アリシア ~追憶~ 2
私は両親の顔も、自分が生まれた日や場所も知りません。
私が知っているのは教会の前に捨てられていた孤児だという事だけ。ただ、年齢だけは何故か書かれて捨てられていたというのが何とも言えませんが……。
どうせなら、名前という最初の贈り物くらいは、付けていただきたかったものだと思っていました。
それすらも忌み嫌う程、私が邪魔で要らなかったのだと、今では諦めています。
私の『アリシア』という名前は、女神シンシア様とハーティリア家の始祖で、聖女と謳われているアリーシャ様から取って付けた名前だと、私を拾って下さった教会兼孤児院の先生も務める修道女のターナ様が話て下さりました。
しかし、私には平均値よりも強い魔力を宿し、魔法の才がある事から、親のどちらかが貴族であったのかも知れないとターナ様は仰っていました。
身分違いか、もしくは娼婦との私生児ではないかとの事ですが、気にしていては生きていけませんから、どうでもよいことだと私も切り捨てる事にしたのです。
それでも道行く親子を見ると時折、羨ましくも妬ましくも思ってしまう時はあったのですが……。
私の育った教会兼孤児院は、ハーティリア領の港町メーアにあり、商店街と貧民街を隔てる境界線の様にして建てられていました。
当時はそう思っていましたが……。違いますね。教会を境界線にするようにして貧民街が出来たのでしょうね。
今日食べるのも精一杯。私達の面倒を見る年長者とターナ様が、明日の食事の調達をどうするのかと話合う程の明日をも知れぬ身でした。
しかし、六歳の頃に変化はありましたね。
お嬢様は知りませんでしょうが、私は私達はお嬢様に救われていたのですよ。
私は一枚の銀貨を見る。
銀貨の端に穴を開け、革紐を通して首に下げていた。
ハーティリアの『うつけ姫』と揶揄されているお嬢様がいらっしゃるとは聞いて知ってはいましたが……。魔力がないのに、どうして貴女がそこに居るの? と思った事がありましたが、愚かだったのは自分だったのだと、今ではお嬢様の器を見誤った情けなさと申し訳なさで一杯です。
そんな自分が何故国内屈指の名家であるハーティリア家のお嬢様、ソーナ・ラピスラズリ様に仕える事が出来る事になったかというと、私が八歳の冬。寒く海も荒れる日に、人身売買をする人拐いに遇い、奴隷商人に売られて異国へ連れて行く為の船が沈み、海に投げ出された私は奇跡的に助かった。
魔力があり、魔法が使える孤児。戦争の道具にも、貴族の愛玩具にでもなれて、しかも高く値が付く女児。奴隷商人が荒れた海へと急いだのも無理も無い話ですが……。
その船には同年代の子供達と少し上の子供達が乗せられていましたが、荒れていると、危険だと解る海に出たという事はそれだけ慌てて居たのでしょうね。
海に投げ出された私は思ってしまったのです。
戦争の道具や貴族の愛玩具になるくらいなら、此処で死ねる事を幸せだと感じてしまったのです。
魔力が、魔法が私を生かしたのかは分かりませんが、あの嵐の海を生き残り、流れ着いたのが遠くから眺めていた御屋敷のお嬢様曰く”ぷらいべーとびーち”だったのです。
『海が私を呼んでいると思ったのだけれど、私を呼んでいたのは貴女だったのね』
真冬の冷たい身を切る様な海の中に入り、私を抱き起こす誰かの声。私は閉じかけた目を懸命に開いて薄目だけ、それだけの視界の維持に努めた。
『大丈夫。貴女は海には還さないわ。必ず助けるから』
そんな声の主を幼い私は春の女神様だと感じた。ハニーピンク―― お嬢様風に言えばピーチゴールドの髪が春に咲き誇る花の様で、そのお召し物が汚れてお身体まで汚れてしまうのにも構わずに、薄汚れた私を抱き締めて下さるお身体が暖かくて、その時の温もりは今もこの胸にあります。
『曇り、荒れる海の浜辺を散歩するという、あの物好きで変わり者のお嬢様の気まぐれな我が儘が貴女を救ったのよ。感謝しなさい』とは、その時、私の身体を清めた先輩侍女の言葉。
我が儘でも気まぐれでも構わない。と、いうよりは理由など別にどうでも良かったのでしょう。異国に売られ、戦争で使い潰されたり、貴族に愛玩具として弄ばれて壊されて棄てられたり、浜辺で凍え死ぬ処だったこの命を救って貰えたのだから。
その上、お友達になって私と共に来てくれないかしら? と差し出された手に私は戸惑い、質問を質問で返してしまいました。
その答えが――
「禍福は糾える縄の如し、よ。目の前に好機があるのだから自分の手で全力で掴みに行かなければ、掴まなければ、好機は目の前から直ぐに消えて無くなるわよ。これは施しでも、同情でも無い。私は貴女を拾った。ただそれだけよ。貴女が帰して欲しいというなら、貴女の住んでいた場所まで送り届けるし、貴女が構わないで、と屋敷から出て行くなら私は追わない」
私に選びなさい。と手を差し出したまま私の答えを待つお嬢様。
「……貴女は……私達をどう思っているのですか……。貴女にはそんなにも美しいお召し物や毎日の食べる物にも困らない。魔法貴族の貴女に――」
お嬢様の表情が剣呑に、そしてその視線に侮蔑と冷たさに私の言葉は止められた。
「私は魔力を宿していないし、魔法も使えない。けれど魔法士や魔導士の機嫌を窺い、媚びへつらうだけの家畜に成り下がる気は無い」
そうして語られた二年前の真実。あれに落胆して、二年間この地に訪れて居ないと、お嬢様はおっしゃられた。
私は驚いた。あの孤児院が毎日の食べ物に悩まなくて良くなったのは、お嬢様のお蔭だったのかと、同い年の女の子が考えたのかと。アレは街で子供や、エールにも届かない金銭しか持たない者にも好評だという事だ。噂ではそれだけで商爵の準爵位が与えられるだけの財産を築いていると大人達が話ていた。
目の前のお嬢様は御自身の危機を、市の事を知っていて御自身の手で好機を掴んだのだと感じた。
「私、お嬢様とお友達になりたい。私、お嬢様といきたい」
いきたい―― が”生きたい”なのか”行きたい”なのか当時はまだ勢いで言っていた様な気がしますが、お嬢様と共に在りたいと今では思っております。
「そう? 良かったわ。私はソーナ、ソーナ・ラピスラズリ・ハーティリア。貴女は?」
その笑みを見て私は、お嬢様の背後で花が開花するような錯覚を起こしてしまいました。
「私はアリシア」
「アリシアね。アリシア、今日からよろしく」
「は、はい宜しくお願いいたします」
生まれも育ちも分からない私を、魔法士として利用しようと思えば利用できた。ですがお嬢様は『考える頭も、何かを作り上げる事の出来る手もあるわ。もし、貴女に魔法の使用を命ずる時は、そうね自然の力では私の求める基準に達しない時かしらね……』と、何時も『大切』だと『家族』だと事あるごとに仰って下さいます。
私ごときには畏れ多く、それはいけません、と言うと悲しそうなお顔で『……大切な親友、では駄目かしら……』と目を伏せられる。
そして、その様に接してくれます。
十歳になった頃、私がお嬢様の『親友』であり続けるなら、ソーナお嬢様では無く、レナスお嬢様の魔法を使える侍女兼護衛として仕える事、と旦那様から言い渡されました。
そして、ソーナお嬢様とレナスお嬢様についていた侍女のマリーヌさんがソーナお嬢様の専属侍女に決まりました。
しかし、私は聞いてしまったのです。彼女がソーナお嬢様の侍女になり、愚痴を言っているのを。
レナスお嬢様に仕えられれば一生安泰です。ですが、魔力が無いソーナお嬢様に仕えたとしても見返りが無い。貴族で無くなるお嬢様はハーティリアを名乗れなくなるのですから。
私の事を好ましく思って居なかったのでしょう。マリーヌさんは私の排除を図ったのです。
旦那様にはペルシ・パイライトという弟様がいらっしゃいました。いらっしゃいましたと過去形なのは、彼がこの世に存在しないからなのです。
彼は魔力が少なく、魔法士としての才も無かった為にハーティリア家を出て商人になり、爵位を賜ったお方だと、当時ソーナお嬢様とレナスお嬢様から教わっておりました。
それだけでは無く、幼女趣味だとも……。
そして奥様主催の社交界で私はマリーヌ様に、ソーナお嬢様が居る部屋に飲み物を届けて欲しいと言われ、訝しみながらも指定された部屋に向かいました。
しかし、それは罠で、罠だと気付いた時には時すでに遅く、パイライト商爵に退路も断たれてしまいました。
私が運んでいた物を確認した商爵が言うには、女性が殿方に今夜は良いですよ、と合図を送る飲み物だと厭らしい笑みを浮かべました。
私は商爵に襲われそうになり、テーブルに置かれた飲み物の入った銀の水差しを手に取り、無我夢中で振り回したのです。
ゴッ! と鈍い音と共に商爵が倒れました。
私は必死にドアに飛び付き、鍵を開けて体当たりをする様にして外に飛び出したのです。
襲われた恐怖と、罰への恐怖で身体が震えてしまい、脚を縺れさせながらもなんとか逃げようとしましたが、脚を掴まれ倒れてしまいました。
助けを呼びたくても、商爵が人払いをしていたのか誰も居ませんでした。
私を引き摺り倒した商爵が立ち上がり、荒い息を吐きながら迫って来ます。
ゾワッとしました。
仲良くしようとしただけなのに、公爵の弟である自分を侍女が害した。私を置いて居るソーナお嬢様にも咎められると言われ、逃れられないと、私が持った銀の水差しが証拠だと言われました。
そんな時でした。
「ねえ、貴方。私の侍女に何をしているのかしら?」
とても冷たい声が静かな廊下にはっきりと聞こえたのです。
何時も聞いている美しい声。それが熱を感じさせないだけで、まるで刃物を喉に突き付けられて居る様な感覚です。
その冷たい視線に恐怖でゾクリと身体が震えてしまいました。
「っ!! そ、ソーナ……お嬢様っ!!」
「そんな事は見れば……クス、声を聞いた時点でわかるでしょう? それよりも貴方が、私の、侍女に、何を、しているのかを、聞いてるのだけれど?」
一言一言、言葉に力を込めて商爵を威圧するお嬢様。
お嬢様がどうして此処に居るのでしょうか? とか、色々な疑問などを忘れて、初めて権力で誰かを威圧するお嬢様に戦いていました。
「あ、いや、この侍女めが私に暴力を振るったのですよ。この通り証拠も此処に!」
パイライト商爵は私から水差しを引ったくり、お嬢様に見せ付けました。
「この様な事を起こしてしまっては兄上に申し上げなければならず、それでは、侍女でいられなくなると思い、それは流石に可哀想だろうと、わ、私がですね……」
お嬢様は此方に回り、商爵から私を守るように立つと、そうなの? と私に確かめる様に顔を覗きこまれました。
お嬢様の麗しの花の顔が間近に!
この時は、ただ詰問の為と思っていましたが、今なら理解できます。お嬢様は顔を近付ける事で商爵による脅しから私を庇ってくれたのだと。
「そ、ソーナお嬢様、お父上であるセージ殿の実の弟であるこの私と、その様な婢女とどちらを信じるのか」
お嬢様は商爵に半身で向き直ると、冷然とした言葉を返す。
「へえ……その公爵であるお父様の邸で、その娘である私に偽りを述べる……いい度胸しているわね叔父様。私も侮られたものです」
そう言うとお嬢様は手にしていた扇子をバッと勢い良く開くと、口元を隠し――
「私の目には、叔父様が年端もいかない幼女に迫り、逃げられた挙げ句に逆上して、怪しげな飲み物を無理矢理に飲ませて、公爵家の邸の廊下で襲おうとしていた様に見えますが?」
お嬢様の視線は商爵が私から奪った水差しが……。
「なっ!? い、いや、これはですね……先程も言ったが――」
「叔父様、そう仰るのであれば私に見せて下さらないかしら?」
改めて説明しようとした商爵の言葉を遮り、水差しを差し出せと命じた。
「こ、此処に私の血が……」
お嬢様は、ふーん、と興味が無いような冷たい反応を示す。
「叔父様。叔父様の傷も見せて下さらないかしら」
「え? は、はぁ……わかった」
お嬢様の前に身を屈め、傷を見せる商爵。
私はこの時、怖れていました。お嬢様に嫌われ、要らないと、目の前から消えなさい、と言われるのではないかと本気で思ってしまいました。
私さえ我慢していれば、と。それでも汚された身体では、お嬢様に触れられない、汚れた物を見るような目を向けられるのは、私には耐えられません。
傷を見せる商爵に対する反応も、先程と変わらず……。
「ふーん。コレがアリシアが叔父様に付けた傷、なのね」
そう言うとお嬢様はとんでもない行動に出た。
「そのとお――――りぃがぁっ!!」
下衆ッ!! ――――では無くグシャッ!! という私が殴り付けた時よりも残酷な鈍い音と血が飛び散っていた。
いくら相手が下衆だからと言って下衆ッ!! という音は出ませんよね。
商爵は獣の様な雄叫びを上げながら頭を押さえて悶える。
私は突然の事に、お嬢様の行動に驚き、固まってしまっていた。
「クス、あらあら、此れではアリシアが殴り付けたという傷が判らなくなってしまいましたわ。叔父様、証拠も無くなりましたけど?」
艶然と笑みを浮かべ、悶えのたうち回る商爵を凜然と見下ろしている。
私が傷を付けた場所には、先程よりも惨たらしい傷が生じていました。
お嬢様のドレス、頬、手にも、そしてお嬢様が手にする銀製の水差しも返り血で塗れていたのです。
「『死人に口無し』。幼女趣味の叔父様が、アリシアを襲っていたので、暴漢者と成った叔父様を始末した。私がそう言えばこの件は片付くわ」
「な、何を……そんな事が許――」
「別に許されなくとも、信じてくれなくても、叔父様の素敵な御趣味は知られていますもの。なんなら姪に手を出そうとして襲って来たから返り討ちにました、とお父様に言いましょうか?」
そう言うや否やお嬢様は水差しを振り下ろし――
「助けて下さいっ!! お父様――――――――ッ!!!! い、嫌、来ないで下さいっ!!」
そう叫ばれました。
ゴシャッ! グシャッ! と脳天を直撃する音。
「な゛っ!? がっ、ま゛っ!!」
「お父様――ッ!お母様――ッ! 嫌ぁーー!! フフ、叔父様はこういうお話をご存知ですか? 宮殿の宴に登城した時に雅な領主が、別の領主を苛めたのです。苛められた領主は我慢出来ずに宮殿の廊下で雅な領主を剣を振り回し斬り付けたのです。ですが、苛められた領主の失敗は剣を振り回した事、討つ、と決めたなら一撃で仕留めなければ剣を振るう者としては恥となりましょう」
商爵は顔面を血だらけにして、お嬢様を化け物を見るような目を向けて怯えている。
「少女を罠に嵌めて、脅してご自分の欲を満たそうとする悪漢を領主の娘として許す訳にはいかないでしょう? 領主の弟だからと許していたら、民に示しがつかないわ」
「ゆ、許されませんぞ……」
「クス、許され無いって……」
そう言ってお嬢様は私に抱き付き震える。
「こうすれば、貴方は私を襲おうとしていたところを、アリシアに見付かり、私を救おうとしていたアリシアも捕らえ、私達を手込めにしようと見えるかも知れないでしょう?」
此方に近付いてくる複数の足音。
「何だ今の悲鳴は! ソーナ!!」
「ソーナどうしたのっ!!」
「何があったの!」
「おとぅ……さま、おかぁ……さまぁ……おじ、叔父様に……私、乱暴を……アリシアが」
「アリシアが助けてくれたのかっ! 良くやった、良く娘を救いだしてくれた!」
「この甘い臭い……。まさか媚薬を混入させた花蜜酒! こんな物を使ってソーナを!!」
お嬢様と私を抱きしめて庇って下さる奥様。
その奥様が水差しから溢れたお酒の臭いが何なのかを察して商爵を憤然と睨み、魔力でそのお美しい髪が翻り、旦那様は激怒し、血塗れの商爵を締め上げて居る。
「あ、兄……上違いまする……私は……」
「わ、私を魔法で……」
お嬢様の震える声を聞いた旦那様は――
「脅して、私の娘を手込めにしようとしたのかっ! そこまで堕ちたかっ! ペルシッ!!」
廊下に響く怒声。
「お父様! これ以上、この男の顔は見たくありません……。ふ、不愉快です。い、一刻も早い処罰を! あ、貴方達、早くこの男を捕らえて! こ、これは命令よ!」
「……連れていけ、怖い目に合った娘にそれを言わせてしまった……。これは、私の命だ。その男は賊だっ! 連れていけっ!」
「あ、兄上っ!? お、おま――――」
問答無用で引っ立てられ連れて行かれた商爵。
私達がペルシ・パイライトの姿を見たのは、それが最後でした。侍女のマリーヌはお嬢様が逸早く罰していたと侍従長のシアンさんに聞かされました。
「あれ以降お嬢様の陰口は後を絶た無くなってしまった」
「権力を使い旦那様の弟様を処刑にした『血塗れの公爵令嬢』」
「魔力も無く魔法の才がなく歪んでしまった暴虐令嬢」
「大うつけが公爵家に泥を塗る」
「聡明なレナスお嬢様とは大違い。優秀なレイフォン様ともですよ。あんな無才が姉ではお二人が苦労する」
それが私を庇い、芝居を打ったお嬢様への代償……。
「お嬢様は才能の無いご自分が権力を振るえば更に印象が悪くなる、それを知った上で……」
そしてお嬢様は私に頭を下げられた。
「このハーティリアの邸で怖い思いをさせてしまった……。親友を悪意から守れ無かった……御免なさい」
と。
「だからこそ私の主はソーナ・ラピスラズリ様以外にいないと、誠心誠意お嬢様に使えたいと思ったのです」
旦那様にこれからは『親友』では無く、『侍女』としてソーナ・ラピスラズリ様にお仕えしたいと訴えたのです。
お嬢様に魔力が無く、魔法が使えないのなら、私がお嬢様の魔力炉になり、魔法と成ろう。
そう誓い、私の全てを捧げたのです。
それがあの日、荒れた海で死という仄暗い希望を見出だし、死を望んだ私に生きる意味を与えて下さった、お嬢様に御返し出来る唯一のものなのですから。




