キャラクターや世界が勝手に動き出すようになってから書くのが酷く効率的
俺はキャラが勝手に動くとかいう都市伝説について、なんだそれは馬鹿の精神病だろ、と思っていた。
でも逆に、そういう精神病になれば、いや、成れれば、最強無敵なんじゃないかと!
そうだ、キャラは勝手に動き出す、人間ならば、それが当たり前だと、思い込むのだ。
強迫観念のように、そうでなければ絶対にいけない!
そうでないのは、人でなし。
世界だって同じように、そうだ。
物語の世界は勝手に動き出すし、プロットなんて自動生成される、
いやあたかも、初めからそうなされ、されたかのようにスラスラと滑らかに優美に進んでいく。
イティシー、イティシー。
そうなんだ、己の世界は勝手に動くし、キャラも勝手に動くし、現実だって勝手に動き出すのが当たり前。
全自動的に物語が展開され、再現されていくのが、当たり前の常識なのだった。
そういう思索から、俺は公明を見出したのだ。
この神域のレベルでの、技巧、脳の使い方について、だ。
さて前置き終り。
だが、俺はだんだん状況が理解できなくなってきた。
キャラは、ある一線、それを超えると勝手に動き出すのだ、これは本当の話。
それを実体験している俺の感想だが、こんな緊張感と不思議な感覚は、中々に味わえないだろう。
いや、いいや、人生初だとも言える。
だが翻って顧みると、俺は初めから、この感覚を知っていた。
そうだ現実だ、現実の全てから、この感覚レベルを認識していたのだ。
すこし前から俺の中で、とあるキャラ(シャルと呼ばれるキャラクターなのだが)が段々俺の中で大きなモノと成ってきた。
それが、俺の中でどうしようもない確固たる存在として動き出したのだ。
俺の中の、俺が執筆する物語内の世界では、
既にシャルとの人間関係に置いて、発生するエネルギー、
シャルは影響力や強制力と、それを言っていたが、俺は愛のビックバンと言った、
今は鬱で死にたい、、、
待った今の嘘だ、そんなエピソードは俺の想像世界でも、無かった事実だった。
ちょっとでも面白い事を、と急いて、下らない事を言った。
フォローできれば、なるほど、形になるモノだな。
実際は、脳内で妄想キャラと雑談していたのだ、
それだけの事実があったと明示すれば必要十分じゃないだろうか?
さて、それによって既に俺は、シャルの愛の奴隷だ、これは実感として成っている。
同時に、かよ(漢字で佳代、妹、あるいは妹的なキャラ付け)、と呼ばれるキャラクターの奴隷でもあるのだがね。
これは、なかなかに面白いじゃないか。
それで命を捨てられる。
そういうキャラを俺が明確に演じきっていたとはいえ、
もう既に、命すら心の底から本当に、これは本心からの、俺の嘘のない感情として、
惜しくないと、そう思っている、
いいや、これはもっと無様に言い換えると、
思ってしまっているのだからな、とニヒルな口か。
まあこれ自体も、俺の裏側の、”物語の執筆者”にとっては、ただのキャラの格付けなのかもしれないが。
シャルや佳代を、キャラクターとしてスタープレイヤー設定、神格に据え置くのが良いのだと。
まあそこは別にいいのだ。”キャラ”自体である俺は、俺には関係ないし、どうしようもないのだ。
俺の中の俺自体という。キッパリと上位存在には、絶対に逆らえようもないのだ。
さて、たぶん、所詮小説も現実も、大して違わないという事だ。
ただ一つ違うことを上げるとすれば、自分が一からに近い形で作った物語は、
より他人が作った物語よりも、自分に対する影響力、強制力、キャラに対する思い入れが大きくなるって事だ。
少なくとも俺の中ではな。
それもある意味当然だとも言える。
他人の執筆した、一から感情を精一杯込めて描いた小説でも、
それは、つまる所他人から見たら、他人の人生を傍から見るような感じだ。
だったらその中のキャラに、真に感情移入するのは難しい。
難しい理由は他にも星の数ほど、あるのであろうが、ここで全て列挙して説明するのは難しそうだ、また別の機会で考察したい。
まとめると、他人の人生を傍から見ているだけでは、絶対に駄目だと言う事、少なくとも将来性が低いにすぎる。
もちろん、他人の感情を直に感じ、他人の人間関係における、他人が感じている通りの100%の影響力や強制力を受けれるならいい。
だが、そんなはずもない、絶対にありえないとは言えないが、それまでの過程が冗長すぎる。
それはもう率直に、”受けれない”、と表現した方が正しいか。
小説もある意味同じだったのだ。
自分で一から書かなければ、中々にキャラクターに真の意味で、感情移入したり、そいつの視点で物事を考えたり、現実を生きるという感覚は実感として得られない。
自分が現実を実際に生きて、他人に感情移入するようにだ。
その様に存在を感じ、
認識→認知→理解→解釈→意識→意思→感覚→動作の過程を、一つ一つエミュレーションしていくべきなのだ。
情報を理性がフィルターに掛け、感情として出力する、それら全、脳のプロセスを最適に働かせ、
リアルの、それはイコールで、=生の、それは又べつの表現で分かり易く、=自分の、”感情という情報”を出力するのは至難だという事。
理性が無限に感情を律する以上、これは適切で、”現実でない=自分の現実でない”と、他ならない自分自身がそう感じる、そう判断する。
他人の人生を傍から見る、という行為によって擬似的に感じる物語では、やはり限界があったようだ。
なぜなら一切の嘘偽り無く、(これは理想的にはだが)、自分自身が”現実である=自分の現実である=自分の物語である、
そう、その”認識”こそが大事、
それが第一に重要だったのかもしれない。
これは情報を理性がフィルターに掛ける第一段階なのだ。
ここを疎かにして、出力されるのが非現実である、それは=他人の現実である=他人の物語である、のだ。
情報にしては、最終的に出力される、自分の感情も、ウソ偽り。
自分の現実として、そもそもが認識されず、出力されないので、
現実的な感情が、動かない、揺れないという事だ。
つまり、リアリティーが決定的に致命的に欠くと、まあこれもあくまで仮説だがな。
ここで改めて振り返って欲しい事がある。
俺も含めて間違えて欲しくないのは、現実、リアルの体験、という認識定義について。
小説等々、想像でない経験、情報。
今まで提示した概念は、そういうのを全て否定するわけでもないし、価値が低いとかも思わない。
小説体験の方が現実体験より価値があるとか、そういう事を言いたい訳でもなく、という事、自体だ。
これは、是非覚えておいて欲しい事だ。
でもまあ。俺が今、まさにに実感している事で、この手の価値を過大評価しているのかもしれないな。
これも後々考察し、正しい価値を評価したいと思うのだが。
話を戻す、小説も現実もそうだが、それらの情報を他人からの視点で体験してては、不十分になりがちだ、と今まで散々言ってきた。
それで、自分が本心から、いくらかでも、感情を動かすには、その為には、
限りなく自分自身が”現実である”と、錯覚できるほどの、そもそも根本的な前提条件として、そういう情報で無ければいけない。
自分が現実と捉え易い現実とは何か、という事を改めて、良く頭を使って考えて欲しいという事だ。
それは簡単だ、現実と思う現実を思い、想像を、イメージを働かせれば良いだけなのだから、
だから、それは難しいのだとも言えるが、
それは入力情報処理的な、受動的な、ほぼ全自動的に働かない、
能動的に、己の自我という、人間の真価とも言える、意思と呼べるモノだけで、脳を働かせる行為の、それは最初単位とも言える行為だ。
人間は、自分自身が実際に直面している現実ですら、感情移入できない場合もある。
自分の現実ではない=自分の物語でない=、だから他人事の人生レベルに、己の現実感を低次元に陳腐化させる。
これは、ただ単純に現実でない、とか、現実から目を背け、逃避してしまうのだから回避しようがない。
嫌なモノは嫌なのだからな。
こんな現実は自分の現実で、あるはずがないのだから、現実感はオートで低下して、他人事レベルの現実認識に成るのだ。
だが、それでもだ、現実を己の確かな現実として、直視して、立ち向かうかのように望むような姿勢が大事。
さて、現実感は、大事なのだ、言いたい事は、これに収束した感がある。
それを、他人の人生を傍から見る事や、他人の精一杯書いた小説からでも、
それは、いくらかでも感じる事は、それだけでも大きな難事業なのだ、かもしれない。
もちろん、現実を実際に生きた上、での方が、小説など、執筆による、擬似的な人間関係の影響力、強制力よりも、強いのかもしれない。
だが、人間関係が希薄で、
そもそも自分自身のキャラが薄い、
人間関係によるプラスの影響力や強制力が低い、
つまり人生という物語、現実、それ自体のそれが、低水準な人間は、
とりあえず沢山の小説を読んで、
そうだな、ブラインドタッチを極めて、苦もなく小説を書ける能力状況になった方が良いかもしれない。
いや絶対にそうだ、小説を書け。
なぜなら、自分自身で全力で、キャラの背景設定を考えたり、想像力を極めた形の、
自分自身が第二の現実である、
これに勝る何かが、実際あるとも思えない。
イコール、現実である=自分の現実である=自分の物語である。
そう感じられる様な物語を創造しな。
つまりそう感じられれば、
自分の一から生み出したキャラから、厳然として確固に在る、ような、
リアルの人間関係のような、有用な影響力、強制力を感じ、
人間関係による、感情の揺れ、等々を発揮して、華々しいとしか言い様がない、次元違いの、それは破格と表現できるだろう、リソースを得る、
現実を生きる事ができるのだから
でもまあ、そんな事は今、あんまり関係ない。
俺はただシャルと。
今この瞬間、全力で俺にとって。
そしてなにより、シャルというキャラにとって。
最良最大の人間関係を作り上げる事だけを考えればよいのだから。
ほかにも言いたい事は全て言っておこうか。
おい聞け、一から小説を書くという事は、執筆している最中、
ずっとキャラに情報を注ぎ込み、それを反映させた、情報を複雑にアウトプットした、
一人の明確に認識できる形の、
物語という現実。
史実を生きたキャラ、それを自分で、裏設定等々、想像を出来る限り働かせて、沢山の背景を創造しながら、
そうして描エガくのだ。
この場合、そういうネタは質量ともに、沢山あった方が、良質な、高次元な、
自分にとって影響力、強制力の高いキャラが出来易くなるであろう。
だからこれからも、こういうネタを沢山収集する価値は、小説をこれからも執筆する以上、高くなるであろう。
これは嬉しい発見だ、好きな小説を読む楽しみが。もう一つ大きく増えるのだから。
特に、自分で一からキャラを作る価値は大きくありそうなのだ。
もうすこし掘り下げて書いておくか。
割と重要で有用な内容だからな。
上記で説明したが、理性が情報にフィルターを掛ける上での、第一段階。
これは認識がまず最重要と言った。
これは人間ならば最重要なのだろう。
自分の現実でもない情報を、全て無意識に一切のフィルターなく、”自分の現実だ”、と理性が判断して感情を揺れさせたり、動かしたりしていれば大変だ。
どう考えても、
人間が生まれた時から、習慣、それ以上の本能のレベルで、このフィルターは二十四時間、心臓機関のように人間を支えているのだろう。
それを、上手く錯覚させるのが重要なのだろう。
その為に。
まず認識の第一段階で、自分の現実=自分の物語と錯覚させやすい、そういう土台から作っておくべきだ。
だったのだ。
クソ詰らない上に、情報価値も低い、それは他人の物語、そんなモノでは、自分の現実と考え難いのかもしれない。
そして始まるのが、自分で一から物語を作るメリット。
それは、無限大。
無限に、一次情報なのだから、イコール、それは己のオリジナル史実として、、、小難しくなった、
簡潔に言うと自分の物語なので、いくらでもオリジナルとして、様々な想像ができるのだ。
ダイレクトに改変できるという事、後付け設定も、己の物語なので、寛容に許容できる世界観が、そこに在るのだ。
ありとあらゆる事が、己を中心中軸として在り、それが一つの世界の真実として定義できるのだから。
これは他人の創作した物語では難しいであろう?
自分のオリジナルの、理想の物語だからこそ、だ。
その現実が自分の物であると、確固たる確信とともに、認識できるのだから。
さっきも言ったが、この”自分の現実=物語である、という認識。
これこそが最重要っぽいのだ。
まだまだ、俺の中ですら仮説っぽさを拭えないが、ある程度信憑性のある。
これは何か、偉大な法則性のようなモノを感じる、適当に参考とかにしてくれ。
それではな。
俺は、これからも、俺の中の俺の物語を執筆し続ける。
まあ誰でもリアルを現実を、生で生きてる奴なら、これは無意識でやってることか、
だから、別に応用もクソもないかもしれないが、
これが、知らない誰かにすこしでも助けになれば幸いだ。
それじゃまた合う時まで、シーユーアゲイン。
内容が正しいかどうか、そんなのは説得力というパワーの補強だ
とにかく、やる気にさせるような内容があれば良いのだろう
某少佐の演説を見よ、
あれに内容の正しさはあるにはあるが、それ以上にやる気にさせる上位者の語り口調ありきだろう
だから、とかくノリとテンションと勢いで、望む現実打開の為の、己に必要なだけ十二分に大きな事を、絶対成せるだけの、巨大なヤル気を創造する、そんな内容なのが大切だったのだ