婚約破棄のテンプレートは正常に作動しない!
ここは西王国の東部にある中立都市クラスタ。その奥は高地になっており、高家格区域と呼ばれている。
そこには西王家と、それと同格である三公の邸宅がある。むしろ、それしか無い。三公家の屋敷は大使館も兼ねている。
王家邸――三公邸の同様だが――付近、周辺地域には貴族家の屋敷はない。
四つ邸のある高地から なだらかに下った平地は、小さな城下町のようになっていて、平民街がある。これは自然発生的に出来たものだ。
一年に四度、季節毎に一度だけ開催される王家主催の舞踏会も もう今年最後の催しとなる。本日は『冬の宴』の当日である。
但し、家格爵位では これらの宴には参加出来ない。個有爵位の子爵以上を必須としているのだ。そういう意味で、平等ではある。
しかしながら、暦の上では冬となっているが まだまだ暖かい時期だ。
特に今年は暖冬である。
今日も冬というより秋に近い気候だ、秋霖のようだ。朝から曇っていたが、昼前から小雨がパラつき、今は本降りになってる。
それでいながらも、特に寒いという感じはしない。
王家主催で、王・公・貴族の子女が集まるのである、当然ながら厳重な警備体制が敷かれている。
舞踏会は午後七時の開始だが、午前中には全ての準備が完了していた。
午後五時。
近衛騎士団・特務警備隊に配属され、初の任務に緊張している十八歳の青年がいる。
彼が立っているのは正面玄関、その向かって最も右側。来賓用馬車の駐車場から最も離れた位置にあたる。
万一の失策を懸念しての配置であろうか、彼の隣にいる指導員はベテラン隊員である。
雨が土砂降りになってきた。しかし、彼等が雨具を使うことはない――彼等の制服は、防水処置が施されている ある種の魔法具である。任務中においては両手は必ず空けておく。これは警備隊員の、基本中の基本である。
舞踏会開催まで まだ二時間も余裕があるのに、彼等がこの場所に配置されているのには もちろん理由がある。
王族と三公そして王都の閣僚が既に来館しているからである。
青年の隣で指導員が小さな声で呟いた。
「舞踏会前に会議をしているようだな」
■■■
舞踏会開始の約一時間前。
「ほう、凄いな! さすが東公国の御令嬢。以前より更に輝いている」
隣からの声に、緊張して視線を上げた新米隊員は 特に目立たない馬車が街路ではなく北側の郊外から ゆっくり近付いて来るのを確認した。が、何が凄いのか分からない。
彼が不審そうな顔をしているのを見た指導員は、強い言葉で指導した。
「馬鹿者! 警備に着任したら常時『眼』を開いておけ!」
当然の指摘に、彼は慌てて『眼』を開いた。
近衛騎士団・特務警備隊に彼が配属された理由がこれだ。というか、これが全てだ。精霊を見る眼を持っていること、ただそれだけだ。
精霊といっても特に変わったモノではない。動植物を問わず 生物は必ず、程度の差こそあれ魔力を持っている。四つの属性の何れか一つ、あるいは相剋をおこさない二つに、必ず該当するものだ。
特にヒトを含む動物、特に恒温動物のそれは明確に表れる。いくら気配を消しても魔力に反応する精霊を隠すことは出来ないのだ。
精霊眼。監視と護衛に最適な能力といえる。
しかし四属性の全てを見る眼を持つ者は希少だ。新米隊員には それがあった、それだけのことだ。
彼の視界が切替わった。
「!」
新米隊員は、強烈な輝きに神経が焼け切れそうになるほどの衝撃を受けた。
反射的に眼を塞いだものの、膝をつきそうになった彼の身体を慌てて支えながら指導員が小声で謝罪した。
「済まない。注意するのを失念していた。
半開で見たのか? 八分に落とせ……いや、その半分で良い。眼が壊れる」
新米隊員は返事をして、眼の感度を調整し、姿勢を正し、改めて それを見た。
彼は目の前に展開された光景に息を呑んだ。そして指導員が漏らした声の意味を知ったのだ。こんな事は通常あり得ないことだ。
全種の精霊が集まっているなんて。
さっきまで ありふれた馬車に見えていたものが光輝に包まれている。
全種類 四つの色相の、無数の明度、無数の彩度、そして さまざまな大きさ、さまざまな形状の精霊が馬車を取り囲んでいた。
全く相克を起こしているようには見えない。
新米隊員は、馬車が見えなくなるほど多くの精霊群なんて初めて見た。
ちらりと見えた車体が金色に輝いている。
まさか車体まで精霊で出来ているのか。馬も、まさか御者も精霊?
新米隊員の膝は細かく震えていたが、それにも気付かないほど 彼は その有様に魅入っていた。
「おい! こんな事で驚いてたら『姫様』を見たら腰を抜かすぞ」
指導員に背中を強く叩かれたことで現実に戻った新米隊員は、駐車場に(あり得ない程)静かに入って来た馬車を確認した。やっぱり精霊で出来ている。
「今日もダンスは なさらないのだろうな」
指導員の声は少し寂しそうに聞こえた。
「ダンス、なさらないのですか?」
舞踏会なのに? じゃ何のために来たのだろう。新米隊員の頭上に 大きな見えないクエスチョンマークが浮かんだ。
「彼女のレベルに合う相手がいないのさ」
隣の声には苦い、そして少しばかり嘲りの響きがあった。
来賓用の駐車場には、まだ他の馬車は来ていない。
馬車が完全に停ったのを待って、何処からか現れた黒衣の男性が その扉を開け挨拶してるようだが、新米隊員には 雨のせいで声は聞こえない。
優雅に、ゆっくりと 令嬢が馬車の出口に移動しているのが見えた。が、誰も傘を差し出そうとしていない。
不要だったのだ。
令嬢が馬車の扉から頭を出す直前に、馬車の周りの雨滴が消えた。
馬車の足踏みに靴(踵は、あまり高くない)が届く前に、濡れていたそれが一瞬で乾燥した。
続いて雨に濡れて緩んでいた地面が硬化して平坦になり、正面玄関まで絨毯を敷いたような形態に変化した。当然 水飛沫など一滴も付いていない。
魔法? 新米隊員の疑問は、彼自身の眼によって否定された。魔法を使えば彼にはそれが見えるのだから。
黒衣の男にリードされて令嬢が数歩進み、続いて侍女が馬車から降りた。
新米隊員がそれに気付いた時、御者を含む馬車が馬と共に光の粒になって消滅した。
何たる非常識! 彼は心の中で、大声で叫んだ。
いつの間にか黒衣の男も消えていた。
令嬢の服装は、そういえば舞踏会用にしては落ち着いた色と形状だ。
それでも、スラリと姿勢を正した彼女は、精霊の輝きがなくとも素晴らしく、眼福と言える。
黒髪、軽いウェーブがかかり腰の少し上まである。精霊が太陽光に近い光を放ち彼女の後ろに回ったとき、その髪の色は鮮やかな緑色に見えた。
新米隊員には、遠くて顔の詳細までは分からない。だが、今見える限りにおいても素晴らしい美少女――彼女は御年十五歳だ――のようだ。
騎士団員の来客に対する礼は直立のままだ。監視任務の者が頭を下げては意味がない。令嬢は侍女と共に正面玄関に至り、記帳し、虹彩認証のうえ入場した。
新米隊員には特に何も問題はないように見えた。
彼は気付かなかったようだな。と、彼の指導員は苦笑した。
新米隊員は、ずっと見ていた。令嬢が即席の絨毯の上を進み、入場するまで。
記帳の時以外は ずっと顔が見えていた筈なのに、それに気付かなかった。
この大陸のヒトの体格は、成人男性で平均百六十センチメートル、成人女性では平均百五十センチメートルである。
新米隊員は未だ平均身長に足りない百五十五センチメートル。彼には身長百六十五センチメートルある隊長の頭も ちゃんと見えていたのだ。
■■■
招待された貴族子女がほぼ揃ったようだ。
舞踏会開始にはまだ三十分程ある。
新米隊員に、彼の指導員が その時刻を見計らって声をかけた。
「さて、中に入ろうか」
今日は新入りの教育のため、全部署の配置状態を見学させる予定になっている。
指導員は新米隊員を促して雨水を弾き飛ばした。
これは、もちろん魔法である。
「そうだった。『眼』の感度は、今の半分程度に落としておくように」
新米隊員は訝しく思いながらも、眼の感度を調整しながら指導員に続いた。
近衛騎士団・特務警備隊の新米隊員が舞踏会場に入って驚いたのは、精霊の数、量と その輝きの規模だった。予め聞いてはいたものとは あまりにも違っていたからだ。
「何なんですか、これは?」
指導員は「やっぱりな」と小さな声で続けた。姫様が来ると いつもこうなるらしい。精霊が喜んで、踊っている状態(躁状態とも言う)だ、と。
一通り警備員が配置されている場所を回った後、新米隊員が待機している場所からは、王と三公が会談をしている席、その関係者の席、軽食や飲み物を載せた たくさんの立食形式のテーブルや、いくつかの 小休憩のための席などが見渡せる。
王と三公の会談は一段落したようで、弛緩した空気の中 それぞれが紅茶を口にして寛いでいた。
姫は王と三公に挨拶をしてから、改めて王に何か話しかけながら、大きな封筒から書類を取り出して それを渡していた。
王は 手渡された書類を見て、軽く頷いた。既知の用件であるようだ。
彼女は用事を済ませると、再度 全員に挨拶して、その場から退き、公家 所定の席に着いた。
それを待っていたように、侍女が紅茶を そのテーブルの上に置いた。
その洗練された一連の動きが終わったと同時に、新米警備隊員は止めていた息を吐き出した。かなり緊張していたようだ。
姫は席に着くと、侍女に軽く目を向け紅茶を一口飲んで 笑顔で何か告げると、バッグから本を取り出して栞のページを開いた。
■■■
それは、宴が たけなわとなって来たタイミングで起こった。
もちろん、狙っていたのは間違いないだろう。
警備隊員が気付いた時には もう遅かった。
会場全体に響き渡る大音声。
「東公国令嬢ティリス・エスタンス、俺は君との婚約を破棄する」
婚約破棄男、後にそう呼ばれることになった ウェストス王家第一王子――太子ではない――の言葉に、舞踏会に参加した、当の東公国令嬢を除く、全員が正気を疑った。
場所柄を弁えることも出来ない愚か者。中途半端な魔法まで使って、今更何を言っているのか、と。
舞踏会場が一瞬 静寂に包まれた。ティリス・エスタンス、いや現在はサクラ・エスタンスと呼ばれる令嬢の、本のペーを捲る音が やけに鮮明に聞こえた。
婚約破棄男は先程の魔法による大声にも 全く動じていないサクラに驚いていた。
聞こえていない、などとは思ってもいなかったのだ。
サクラは、その頃になってやっと精霊が動いたことに気付いた。彼女が気付かないうちに精霊が何かしたようだ、と。だが それは何時ものこと、気にも留めない。
彼女は周囲の状況にも全く気付かず、テーブル上の紅茶に口をつけ、そのまま読書を続けた。
サクラに現在の状況が全く伝わっていないことに気付いた侍女は、彼女に近づき耳打ちした。
今日は、王と王妃、王太后、王太子、三公、そして、珍しいことに王国の主要閣僚の幾人かも来ている。
現状を認識したものの、令嬢は その処理にとまどっていた。
どう対処しようか。
婚約破棄男の頭越しにサクラは国王及びその一族と三公のいる席を伺い。続けて王国閣僚である内務局次官、外務局次官、行政局次官、司法局長官、財務局長官が集まっている場所を見た。
皆が同じように、少しの間 不快そうな表情をしていたが、それは徐々に苦笑に変わった。何の茶番だ。というのが全員の感想だろう。
サクラは気づかなかったが、さっきの宣言には、不完全な制御ながら、いや不完全だからこそ なのかも知れないが、拡声魔法が使われたため、参加者全員に聞こえていた。
内容は貴族の広報に載っていた『条件不履行による婚約解消』と、解消と破棄の違いはあるものの、皆が知っていた。
結局のところ、婚約破棄男と その一味は、全員が広報を確認できない、最下位の貴族未満、あくまで個有爵位であるが、それを証明したようなものだ。
彼等が嘲笑の的になったのは当然のことである。
このまま放置。では、皆が困るだろう。
サクラは面倒そうに小さく溜息をつき、まずは確認した。顔は王に向いている。
「それは、あなたが『一方的に婚約を破棄したい』ということですね」
彼女の言葉に王が驚きの表情を浮かべながらも、静かに頷いた。それを見た財務局長官は、ため息を吐き、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも ゆっくり頷いた。
彼女の言葉の意味を正しく理解し、了解したようだ。
「そうだ」と、婚約破棄男はサクラに言質を与えた。が、彼は その意味に気付いていないようだ。
愚者もここまでくると笑えない。
サクラはこの相手には必要ないと判断し、礼をとらず、はっきりと その眼を見据えて答えた。
「良いでしょう。承知致しました」
婚約破棄男は、まさか何の反論もなく承認されるとは思っていなかった。あっけない返事に言葉が出ない。
その時、婚約破棄男の取巻きの一人が護衛騎士に取り押さえられた。
当然の処置だ。制御の不完全な魔法の使用は れっきとした犯罪なのだ。
婚約破棄男達は教唆も実行犯と同罪になるということを忘れているようだ。いや、最初から知らない可能性が高い。
その時、サクラは婚約破棄男の取巻きの中にいる一人の令嬢に気付いた。
あれ? なんだそういうことか。と、納得した。これは誤解であったのだが。
婚約破棄男を無視して、サクラはその横を通り抜け王国閣僚の一人を呼んだ。
「司法局長官殿。婚約破棄には理由があると思われます。証拠を以って明確にしてください」
彼女は司法局長官に持っていた 自分の端末型魔法具を渡しながら、王の表情を再確認した。
彼は片目をつむり、肩を竦めていた。やってしまえ、ということだ。
「婚約は解消済みではあるものの、不問にする訳には まいりません。賠償も含めて細かいことは任せます。この端末を閲覧ることを許可します。
尚、必要な場合は私への直接確認も許します」
指示を終えて、サクラは王族と三公のいる席に向かった。
司法局長官は、彼女に礼をとって、すぐに事情聴取を始めた。
もちろん彼は端末を覗くようなことはしない。それは最後の手段だ。だが この場合、それは必要ないであろうことを彼は確信していた。
何を考えているのだ、この馬鹿者共は! 事情聴取をしている司法局長官の傍に立つ財務局長官は その内容を聞きながら、苦々しく思いながら支出額の試算を始めた。
不敬罪。故意の誤報による名誉棄損。一方的な婚約破棄による諸経費の賠償。これだけでも とんでもない金額になる。
これらは国庫から支出することになるだろう。
財務局長官は額に深い皺を浮かべながら、それだけでは済まないことを知っている。
制御不全な魔法使用の実行犯と教唆、公文書偽造に偽証罪も含まれそうだ。
貴族位完全剥奪だけでは済まされない。
東公国国主代行権を持つサクラ嬢は『証拠を以って明確に』と仰せだ。妙な情けをかけて半端な処分をすると国際問題になる。
財務局長官は、そっと司法局長官の方を窺った。犯罪者となった彼等に どのくらい賠償能力があるのだろうか。
司法局長官は彼等の話を聞き、証拠なるモノを確認して頭痛がしてきた。
王位継承権を剥奪されたとはいえ当国の第一王子、そして彼も その取巻きも、全員十八歳以上、明らかに成人である。全く酌量の余地はない。
「君達は分かっているのか? 今 話していることは全て証言として記録されているのだよ。証言は証明出来ない時点で虚偽とされ、それだけでも犯罪だ。
いつ、どこで、何があったか、最低でも これだけは客観的に証明しないと証拠にはならない。
君達が提出した これらの書類も正確なものでなければ文書偽造で犯罪だ。
……しかし、今更どうしようもないが」
婚約破棄男と その一味は、警備隊に拘束された状態で その言葉を聞いた。いくら愚かな彼等でも、これで終わりだということを悟った。
サクラは思い出したように、婚約破棄男達にではなく、警備隊の一人に注意を促した。
「そこの令嬢は妊婦です。乱暴に扱わないよう注意してください」
元婚約者と令嬢の顔色が変わり、同時に取巻き連中の顔色も真っ青になった。
サクラは彼等を見ていなかったので それに気付かなかったし、後のドタバタについても永久に知ることはなかった。
なぜなら彼女には全く関係のないことだったからである。
サクラはそのまま王族達の席に向かった。
本日の用件の一つ、四箇月も放置されていた『婚約解消の通達』は終了した。例えそれが予定通りではなかったとしても結果が同じであれば良いのだ。
彼女には そのような些細なことに拘りはなかった。