Ⅱ
翌朝、私たちは羽田まで送ってもらった。なんでも神田さんは飛行機の手配をしてくれたとかで……本当に至れり尽くせりの人だ。
「いやあ、女子高生二人がいるから、おじさん張り切っちゃってるだけだよ」
その言動にはまったくいやらしいエロ親父という雰囲気はまるでなく、ただ渋い雰囲気しか出さないというのだから、本当にさすがだと言える。でも根っこのところはおせっかいなおじさんだ。
本当に良い人だった。
あいや、あのレストランのご飯がおいしかったからだけじゃなくて。
ちなみに神田さんの奥さんの名前は、明子さんというらしい。明子さんの料理も、かなりおいしかった……朝ごはんだけだけれど。
……明子さんと、私も少し話をした。
主にお父さんのことについてだったが……少し、お母さんのことについても話してくれた。
「里利ちゃんのお母さんは、やっぱりちょっと問題のある人だったね……里利ちゃんはよく怖がってたよ。それでも離れられなくて……つらかったでしょ?」
「……まあ、つらかったです。本当にいろいろありました……今日、前住んでた家に行ったんですよ。そこで……いろいろお母さんのことも思い出したりして」
「……お母さんのこと、嫌い?」
「大嫌いです。自殺したと聞いたときに、はっきりとそう思いました。やっぱり、大嫌いだって。自殺してにげるなんて……私のほうが殺してやりたいくらいでしたよ」
「……そう、ね」
この時私は、自分でもここまで殺意をむき出しにしたことがないくらい、険しい顔をしていたと思う。グラスに入ったお茶を、じっと見つめていた。
「……里利ちゃんのお母さんもね、悩んでたんだよ」
「……悩んでた?」
「うん。里利ちゃんを見るたびに、嫌な気持ちになる。実の娘なのに……母親失格だって」
「…………」
よくわかっているじゃないか。そう思った。でも、悩むなんて……贅沢な。
「里利ちゃんのお母さんも、頑張ってたんじゃないかな……自分自身と、戦ってたんじゃないかな……」
「まったく、そうは思えませんでしたけどね……仮にそう思っていたとしても、私が覚えているのは暴力をふるう姿だけです。悩んで葛藤している姿なんて、覚えてません。……いくつか、自傷的な行動をすることはありましたけど」
あれが、もしかすると葛藤だったのか。お母さんの、愛と殺意のせめぎあい。……結局、殺意に負けてしまうんだけど。
「里利ちゃんのお母さんも、大変な人生を歩んできててね……生まれてから、康哉に会うまで、いじめられていない期間はないってくらいに」
「……えらく、軽く言いますね」
「子供に重く聞かせる話じゃないよ」
そう言って明子さんはグラスに入ったウイスキーを飲む。きらきらした黄色。ひょっとするとウーロン茶と見間違えてしまいそうだ。
「ま、私もそれほど、まみさんとは話したことはないんだけどね……」
「……名前、出さないでください」
「……ごめんね、里利ちゃん」
「いえ……」
吉光まみ。それがお母さんの名前だった。あのまみさんの娘……その言葉を、お父さんの葬式で散々聞かされた。そのあとも。その前からも……。おかあさんの名前の前には、必ず『あの』という言葉が付く。
私も、一緒にしているような言い方が嫌で。その向こうに私の内面を覗いているような気がして。
大嫌いだった。
「……でもあれは、多分さとりちゃんを心配していたんだと思うよ」
「……さいですか」
そうとしか答えられない。私はお母さんのことをマイナスにしか評価していない。少しのプラスなんてあるものか。そんなものはない。
「……私の息子も、娘も、もう一人立ちしていったけど、やっぱり心配にはなるものだよ」
「……お母さんも同じだってことですか? やめてくださいよ……あんな人。尊敬する部分なんて、ひとつだってありはしませんよ」
「そうね……私も、康哉からもっと話を聞くべきだった。あいつ、変なところで頑固だから……本当に、変なところで」
「…………」
そんなこんなで、話は私のお父さんに移った。
……私の、お母さんか。
私にむけてきた殺意こそ思い出されてしまうけれど、でも、少しでも私を心配してくれたのなら……
「だったら、やめてくれよ……本当に」
一人、呟く。現在は飛行機の中だ。今どの辺を飛んでいるのだろう……離陸してから一時間程度は経っているはずだ。
紗那も隣にいる。はじめこそ数少ない飛行機の搭乗にワクワクしていたが、今はすっかり眠ってしまっている。添乗員の人に毛布をもらったので、肩から掛けてあげる。
まだ昼間なのに、眠ってしまうものなのか。私は規則正しい生活をしてはいるので、眠くはならない……そもそも、授業中にも寝ないタイプだ。昼間は起きる。夜は眠る。そんな健康な生活を送っている。
……それが真面目ってことなのかな。紗那の言うところの。普通だとは思うけれど……普通じゃないのかもしれない。ちょっとできない部分があるのが、普通なのかもしれない。それを言ったら、私の性格なんてねじ曲がっているんだけど。
いや、化け物に取られているのか。まあ、どっちでもいい。
……いや、違うか。紗那も、疲れているのか。
私についてきて、神奈川にいるときもずっと付き添って。……私が発狂した時も、すぐそばで介抱してくれた。その心労を考えれば、この眠りは仕方のないことかもしれない。
……本当に、紗那はどうしてここまでしてくれるのだろう。何か、理由があるのだろうか。考えれば、考えるほど分からなくなってくる。私は紗那に何かを下だろうか。何か優しいことをしただろうか。何か優しい言葉をかけただろうか。思いつかない……。
あのときか? 紗那が傷を負ったときに、私が化け物を引き付けたことか? うーん……恩に、なるか? そもそも私がいなければ化け物なんていなかったわけだけど……いや、それは関係ないか。
紗那の性格だと言ってしまえばそれまでだ。紗那はとても友達思いで、私のことを本気で心配してくれているってことなら、それで結論だ。
でも、理由としてはそれで足りるか、わからない。
そもそもどうして、紗那は私に近づいたんだっけか。ええと……ああ、下足室か。紗那が私を見つけたんだっけ。よく覚えていたと思う。私のほうは面影も思い出せないほどに忘れていたというのに。そもそも覚えているほうがおかしいだろう、と。
何かで思い出したのだろうか? それとも私の顔を本当に覚えていたとか……? 何か小学生のときにしていただろうか。
小学生のときに紗那に何かしたのだろうか。中学の時はまったく違う学校だったから接点はないとして……小学生のときに、紗那に何かしたのだろうか。転校してきてから、何かしたということか……? 転校してきてから私は人間不信の性格だったから、何かをしたという気もないのだが……いじめっ子グループを口だけで撃退したことはあったか。いじめの被害者だった? そんなことまったく覚えてないけれど……紗那のほうは覚えているかもしれない。
いや、まったくそのことは関係ないのかもしれないけれど。
分からないな。人の感情って。
……もしくは紗那がよく言う責任感とか、真面目さとかか? 別に大したことでないだろうに。そんなに評価することでもないだろうに……
「…………」
紗那のほうを見る。瞼を落とし、首をこちらに傾けている。口が半開きになっている。
……本当に、お疲れさまだ。私みたいなどうしようもない奴の付き添いなんて……普通は嫌だろうに。
ありがとう。
心の中で、最大限のねぎらいをかける。お疲れさま。
……そして、今度は自分が頑張らなければいけないと考える。今度は、私が紗那を助ける番だ。早く化け物を倒して、紗那を楽にしてやらないと。紗那を――普通の日常に返してやらないと。
そのときは……私と紗那の関係はどうなるのだろう。化け物でつながったような仲だから、化け物がいなくなってしまったら、もう縁は、切れてしまうのだろうか……。
いや、そんなわけないか。紗那が許してくれない気がする。どうせ、なんだかんだで振り回されるに決まっている。
……それも、いいか。
私もそろそろ変わっていかないといけない。それが化け物を倒すことに――あの人と決別することにつながるなら。
「……さて」
考えなければいけないのは、紗那に説明したことをどうやってジャックやルートさんに伝えるか、だ。正直、普通に話して信じてもらえるとは思えない。私の脳内妄想に過ぎないのだから……私にとってはかなり生々しいけど。
証拠はないのだから。目に見える、証拠なんてないのだから。
日記でもあればよかったのだろうか。○月×日、私は化け物を生み出しました、とか。……それも証拠になるものか。それよりも霊的な胡散臭い宗教じみた言葉を並べたほうがまだ信用されるかもしれない。
申し訳ないが、宗教や呪術系に関してはまったく知らない。世界三大宗教とか、社会で習ったことは知っているが、所詮その程度だ。うんちくを並べ立てるなんて無理だ。
とすると、どうするか……頭を下げるしかないか。
その前にまず、拒絶したことを謝らないと……うう、胃が痛くなってくる。ジャックはともかく、ルートさんは本気で怖い。うまく説明しないと、というか土下座も考慮しておかないといけない。下手したら、この指を……。なんて、ない、よね? あはは……お母さんにもされたことないぞ。いや本当に。そういうのはなくて助かった。
「……もうちょっと紗那に頼らないといけないかな……ごめん、紗那。もう少しだけ手伝ってください」
なんて、寝ている人間に言ってみる。本当に身勝手なお願いだけれど……私一人の力では無理だと思うから。私の口頭格闘技も、私が逃げることしか考えてないから。相手を説得させる技は持ち合わせていない……それは紗那のほうが得意だろう。
でも、自分でも考えておかないとな……。私しか覚えていないこともいくつかあるのだから。
とにかく、向こうに着くまでにいろいろ考えておかないといけない。残りの時間は、それに充てるしかないようだった。