか売って貰え無いし、買えない。
貴族では無い者は気休め程度の薬草にしか縋る物が無い。
それにしても――
(退廃的……ねぇ)
入浴が退廃的と捉えられる様になったのは公共浴場が大衆化し、社交場や娯楽施設としての意味合いが強く成り、羽目を外す者が後を絶たず、浴場での性行為や売春に及ぶ等、堕落と怠惰の温床と成り果て、私生児が増え、又その子供が棄てられるといった事が社会問題となった。
(特に旅をする者でそういった事が多い……のよね)
共に旅をする中で、気の緩んだ時や旅に慣れた、又は飽き出した時に護衛の冒険者や騎士といった相手に、だ。
(その結果、浴場はコレラやペスト、そして梅毒等の伝染病が爆発的に拡がった、のよね……)
しかも梅毒の治療の為に水銀を持ち要り、病は余計に酷くなり、それが入浴のイメージを悪化させた。
そこに厳格なアズライト教皇が社交的入浴は享楽の象徴として忌み嫌い、入浴は退廃的で堕落の象徴とされ、不道徳であるとアズライト教で定められた。
(そして、自宅での個人風呂が主流になった、と……。それでも、個人でも入浴をしないっていうのは問題よね)
ハーティリアとブラッドストーン領は隣接していて互いに良い関係を築き、良い影響を与えあっているお蔭で、どちらの領も治水事業が成され、上下水道が整っている。
この上下水道が整っている領というのは他には無い。この凰都ですら不十分なのよね。
この世界はルネサンス期に近い。
トイレは陶器製の壺―― おまるだったりする。
人々は一定以上溜まると川や排泄溝に棄て、汚水や生ゴミも同じ様に棄てている。
その行き着く先は凰都に流れているリセヴィエーヌ川。
セヴィエーヌ川は汚物で溢れ、汚泥と化している。
その水で水浴びや湯浴び、飲食に用いられるとどうなるかは想像に難くない。
彼の有名な宮殿も当時は庭園や廊下は汚物でまみれて、その臭いが充満していたという。
水は専ら噴水用だったという。
そんな理由から、お風呂に浸かるという文化が無い。
(この別邸やハーティリアのブルーローズは水洗の椅子式だけれど……。これは非常に珍しい考えなのよね)
ハーティリアとブラッドストーンの歴代の領主が清潔さこそが大切だと知っていたという事だ。
「黒死病……」
お風呂だけではなく街にも伝染病の原因がある。それが旅人により拡がるのが恐いけれど――
(……私はお父様達からその様な話を聞いた事が無いわね。……それとも病名や原因が分かってないだけかしら? だとすれば死者は少なからず出ているはず。……ハーティリアやブラッドストーンが衛生管理が出来ているから感染者が少ない……のかしら?)
そうなのだとすれば下水道が整備されていない他領はどういう状況にあるのだろうか?
想像するに酷い事になっていそうで怖い。
「……公衆衛生法と機関の設立をお父様に提案してみようかしら……」
果たして6歳児の私が国政に領政に口を出す……。やはり米作りの様に許される事では無いだろう。
(何せ、米作りや野草採取は食べる物に余裕があるから許された様なもの……)
しかし、不衛生の果てに死が蔓延する事態をお父様が許す筈がない。
(それにしても、こういう面を見るとゲームで描かれていた背景の様な綺麗な世界や街並みとは違うのだと強く意識させられるわよね……)
ゲームの世界へ転生――等では無く、ゲームの基となった現実世界へ転生したのだと実感する。
(ん?)
私はそこまで考えて物凄い勘違いをしている事に気付いた。
(ちょっと待って……私は今6歳……で、『スターチスの指輪』の私は17歳目前だったわ。じゃあ、あの美しい背景イラストは衛生法が執行された後の街並み、ということ? ……何はともあれ、先ずは私が示してからよね)
次の目標を衛生法と機関の設立へと定め、私は意識を切り替える。
(時間も少ないし、さっさと始めましょうか)
私は生蜂蜜を取り出す。この蜂蜜は熱消毒されていない『生』蜂蜜というのが条件だ。
(養蜂なんてされていないから、この邸とブルーローズ、ブラッドストーンの庭師に蜜蜂の巣を探して貰い集めた貴重な生蜂蜜なのよね)
探して貰うのも申し訳ないので、庭園の一部に蜜蜂の巣箱を設置して貰っている。
次に机の上のストーブランタンに火の魔石をセットして、無属性の―― 純粋な魔力が結晶化した魔力石をセットした火の魔石に軽く打ち付け、発熱させると水を入れたビーカーを置き、50度以下のお風呂のお湯より少し熱い、と感じる程度のぬるま湯にして、生蜂蜜を混ぜて溶かす。
「ガラス製のボトルに入れて完成、ね」
一番簡単に出来る手作りシャンプーの出来上がり。
元の世界の様にケミカルシャンプーからオーガニック・ナチュラルシャンプーへと完全に移行するには、2ヶ月程掛かる。
それは泡立つシャンプーが悪い菌だけでは無く、良い菌まで殺してしまい、その良い菌がいないと悪い菌が猛スピードで増えていき、毎日ケミカルシャンプーで悪い菌を殺していかなければ、直ぐに頭が臭くなり、痒くなってしまう。
ケミカルシャンプーは卒業する為には――
(先ずは良い菌を増やす必要があるのよね……)
その為に時間が掛かる。
良い菌が増えれば悪い菌は減っていく。
(エッセンシャルオイルがあれば、このシャンプーに入れる事も出来たのだけれど……それは今後の課題ね)
この蜂蜜シャンプーは室温で1ヶ月程度は持つ。それ以上は蜂蜜酒になってしまう。
私は自身の長い髪やお母様とレナスの髪を思う。
この蜂蜜シャンプーは髪に、というよりは頭皮にたっぷりとつけて、頭全体を優しくマッサージするといった感じ。
マッサージが終わったら普通に洗い流す。十分に洗い流せたかは、ちょっと毛先を吸ってみると判る。
甘い場合はまだ洗い流せていない証拠。
頭皮をマッサージして髪を軽く洗い流すだけでも、確りと髪に浸透していき、使い続けることで纏まりやすい髪質となり、潤い艶々感も出てくる。
(頭皮の臭いは解決出来る……かしら)
残るは体臭と衣服の臭い。
シアンが私を呼びに来るまで、首から紐で下げている物を見ながら考えに没頭した。
魔石やストーブランタン、ビーカー等の話はいつか書こうかな、と思います。




